スパイ映画「クーリエ: 最高機密の運び屋」を観て

9月23日公開のスパイ映画「クーリエ:最高機密の運び屋」(英米合作、1時間52分)を、千葉県流山市の映画館で観てきた。この映画は、東西冷戦下で核戦争寸前に陥った「キューバ危機」(1962年10月16日〜28日の13日間)を、国に背いた軍人と名もなきセールスマンが、西側にもたらした機密情報のおかげで核戦争を回避することに成功したというストーリーである。

要するに、公式にはキューバ危機は、10月16日に「米空軍偵察機キューバ上空から撮影を行い、核ミサイル基地を確認」ということになっているが、当時「科学技術委員長」を務めているが、実はGRU(ソ連参謀本部情報総局)の大佐オレグ・ペンコフスキー(1919年4月23日生まれ)からの機密が端緒という。また、機密情報によって、ソ連核兵器が西側が考えていたほど多くなく、ミサイルの燃料システムや誘導システムにも問題があることが分かり、米国側の強気の海上封鎖の根拠にもなった。

それでは、いつものように映画館で購入したパンフレット(800円)を基に、映画のストーリーを掻い摘んで紹介していきたい。

○1960年6月、ペンコフスキーは駐ソ米国大使館員の後を付け、声を掛けた館員に「公使に自分の手紙を渡す」よう依頼する。その手紙には「核戦争勃発の危機を封じる手助けをしたい」という米政府への申し出が綴られていた。

○手紙を受け取ったCIA(米中央情報局)は、イギリスのMI6(英秘密情報部)に協力を要請、その際に機密資料のクーリエ(運び屋)として、東欧諸国に工業製品を卸すセールスマンだったグレヴィル・ウィンを提案。ウィンが依頼された任務とは、販路拡大と称してモスクワに赴き、ペンコフスキーから託されたソ連の軍事機密を西側に持ち帰ることだった。

○新規顧客開拓の名目でモスクワ入りしたウィンは、科学技術委員会でプレゼンを済ませた後、代表のペンコフスキーとランチをともにする。その際、ペンコフスキーは「貿易使節団と私をロンドンに招いてほしい」と要請。

○61年4月、ソ連使節団一行がロンドンを訪問した際、ペンコフスキーはCIAとMI6の幹部とホテルの一室で接触。ペンコフスキーは二人を前に「フルシチョフのような衝動的な男の手に核のボタンがあるのは危険だ。アメリカと正面から戦う機会を望んでいる」と危機的な状況を伝えるとともに、「クレムリンの動向を知らせるから、その情報を武器ではなく、平和の礎にしてほしい」と話す。

○翌日、CIAとMI6から“運び屋"を続いてほしいというペンコフスキーの依頼を聞かされたウィンは「妻子がいるんだ。誰か相応しい人物を見つけろ」と拒否。その晩、ペンコフスキーがウィンの家を訪ねて、“運び屋"を拒否するウィンを説得。結局、ペンコフスキーの「グレヴィル、君しかいない」という説得で、ウィンが覚悟を決める。

○そんな中、ソ連の最高幹部会議において、アメリカの裏庭たるキューバ核兵器の配備が決まった。第三次世界大戦になりかねない危険な決定を目の当たりにしたペンコフスキーは、秘かに機密資料の収集を開始し、そのマイクロカメラに収められたキューバ情報の数々は、ウィンの手を通じ次々と西側にもたらした。

○ペンコフスキーは、61年末からKGBに目を付けられていたが、キューバ危機の最中に身の危険を感じてウィンに連絡。ウィンは、モスクワに行くがペンコフスキーは10月22日にモスクワ市内で逮捕され、ウィンも別の場所で逮捕される。

○逮捕されたペンコフスキーは、翌63年に秘密軍事裁判で死刑判決を受けて銃殺(5月16日)された。ウィンは、刑務所暮らしの後、64年4月に釈放されてイギリスに戻る。67年には自伝を出版したが、90年に亡くなる。

そのほか、あまり詳細に書けないが、映画の中では世間で認知されていない場面として、刑務所の中で拷問されたペンコフスキーとウィンが会うシーンなど、どこまで実話なのか判断できない場面が出てくる。しかし映画である以上、鑑賞者に対して記憶に残る場面や面白くする場面などが必要であるので、いたしかたないと思う。

もう一度説明すると、キューバ危機とペンコフスキーのスパイ事件は、密接に関わっている。それくらい、今の世界の大きな事件の裏側には、情報戦というか、インテリジェンスの戦いが隠されている。ましてや、当時の世界には一触即発の危機感が漂ってただいたので、なおさら情報戦が激しくなっていた。

そんなことも知らず、吾輩も「キューバ危機」の時には小学5年生であったので、この時のことは良く覚えている。母親が「これから米ソによる核戦争が始まり、私達も死ぬかもしれない」といい、北海道の辺境に住んでいた両親が熱心にラジオ放送を聴いたことを記憶している。それくらい日本の人たちも、人類初の核戦争の脅威に怯えていたのだ。

ペンコフスキーの話に戻すと、彼の父親は、ロシア内戦で白軍の将校として戦死している。また、彼はウクライナ戦線で勇敢に戦ったので軍の世界では大変尊敬されていた。そのようなペンコフスキーは、111本のフィルムに5500もの文書(7650ページ相当)を撮影し、西側に機密情報を提供した。彼の貢献度は、西側諸国にとって計り知れなかった。そして、映画では二人の男が政治体制を超え、友情と信頼で結ばれていたことを描いて終わる゛迫真のスパイ・サスペンス映画゛であった。