ボブ・ヘイズの速さを知っているか

吾輩は、ウサイン・ボルトが出現するまで、1964年の東京五輪男子100㍍で優勝したボブ・ヘイズ(1942年12月20日〜2002年9月18日)が人類最速スプリンターではないか、とずーっと思っていた。そうした中、今月14日発売の月刊誌「陸上競技」(講談社)で、連載記事「世界のレジェンド」として、ボブ・ヘイズを紹介している。

ボブ・ヘイズ(米国)〜史上最高勝率の弾丸スプリンター〜

わずか4年の本格競技歴だったが、60年代にスプリント界を席巻し、日本にも馴染み深いヘイズ。絶頂期に引退し、プロフットボールへの華麗なる転身を遂げた稀代のアスリートの生涯戦績を振り返る。

〈競技歴プロファイル〉

フロリダ生まれのヘイズは、高校時代から陸上とアメリカン・フットボール(アメフト)の二刀流で鳴らした。1961年に地元のフロリダ農工大に入学したが、陸上ではマイナーだったために、全米規模の競技会参戦は限定的だった。

本格的な全米デビューは翌年で、地区の伝統競技会参戦も増えるなか、非凡な才能を発揮し始めた。6月に敗戦を喫した以外は勝利を重ね、全米選手権の100ヤード(91・4㍍)も9秒3で制覇。一気に短距離王国の頂点に立った。米国代表として夏の北欧遠征に加わり、スウェーデンでは100㍍10秒1の自己最高を記録している。

63年は室内にも挑戦し、初戦の70ヤード(64・0㍍)で7秒の壁突破となる6秒9の世界最高を記録した。屋外でも好調を維持し、全米選手権の連覇と準決勝では100ヤード9秒1の世界タイ記録も樹立した。7月から1カ月に渡る2度目の欧州遠征で各国との対抗戦にも連戦連勝。ヘイズの勝負強さを改めて欧州に知らしめた。

競技生活の最終章となる64年は1月1日、マイアミでの100ヤード9秒1(追い風参考)で幕を開けた。室内は60ヤード(54・9㍍)で4戦連続の6秒0のあと、全米室内選手権で史上初の6秒切りとなる5秒9を叩き出した。以後8年に渡り、記録表の頂点に輝き続ける快記録だった。

ヘイズの絶好調はさらに続き、屋外では100ヤード9秒1を2度記録。熾烈な五輪選考会にも勝利して臨んだ東京五輪は、ヘイズが男子陸上の話題を独占した大会となった。100㍍世界タイの圧勝劇と、4×100㍍リレーのアンカーでの爆走は今でも語り草となっている。

この2カ月後にアメフトのダラス・カウボーイズと契約し、快走のワイドレシーバーとして栄光の実績を残している。五輪金メダリストでアメフトの殿堂入りも果たしたスペシャルなアスリートとなった。

(中略)

東京五輪の衝撃〉

ヘイズを語る上で、東京五輪の話題が欠かせない。100㍍準決勝では、追い風参考ながら国際大会初の9秒9で世界のド肝を抜いた。続く決勝は電気計時による10秒06。2位につけた0秒19の大差は、2008年北京五輪ウサイン・ボルト(ジャマイカ)が0・20秒差をつけるまでの五輪史上最大差だったが、そこにはエピソードがあった。

100㍍決勝の前に20㎞競歩の一団が3周回したので、ヘイズの走る1レーンはかなり荒れていた。しかもスパイクを選手村に置き忘れ、同じ米国の選手からスパイクを急遽借りて臨んでいた。ハプニングにも動揺せず、最高のパフォーマンスを発揮したヘイズの精神力には感嘆する。

さらなる衝撃が、4×100㍍リレーで訪れた。出遅れた米国は、アンカーのヘイズにバトンが渡った時は、首位から3㍍遅れの5番手だった。そこから圧巻の追走劇が始まり、50㍍で先頭に立つと逆に2位のポーランドに3㍍差をつけ、39秒0の世界記録でフィニッシュに飛び込んだ。100㍍のスプリットは8秒6から9の間と言われている。

この爆走に、米国メディアは「バレット(弾丸)・ボブ」や「フロリダ超特急」と最大限の讃辞を呈した。有識者の中には、東京の走りの衝撃から、ヘイズを「史上最強のスプリンター」に推す声がある。

東京五輪当時、中学1年生であったので、当然のことにボブ・ヘイズの激走はよく覚えている。また、記事の中で、やたらに100ヤードが出てくるが、この時代辺りまでは、米国の陸上競技界ではまだメートル法が浸透せず、ヤードとかマイルなどの種目で大会が開かれていた。具体的にトラックの五輪種目を記すと、100ヤード、220ヤード、440ヤード、880ヤード、1マイル、3マイル、6マイルで、メートル法の記録に慣れている欧州や日本の陸上競技ファンには、米国選手の記録は分かりにくい時代であった。しかし、メキシコ五輪が開かれた1968年以後は、現在のメートル法で競技するようになった。

ボブ・ヘイズに関して、今から考えると残念なことが3つばかりある。その一つは、本文で記されているが、東京五輪の100㍍決勝で1レーンを走ったことだ。現在は、準決勝をトップで通過した選手などは、8レーンの中ほどの3、4、5、6レーンに集めるが、その当時はそのようなレーン割りではなかった。そのために、最悪のレーンで走ることになったが、もしも中ほどのレーンを走っていれば、2位との差はまだまだ開いていたし、記録も短縮されていたはずだ。

いつか、当時の映像や雑誌を見る機会があれば、1レーンが荒れた状況になっていることが確認できる筈だ。当時のトラックでは、焼いた土を細かく砕いた土壌素材の「アンツーカー」であったので、レーンによる公平性さが担保できなかったが、1968年のメキシコ五輪では合成ゴムの「タータン」になったので、そのような不公平さは無くなくなった。

2つ目は、100㍍決勝の記録は10秒0の世界タイ記録であったが、手動計時でのタイムは9秒9であったという。そうであれば、もしもこの大会でセイコーの1000分の1秒まで正確に計測する電気計時システムを公式採用せずに、従来の手動計時であれば、ヘイズが初めて9秒台の選手になっていた。

3つ目は、陸上競技選手の環境についてだ。当時、全ての選手がアマチュア規定に縛られていたので、けして金銭的には恵まれていなかった。そのため、ヘイズのようなスーパースターも、五輪が終了すると、素晴らしい運動能力がカネに変えられるプロスポーツに流れた。それを考えると、現在のように高額賞金大会や商業収入で稼げる“プロ選手"の道が開けていれば、当時21歳であったので、もう少し陸上競技に集中でき、世界記録を大幅に短縮する機会も多かった。

ということで、東京五輪開催の開幕まで70日余りとなっても、依然としてコロナウイルスの感染拡大は収束せず、今夏の開催が心配な状況下にあるので、あえて五輪の゛華゛とも呼ばれる陸上男子100㍍の話題を取り上げた。

ところで、5月15日付け「産経妙」に、次のような文面があった。

ー池江選手に「五輪を辞退しろ」などと心ない要請をしたツイッター投稿を鳥海不二夫・東大大学院工学系研究科教授が分析したところ、興味深いことが判明した。投稿者の80%近くが、過去投稿から「リベラル系」と分類されるのだという。

左派・リベラル勢力が五輪を中止に追い込みたい背景は判然としない。だがいずれにしても、粉飾した正義で特定個人を血祭りに上げ、五輪を政治目的に利用しようとする姿は醜悪である。ー

この左派勢力の動きは予想できることで、そもそも左派勢力は当初から「東京五輪開催」反対を叫んでいた。それよりも、左派勢力の面々が、20世紀に入ってから隆盛になってきたスポーツに興味や関心が薄く、21世紀に生きていても、一つの文化であるスポーツに関心が湧かないことが不思議である。思想的な背景があるのかもしれないが、スポーツに夢中になれない左翼思考の面々は、可哀想な人たちである、と吾輩は見ている。

それから、もしも東京五輪が中止になると、サッカー、野球、テニス、ゴルフのようにプロの興行が隆盛を誇る競技は別として、五輪が最高の舞台である多くのアマチュア選手にとって、アピールの場を失うことに繋がり、将来の経済的な基盤も失うことになる。また、マイナーといわれる競技のスポーツ団体も、将来に暗い影を投げかけることになる。だから、大会関係者は、選手寿命が短いアスリートのために、何とかコロナ禍でも開催できないかと全力で努力しており、選手たちも開催されると信じて頑張っている。その努力を踏みにじる行為は、絶対に許してはならない。