沖縄戦で戦死したアイヌ兵士は4 3人

今年10月末に北海道平取町の二風谷コタンを訪れた際、平取町アイヌ文化情報センターで書名「戦後アイヌ民族活動史」(著者=元北海道アイヌ(ウタリ)協会事務局長兼常務理事・竹内渉、2020年6月30日初版1刷発行)を購入した。この際、購入した一冊しか売り場にないので、「この本は売れているのか」と尋ねたところ、女性店員は「けっこう売れています。だいぶ売れて、もう一冊しか残っていない」と返事をした。

帰宅後、読んでみると、沖縄戦アイヌとの関わりという、非常に興味深い話しが記されていた。

〈南北の搭イチャルパ〉

戦死者の実数は、いったいどれくらいなのか判然としないが、ウタリ協会調査で判明しただけでも43名のアイヌ兵士が沖縄戦で戦死している。同協会は、1981(昭和56)年から概ね5年ごとに糸満市真栄平の「南北の搭」前で、アイヌプリ(アイヌ民族の伝統作法)でイチャルパを2005(平成17)年まで6回行った。毎回、準備の段階からあとかたづけまで、南北の搭の地元の真栄平自治会、同老人会の多大な協力があった。

1945(昭和20)年、沖縄住民の命は米軍からだけでなく、「友軍」であるはずの日本軍からも奪われていったという。糸満市真栄平も例外ではなく、当時13歳の仲吉喜行は、「死ぬのが怖くなかった。なぜなら、何人もの人が命を落としているのを目の前で毎日みていたから」と言う。こんな状況の中で仲吉は、弟子豊治と知り合った。当時の日本政府は、本土決戦の前哨戦として、沖縄でアメリカ軍を迎え撃つために、全国から兵隊を沖縄に集めていた。その中にはアイヌもいて、後に協会の理事を務めた弟子はその一人であった。仲吉は弟子を「普通の日本兵とは違う」と感じた。弟子はアイヌであるからこそ、日本兵である前にアイヌとして沖縄の人に接したのであろう。

アメリカ軍の捕虜となった弟子は、終戦となっても故郷に帰ることができずにいたが、喜行少年が調達してきた別人の軍服を着て収容所から脱走し、何とか北海道に帰り着くことができた。

真栄平地区内には地元住民、日本軍兵士、そして米軍兵士の区別がつかない夥しい数の遺骨が戦後しばらく放置されていた。とりあえず、壕に集めてはいた。地区内住民の半数以上を戦争で失うなどの壊滅的な打撃を受けた真栄平地区では、生きるのに精一杯の状況であったが、部落総会で決議し、浄財を集め1953(昭和28)年に納骨堂を建立した。

1966(昭和41)年、弟子たちは、アイヌ民芸品販売で沖縄を訪れた際に真栄平にも立ち寄り、寄付を申し出て、その納骨堂の上に慰霊搭を建立した。北から南から来た兵士も、地元住民も犠牲となっているということから「南北の搭」と刻み、弟子の所属していた部隊が「山部隊」と呼ばれていたことから、山の仲間という意味で「キムンウタリの搭」と搭の北側に刻んだ。

こうした縁から、ウタリ協会は、沖縄戦において犠牲となったアイヌ兵士の供養祭を「南北の搭」前で行ってきた。

最終となった2005(平成17)年11月の第6回には、老人会を中心に40名を超える地区の方々が、参加された。

祭司が持参してきたイナウ(木幣)等でヌササン(祭壇)を設え、仲吉が北部で調達してきた丸太でこしらえたイヌンペ(炉縁)に火をたき、アペフチカムイ(火の女神)をお迎えし、祭司がアイヌ語で、カムイ(神)に祈りを捧げた。「アイヌ語がわからなければ、日本語でもいいからカムイに祈りなさい」との指導に従い、参列者一同、日本語でウチナーグチでそれぞれ祈りを捧げた。

最後に遺族がそれぞれの戦死した先祖に一本ずつのイナウを捧げた。

以前にも書いたが、沖縄戦では沖縄県民(約14万人)に次いで多く亡くなったのは、北海道出身者(約1万8百人)である。昭和15年10月1日に実施された国勢調査では、北海道の人口は327万3千人であるので、人口千人当たり3・29人が亡くなった。また、アイヌの戦死者は43人であるので、当時の人口を約2万人と仮定して、人口千人当たり2・15人が亡くなった。それを考えると、別段差別的にアイヌが動員されたということはないようだ。

また、参考までに記すと、日露戦争に投入された陸軍第七師団には、63人のアイヌがいたことが分かっている。そのうち戦死者や病死者は8人で、勲章を受けたものは54人に上がったという。

それにしても戦後、アイヌ自身が沖縄県に慰霊碑を建立したり、供養祭を実施していたとは、本書を読むまで知らなかった。この事実を知った以上、今度沖縄県を訪れた際には、是非とも訪れてみたい。

ところで最近、アイヌに関連する本を読むことが多いが、別段、昔からアイヌに関心を持っていたわけではない。しかし、文章をネットに掲載している以上、すこしでも深層に迫った文章を書きたいと考えるのは、自然な態度と考えている。