アジア・太平洋戦争の戦没者数とその実態

吾輩は、大作家・司馬遼太郎ではないが、「あまりにも先の戦争が悲惨であるので、目を逸らしてきた」というのが逸話ざる心境であった。だから、若い頃からアジア・太平洋戦争の戦記ものを読まずにいたが、最近「日本軍兵士ーアジア・太平洋戦争の現実」(著者=吉田裕、中央公論新社刊、2017年12月25日初版)を読了して、改めて日本軍の悲惨な実態を知った。

○日本政府によれば、1941年12月に始まるアジア・太平洋戦争戦没者数は、日中戦争も含めて、日本だけでも軍人・軍属が約230万人(日中戦争期を含む)、外地の一般邦人が約30万人、空襲などによる日本国内の戦災死没者が約50万人、合計は約310万人。この約310万人のうち、1944年以降の戦没者は軍人・軍属が約201万人、民間人が約80万人であるので、44年以降に占める戦没者の割合は91%に達する。

○外国人の戦争犠牲者は、米軍の戦死者数は9万2000人から10万人、ソ連軍の戦死者数は、張鼓峰事件、ノモンハン事件、対日参戦以降の戦死者数が合計で2万2694人、英軍が2万9968人、オランダ軍が民間人も含めて2万7600人。また、アジア各地の人的被害者は推定になるが、中国軍と中国民衆の死者が1000万人以上、朝鮮が約20万人、フィリピンが約111万人、台湾が約3万人、マレーシア・シンガポールが約10万人、その他、ベトナムインドネシアなどをあわせて総計で1900万人以上になる。

アジア・太平洋戦争では、戦病死者も異常に多い。日露戦争では、日本陸軍の全戦没者のうちで戦病死者の占める割合は26・3%であるが、日中戦争では1941年の時点で、戦死者数は1万2498人、戦病死者数は1万2713人(ともに満州を除く)であるので、この時点で全戦没者の中に占める戦病死者の割合は50・4%である。その後、44年以降の戦病死者は全戦没者の中に占める割合は実に73・5%にもなる。

アジア・太平洋戦争では数多くの餓死者も出ている。軍人・軍属の戦没者数は約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究では、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリヤなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定。これに対し秦郁彦は藤原推計を過大だとして批判し、37%という推定餓死率を提示している。その上で、餓死が深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは人肉食のための殺害まで横行するようになるという。

○兵士の自決も異常に多い。1938年の憲兵司令部の資料によると、陸海軍の軍人・軍属の自殺者数は、毎年120人内外、最近10年で1230人に達している。また、硫黄島の戦闘で生き残った兵士によると、敵弾で戦死したと思われのは3割程度で、6割は自殺(注射で殺してくれと頼んで楽にしてもらったものを含む)、1割は他殺(お前が捕虜になるなら殺すというもの)、一部は事故死(暴発死、対戦車戦闘訓練時の死等)と推定している。

○「処置」などと呼ばれた傷病兵の殺害もある。1940年改定の「作戦要務令 第三部」では、退去に際して、「死傷者は万難を排し敵手に委せざる如く勉むるを要す」となった。ここでは傷病兵を後送できない場合には、自殺を促すか、何らかの形で殺害することが暗示されている。

以上、戦没者の死に方を紹介した。それにしても、やはり1944年以降の戦没者が多く、同年末に終戦を迎えていれば、戦没者の8割程度は救えたのではないか。また、戦闘ではなく、餓死で亡くなった軍人が多いことにも驚くが、ガダルカナル島攻防戦に投入された軍幹部は、「こんな悲惨な戦争、しかも補給のために苦しんだという戦争は、前例のないことだろう」という文章を書き残している。その理由として、前線部隊に無事に到着した軍需品の割合(安着率)は、1942年の96%が、43年には83%に、44年には67%に、さらに45年には51%にまで低下し、海上輸送された食糧の3分の1から半分が失われたからだ。

このような悲惨な戦争の背景には、「統帥権の独立」という問題がある。戦前の日本社会では、明治憲法の第11条が「天皇は陸海軍を統帥す」と規定していたことを根拠にして、統帥権大元帥としての天皇に属する独自の大権であり、内閣や議会の関与を許さないという解釈が一般的だった。言い換えれば、旧幕府後の新政府においては、ラグビーW杯の日本代表のスローガン「ワンチーム」を目指したが、“70年の年月"を経過すると時代遅れの国家システムになっていた。

“70年の年月"と言えば、1991年末のソ連崩壊を思い出す。当時、ソ連(1922年成立)は“69年で崩壊"したので、中国(1949年成立)の共産党一党独裁体制は、果たして“70年保つのか"と言われたものだ。しかしながら、今年建国70年を迎えたものの、国内外で香港の混乱やウイグルチベットなどの諸問題が吹き出し、さらに米国との貿易摩擦で大変な状況に陥っている。その意味では、やはり70年という年月は、無視できない経過と言える。

そこで、我が国の新憲法(1947年5月3日施行)を考えると、施行から既に70年の年月を経過した。施行後、国際環境が激変し、現在は朝鮮半島の完全非核化に向けたトランプ米政権と北朝鮮金正恩体制との交渉が続いているものの、北朝鮮には本気で核放棄する意思がない以上、憲法の一字たりとも書き換えなくて良いのか、と考えるのだ。詰まるところ、これが正常な民主主義国家のありようなのか、そして国際情勢を無視した憲法を保持して、第2の敗戦を迎えなければよいが、というのが吾輩の逸話ざる心境である。