旧「シャクシャイン像」の建立の経緯

最近、千葉県柏市古書店で「アイヌ民族抵抗史」(著者=新谷行、発行所=三一書房、1972年10月31日第1版第1刷発行)を購入した。著者の新谷氏(1932〜79年、北海道小平町生まれ、留萌高校・中央大学法学卒)は、アイヌの視点による“民族史"を見つめる人物として、以前から名前だけは知っていた。読んでみると、1970年に建立された旧「シャクシャイン像」(強化プラスチック製)の建立の経緯が詳細に書かれていた。

シャクシャイン像の建設

〈観光シャクシャイン祭〉

旭川で砂沢ビツキがこの<風雪の群像>建設に対する抗議を行なった同じ一九七〇年、日高静内の真歌の丘に、アイヌ同胞が中心になって、民族の英雄シャクシャインの像が建てられた。竹中敏洋の制作による堂々とした象である。

この像が建てられる九年前の一九六一年八月、この年にはじめて行なわれようとした「観光シャクシャイン祭り」に対して、若いアイヌ同胞の中から鮮烈なアピールが発せられた。日本人はアイヌ民族の英雄を観光宣伝の材料にし、無知なアイヌ人を狩り集めて見世物扱いにしているという怒りをこめて、約五十人の青年たちは、静内観光協会に対してアイヌ祭り反対の抗議文を突きつけたのである。

シャクシャインが優勢な松前藩の軍に敗れて死んだ十月二十三日、アイヌ同胞はシャクシャインの砦跡である真歌の丘に集まって、毎年民族の戦いの歓びと悲哀を物語り合う祭りを行なってきた。一九五三年には藤本英夫(当時、静内高校教諭)や加藤三郎(病院長)らを中心とする郷土研究会「ケバウの会」が主催して、シャクシャイン三百年祭が行なわれた。「ケバウの会」は藤本が教える静内高校の生徒やOBから成っており、アイヌ同胞も多くいた。

ところが、一九六一年、この祭りに町の観光協会が目をつけ、人寄せにこれを利用しようとしたのである。いま私の手元に、静内の郷土文化雑誌と称する『シベチャリ』という雑誌がある。編集人は田中謙太郎。その第二号に、町の観光協会シャクシャイン祭を主催するにあたってのいきさつを書いているので、それをここに紹介しよう。

「静内観光協会は兎も角シャクシャインの碑の建設をおえて(この碑は一九五八年に建てられたーー新谷)、次に何をなすべきかーーいわゆる事業計画となるべき幾つかの企画案をつくる役員会がもたれたのは翌三十四年の春だった。(中略)理事に選任された町内各団体の代表者たちが集って鳩首協議の結果、曽我部氏から、札幌の雪まつりやテレビ搭建設の経験上、『静内でなければできないもの金ではできないものとして歴史的なうりものをつくるべきだ』と根本方針が打ち出され、それではと、田中謙太郎氏(理事)から『郷土研究ケバウの会が行ったシャクシャイン三百年祭を年中行事としては…』と提案された。この案には『松前藩と戦ったシャクシャインは、いわば和人の敵であるのに、われわれがお祭りをやるのはおかしい』という意見もかなり強かったが、田中・曽我部両理事は、『祭は一切彼等にまかせ、観光協会はそのPRをやるという建前をとろう。幸い彼らの無形文化保存会があるから相談しよう』と日和見派を押し切って、次の会合

にはアイヌ協会支部長・静内無形文化保存会長佐々木太郎氏や、ケバウの会から加藤三郎氏(病院長)、藤本英夫氏(高校教諭)等も出席してもらい、検討の結果、同意を得てシャクシャイン祭実行委員会が編成され、ついに民族の祭典が行われることになった。」

こうして、町の観光協会が主催し、PRしたシャクシャイン祭りが盛大に行なわれる。借り物の熊でイヨマンテを行ない、「静内駅から本町アカシヤ通り古川通りを経てウグイス谷会場に至る道路は人波で埋った」(『シベチャリ』第三号)という。更科源蔵も駆けつけてアイヌ歌謡「ピリカ・ピリカ」を採譜し、当時釧路方面を旅行中だった参議院の視察団一行も参加したというから、その“盛況"ぶりが目に浮かんでくるようだ。

こういう演出に対して、祭りの五日前、静内のウタリ協会がお祭り不参加の声明を出した。静内ウタリ協会の代表者酒折久男は、この祭りに対して、「シャクシャインの遺徳をしのぶお祭りは大いに賛成だ。しかし、そのやり方が気にくわない。観光宣伝だけに夢中になりすぎて、『アイヌの偉大を祭る』という、もともとの趣旨を忘れている。いや、本心は勇将や歴史はどうでもいいのだ。お祭りで大いにカセごうというのが主催者側の考えだ」(『週刊朝日』六一年八月二十五日号)と語っている。酒折久男や若いアイヌたちの、この祭りに対する抗議の声があがったのは当然であった。

シャクシャイン像と碑文〉

これが契機となって、アイヌ同胞の中から、自分たちの手でシャクシャインの像を建てようという話が持ちあがり、一九六九年になって「シャクシャイン顕彰会」がつくられ、竹中敏洋による前記の像が出来あがったのである。

この像は、いかにも英雄シャクシャインにふさわしい力感にあふれたもので、三百年という時間をこえて今日のアイヌ民族の誇りを表現しているが、このシャクシャイン像のすぐ横に「英傑シャクシャイン像碑文」というのが建てられている。これにはシャクシャイン顕彰会代表神谷幸一の名で、次のような文字が書かれている。

「日本書記によれば斉明の代(西歴六五〇年代)においてすでに北海道は先住民族が安住し、自からアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。

今から約三〇〇年前、シャクシャインはここシベチャリのチヤシ(城砦)を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。当時自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、松前藩政の非道な圧迫と過酷な搾取は日増につのり同族の生活は重大な脅威にさらされた。玄にシャクシャインは人間平等の理想を貫ぬかんとして民族自衛のため止むなく蜂起したが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。しかし其の志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり、此の戦を世に寛文九年エゾの乱と言う。いま、静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ、人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがとすると共に父祖先人の開拓精神を自からの血脈の中に呼び起してわが郷土の悠久の平和と弥栄を祈念する。」

アイヌ民族の戦士を顕彰しつつ、しかも日本と日本人に同化することを強いられた、アイヌの苦渋と矛盾がそのままにじみ出ているような、複雑な文章である。

しかし、この静内の地にシャクシャイン像が建立されたことの意味は大きい。像にこめられた精神をもとにして、これからアイヌ同胞がどう闘い、どう生きるか、それは何よりもアイヌ同胞自身の決意にかかっているが、私はシャクシャインの抵抗精神がいまなお生きていることを、この像建立の中にはっきりと感じるのである。

現在でもアイヌの有力な地域「新ひだか町」(旧静内町を含む、「北海道アイヌ協会」理事長の出身地)では、シャクシャイン像の建立をめぐって、アイヌ団体の中で“融和和解派"と“権利闘争派"で対立しているようだ。そのため、旧「シャクシャイン像」建立の経緯が詳細に記されたこの書物は、非常に貴重なものだ。吾輩も、旧「シャクシャイン像」の写真を3冊目の本のグラビアに掲載して、その迫力満点の像を紹介した。

以前にも触れているので詳細に書かないが、要するに少数派の地元アイヌ団体が、撤去された旧「シャクシャイン像」の再建を目指して、制作費1500万円の寄付金を集めて新「シャクシャイン像」(ブロンズ製)を制作したものの、御披露目だけで建立・設置に至っていない。そういうことで、吾輩は昨年10月に旭川市内の「川村アイヌ記念館」を訪れた際、職員らしき人物に次のような質問をした。

「質問して良いですか。新ひだか町では、旧シャクシャイン像を取り壊した後、一部のアイヌがカンパ金を集めて、新しいシャクシャイン像を制作した。その経過を知ると、アイヌ主流派の冷淡さを感じるが、本当のところ、どのくらいの人たちが旧シャクシャイン像の復刻に賛成しているのか」

これに対して、職員は言いづらそうであったが「誰も言わないが、半数の人たちは“心の中"でシャクシャイン像の再建を支持していると思う」とキッパリと答えた。

そうであろう。現在の新「シャクシャイン像」では、過去の闘争や虐げられた歴史に対する怒りが全く伝わらない。このように書くと、和人との融和・和解のために努力してきたアイヌ主流派からは“お叱り"を受けると思うが、率直な感想といわざるを得ない。やはり、杖をかざしたシャクシャインの姿は、素晴らしい芸術作品であるからだ。

改めて書くが、吾輩が新谷氏の著書を紹介したり、シャクシャイン像に触れることは、ある面ではアイヌ社会の“タブー"に触れることで、いたずらに「寝た子を起こす」という行為なのかもしれない。だが、旧「シャクシャイン像」建立の経緯などは、我々一般人も知って当然の知識である。何でも知る、そして伝えることは、健全な社会を築くためには不可欠なことと考えるからだ。