沖縄戦の高級参謀の手記を読了して

昨年末に、柏市内の古本屋で購入(百円)した書名「沖縄決戦ー高級参謀の手記」(著者=八原博通、読売新聞刊、定価780円、昭和47年8月15日第一刷)を読了したが、これほど気が重い通読は久しぶりのことだ。著者の八原博通陸軍大佐(1902〜81年)は、1944年3月に沖縄を含む南西諸島防衛のために新設された「沖縄守備軍第32軍」の高級参謀(軍司令部では軍司令官・牛島満中将、参謀長・長勇中将に次ぐナンバー3)で、沖縄戦終結後の7月26日に身元がバレて米軍の捕虜になり、復員後は故郷の鳥取県米子市に帰った。

先の大戦に関しては、軍事指導者の先見性や想像力の欠如、政治家の無責任さ、インパール作戦のような死屍累々たる悲惨な戦場、等々の理由から“負け戦"の戦記ものに目を背けてきた。しかし2015年6月、元沖縄県警察部長・荒井退造の慰霊に、栃木県関係者と一緒に沖縄県を訪ねたことで、沖縄戦(死者数は約20万人。日本兵〈他都道府県〉約6万6千人、米兵約1万2500人に対し、沖縄県民は約9万4千人、沖縄出身の軍人・軍属約2万8千を含めると計約12万2千人)に関心を持つようになった。その中では、荒井退造の生き様や、北海道出身の戦死者数が都道府県別では沖縄県以外では圧倒的に多い1万8百余であることから、どの地点での戦闘で戦死したのか、などと考えてきた。だが、本書では特に北海道出身者の兵士のことは取り上げられていなかった。

それでは、召集された「沖縄守備軍第32軍」(約二万五千)の概要から紹介する。牛島満中将率いる「第32軍司令部」の傘下として、

○第24師団(雨宮巽中将)=約五千

○第62師団(藤岡武雄中将)=約五千

○独立混成第44旅団=約二千

○第五砲兵隊=約一千

○船舶団=約四千

兵站地区隊=約二千

○海軍陸戦隊(大田実海軍少将)=一千

○その他=五千

それに現地の防衛召集者六万五千、中等学校男子生徒より成る「鉄血勤皇隊」、女子生徒より成る衛生勤務員の合計二千が加わる。

そして第24師団の傘下には、

○歩兵第22連隊(吉田勝大佐)→原隊は歩兵第26連隊函館連隊区出身者

○歩兵第32連隊(北郷格郎大佐)→原隊は歩兵第27連隊釧路連隊区出身者

○歩兵第89連隊(金山均大佐)→原隊は歩兵第28連隊旭川連隊区出身者

ーという、北海道出身の兵士で構成された部隊があり、そのうち89連隊にはオホーツク管内(「平和の礎」の刻名数1123名)の出身兵士が多かった。

それでは、第89連隊の兵士は、どの時点から、どの地域で戦死が多いのか。それは、5月4日の軍参謀長主導での総攻撃で「師団の右翼第89連隊は、予定の如く敵線に突入、小波津北方高地斜面を進撃中」とか、「第一線は、上原高地脚にへばりついたままである」とか、「敵艦砲や迫撃砲の集中で死傷者甚大」という報告が記されているので、沖縄本島の太平洋側の戦地で多くの兵士が戦死したことが伺える。堅固な洞窟陣地から飛び出したのであるから、米軍の砲撃にさらされるのは当然のことである。

実は、米軍が沖縄本島に上陸中の4月1日の時点では、牛島中将以下軍首脳部は「持久戦の方針」(前年11月下旬決定)にいささかも疑念を抱かず、だからこそ平静に米軍の上陸を観望していた。ところが、4月4日ごろになると、大本営、関係航空軍、そして第32軍を管轄する第10方面軍(台湾軍)から「消極的」であるとの作戦干渉が始まった。つまり、上級司令部は沖縄本島にある航空基地(北飛行場と中飛行場)確保を重視していたが、米軍の上陸後に飛行場が敵の手に落ちると、突然「飛行場使用を妨害する」という当初の“持久戦術"という作戦方針を百八十度転換する「攻勢要望論」が俄然台頭してきた。これに対して、作戦立案した八原大佐だけが「過去の航空優先の亡霊に捉われた戦略思想であり、空軍的海軍的発想に基づく地上戦闘の現実を無視した誤れる戦術思想である」と言って必死になって押さえた。

このような経過を経て、参謀長の主導により5月4日の大攻勢に至ったのであるが、本書の「あとがき」では、

ー大攻勢が失敗した5月5日夕、軍司令官は直接私を呼びつけ、軍の作戦の失敗と、私の一貫した判断の正当であったことを認め、自今軍全般の作戦を私に一任する旨申し渡された。ー

と記しているが、真実は解らない。また、5月4日夜のメモ帳には憤激のあまり、次の文句を記したという。

日本軍高級将校

先見洞察力不十分ーー航空優先の幻影に捉われ、一般作戦思想、兵力配置、戦闘指導ことごとくこの幻影より発する。

感情的衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける。

心意活動が形式的で、真の意味の自主性がない。

地上戦闘に対する認識が浅い。支那軍相手や太平洋戦争初期の戦闘経験に捉われ、比較を絶する強大な火力部隊に対する心構えが乏しく不十分だ。

死を賛美し過ぎ、死が一切を美しく解決すると思い込んでいる。「武士道は死ぬことと見つけたり」との葉隠論語の主義は、一面の心理である。が、それは目的ではなく、手段である。勝利や任務の達成を忘れた死は無意味だ。

日本軍幕僚

主観が勝って、客観が弱い。自信力が強過ぎる。

戦術が形式的技巧に走って、本質を逸する。

軍隊の体験が乏しい。等々

技巧はよいがデザインは下手。感情に走って大局を逸し、本来の目的本質を忘れる。形式に生き形式に死ぬる。形式の徹底は、軍隊に必要であるが、しかし形式からは真の力が出てこない。人間として幅広さ、強さが足りぬ。人間が幼稚なのである。アメリカ軍が日本軍を評して、兵は優秀、中堅幹部は良好、高級首脳部は愚劣といったが、必ずしも的を外れた言葉とは申されないであろう。

軍の攻撃態勢ーー攻撃活動はすでに実質的に死滅し、格好ばかりの攻撃態勢となっているーーは五月四日夜からさらに五日に続いた。

戦闘中、以上の文章を記したというから、八原大佐は“優秀な将校"と考えても良いのではないか。さらに、5月4日の総攻撃を次のように総決算している。

○第24師団の戦力が3分の1以下に弱化した。

○船舶工兵2個連隊と、多数の海上挺進部隊が、ほとんど壊滅した。

○わずか2日間の攻撃で、約5千の将兵ーー精鋭中の精鋭ーーが死傷した。

○もし攻撃を実行していなかったら、軍司令部以下数万の軍隊を擁して、8月ごろまで、なお生存し得たはずではないかと悔やまれるのである。

要するに、5月4日の大攻撃は八原大佐が予想した通り惨憺たる大失敗に終わり、第32軍は兵力の半数を失うという大損害を被ったというのだ。誰が将校であっても“負け戦"になっていたことは間違いないが、沖縄戦を当初の立案通りの“持久戦"に徹すれば、悲惨な戦死者を多少なりとも減少させることができたのではないか。

このほか本書では、島田叡県知事と荒井退造県警察部長の行動や発言内容に触れているので紹介する。

ー(10月10日の空襲で)荒井警察部長の要求に応じて、第9、第62師団から救援隊を繰り出したが、敵の重爆撃下、すでに全面的に火を発した市街地はどうにもならない。ー

ー軍においては、県庁と協力し、昭和19年の7月ごろから疎開計画を立案し、一は島外疎開、ニは島内疎開に区分し、島外疎開は重点をおいて、これを実行中であった。〜荒井警察部長は、「軍隊側が戦いに勝つ勝つと宣伝されるので、住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は、景気のよい言葉を慎しみ、住民が疎開するよう協力してもらいたい」と泣き込んでくる始末である。〜結局戦闘開始までに、島外に疎開した数は、沖縄本島約10万、八重山群島約3万で、大東島の住民はほとんど全部疎開を終わった。一

ー沖縄は由来米額わずかに十数万石で不足分二十数万石は毎年台湾より移入していた。〜島田知事は、新任早々ながら非常に積極的な人で、わざわざ台湾総督府に出かけ、強談の結果、台湾米約十万袋を獲得した。ー

ー荒井警察部長は、知事や同僚が続々内地安全地帯に逃避しつつあったころ、口癖にいった。「だれも死地に立たされれば男らしく死なねばならぬ。しかし俺だってそんな立場に立つのは嫌だ」ー

ー尚家一族の訪れた後数日にして、島田県知事が荒井警察部長を伴い、お別れを告げるためにやってきた。かつての宴会の折りには、「しょっ、しょっ、しょじょじ」の童謡を歌い、幼稚園の児童よろしく無心に踊った知事、そして元気だった警察部長も、ともに今は憔悴していた。「文官だからここで死ぬる必要はない」との牛島将軍の勧告を受けて、参謀部洞窟を出て行く両氏の後ろ姿は忘れることができない。ー

ー(軍司令部の退去後)その後間もなく訪れた荒井警察部長は、「首里戦線におけるわが軍は士気すこぶる旺盛であったが、退去以後士気頓に衰えた」と所見を述べた。ー

以前から八原大佐の手記が存在することは知っていたが、運良く本書を入手することができた。だが、悲惨な戦いであり、どのように記したら良いか悩んだが、どうにかまとめることができた。書き終わって、やはり政権トップの宰相は“先見性"“想像力"“判断力"が不可欠であり、我々は同じ過ちを繰り返さないために、この“歴史の教訓"を絶対に風化させてはならないと思うのだ。