利根川の地形的な歴史と風情

利根川の近辺で生活して、毎週のようにJR常磐線の電車の中や乗用車の中から利根川を眺めていると、どうしても関東地方の大河・利根川の歴史に関心を持ってしまう。そういうことで、前にも2〜3回利根川を取り上げたが、最近も書店で中公文庫「利根川隅田川」(著者=安岡章太郎、2020年1月25日初版発行)を見かけたので購入した。本書の元本は、1966年4月に朝日新聞社から出版された「利根川」で、巻末にも書かれているが作家・安岡章太郎(1920〜2013)が足をつかって利根川の流域を克明に踏査した“一種奇妙なルポルタージュ"である。

ーそのころ(※1590年)の利根川は乱流変流をきわめ、現在の江戸川と荒川とにはさまれた幅約三〇キロメートル、長さ約五〇キロメートルにおよぶ広大な沼沢湿原地帯を、でたらめに流れており、その中に大宮台地だけが島のようにポッンと浮かんでいたというから、おおかた私の眺めたミシシッピ河流域の沼沢地帯と似たようなものだったのだろう。

四百年前でさえ、そうだとすると、六百年まえ、千年まえの関東平野というのは、海と陸とが入り乱れ、北、西、南、三方の山岳地帯から流れこむ大小無数の川が、雨の降るたびに流路をかえ、乱交しながら、ダダッぴろい平野をのたうちまわって、あたり一面、沼と泥の海にしていたにちがいない。そして、そこには平将門などという水陸両棲動物みたいいな豪族が勢力をはって、関西地方から派遣されてくる支配者やら、近代装備の軍勢やらに抵抗し、さながらベトコンのゲリラのごとき活躍を示したのであろう。ー

ー家康が江戸に移ったころの利根川は、軍事的にも経済的にも、危険で邪魔っけなシロモノだった。この川を少しでも遠くの方へ押しやらなければ、江戸城はいつ水攻めにあうかもしれず、江戸の町並みは水びたしになる惧れがあった。一方、未開の原野にひとしかった関東平野に水田をひらくためにも、利根川の流れを東へ振向けることが必要だった。関東郡代伊奈備前守が父祖三代にわたってなしとげた利根川東流の大工事は、当時としては驚くべき大事業である。……この大土木事業がなければ、関東地方の水田の灌漑も運河の交通網も出来なかったし、江戸そのものが成り立たなかったはずである。

もっとも、この利根川変流は最初から計画的に、東京湾に注いでいた川を銚子の沖へフリかえたというのではないらしい。埼玉、千葉、茨城の一帯にあったたくさんの沢や川を集めて、その場その場の都合で、セキ止めたり、つないだりしているうちに、結局いまのようなかたちの流れが出来上ったということらしい。ー

ー関東は、幕府の膝下で、輪中など小規模の自衛策をこうじなくとも、ちゃんとお上で治水をやってくれるからかと言えば、そうでもない。吉田東伍博士は、

「関東の人間は洪水になれっこになっているというが、水に対して無関心だ」

と言っているが、私自身はやはりこれは関東人がカッパの子孫だからではあるまいかと思っている。「地震、カミナリ、火事、おやじ」というのは関東地方の俗諺らしいが、その中に洪水のことが一つも入っていないのは、たしかに関東人が洪水を仕方のないものとしてアキラめていたというより、泥水に浸って暮らすことを別段イヤがってもいなかったと考えられる。ー

ーそういえば利根川の「トネ」は、アイヌ語で大きな川、または湖のような川を意味する由で、先住民族エゾの残した貝塚の分布が全国三千五百ヵ所あるうち、三分の一は関東地方で発見されたものであることからも、関東の山岳部はエゾの本拠とみなされるらしい。ー

ー第一回の利根川水源遡行として知られているには、明治二十七年、群馬県の技師、警察署長、師範学校長など十七名が、人夫その他、三十九名の隊を組織して出掛けたものだが、〜しかし、この一行は実際の水源を見極めることには失敗した。それが成功するのは、ずっと後になって大正十五年八月、群馬県農務課長の一行、四十六名が第四回目に、大水上山(標高一八五〇メートル、大利根岳ともいう)に登ってからである。この探検の成功でようやく水源の状態が明らかになった。ー

ーそういえば、浜名湖で養殖されるウナギの稚魚の大部分は、印旛沼からこのあたり(※佐原)へかけたところでとれたもので、それを浜名湖で大きく育てたやつを、また逆輸入して食っている。ウナギの養殖は、この辺だって出来るはずだから、やればもうかるのに、千葉県の人間はノンビリしているから、それをやらないーーと、そんな話をどこかで聞いた。

私は、ウナギはそれほど好きではないから、養殖事業には別段の興味はわかないが、この辺で時たまとれるという鮭は一度、食べてみたい。『利根川図志』によれば、一番ウマいのは布川でとれる鮭で、それより上流へ行くと水っぽくなるし、それより下流では塩辛すぎる、とある。もっとも著者赤松宗旦は、布川の医師だから、この話はあんまりアテにならないが、要するにそのころでも布川あたりまでは海水が入ってきていたこと、鮭が利根川のかなり上流まで上ってきていたことは、たしかだろう。ー

〈本文の※の部分は吾輩が挿入〉

以上、安岡という著名な作家が、どのような切り口で利根川を文章化するのか、という面で興味があり取り上げた。日本には北から北海道の石狩川、東北では北上川、中部は信濃川木曽川、近畿は淀川、中国は江の川、四国は吉野川、九州は筑後川と、すぐに思い浮かぶ大河があるが、やっぱり利根川は特別な存在のようだ。その理由は、日本最大の関東平野の大河で、さらに江戸時代に河道を変えたというから、なおさら関心を持つ人が多い。

ところで、本書では余り触れられていないが、利根川の最大の課題はその高低差にある。例えば、取手市と河口の銚子市まで距離は76・5㌔あるのに、高低差はわずか2・15㍍しかない。そのため、利根川下流域(江戸川分流点から河口まで)を近くから眺めたことがない人は、関東一の大河であるので、水がドウドウと流れていると想像していると思うが、川というより“巨大な水溜まりが細長く続いている"という感じだ。だから、安岡氏も「もともと川は水を河口へ運んでくるだけの力しかないものを、徳川家康が地形を無視して利根川中流からネジ曲げたムリがタタッている」と批評している。さらに昭和に入って、利根川水系には50箇所以上のダムを建設したので、ますます流れがなくなった。

しかしながら、普段は広大な河原の中の川幅100メートルの水溜まりも、一昨年10月の台風19号の時のように、記録的な大雨があれば堤防幅1㌔に達する流域が埋め尽くされた(取手市の観測所ではカスリーン台風〈1947年〉における流量を超えて観測史上最高の毎秒8750立方㍍を記録)のだから恐れ入る。まさに、その時の利根川は「大利根」だの「板東太郎」といわれるに相応しい河川に変貌した。

ということで、もしも海面が10㍍上昇すれば、今から9000~6000年前の縄文時代前期と同じように、埼玉県まで海が入ることになる。それくらい、関東地方は高低差が緩い平野が広がっているということだ。

最後は、本書でも取り上げられているウナギについて触れたい。というのは、利根川下流地域には、ウナギのカバ焼が旨い「ウナギ店」が多いのだ。吾輩も以前、成田市に住んでいたこともあるので、人生この方「鰻重」を二百杯、いや三百杯以上は食べてきた。それくらい旨い「ウナギ店」が多いので、この地域を訪ねた際には、是非とも「鰻重」を食べて帰宅して下さい。