日本の終戦が遅れた楽観的なソ連頼り

最近、インテリジェンス(情報収集・分析)の重要性を記した新刊書「第二次大戦、諜報戦秘史」(著者=産経新聞論説委員・岡部伸)を読了した。その中では、日本軍のシンガポール攻略、無謀なインパール作戦の背景、ダブリンとカブールからの緊急電報の中身、スウェーデン駐在の小野寺信陸軍武官からの電報、大戦下での防諜の失敗、ソ連が不法に奪取した千島列島、GHQにおける左翼勢力の影響などが記されているが、今回は「なぜ、日本の終戦が遅れたのか」を考えてみたい。

〈日本政府の重要メンバーが共産主義者たちに降伏〉

大戦末期の日本が不毛なソ連仲介に国運を賭けた理由は何だろうか。この謎を解く鍵が、英国立公文書館所蔵の「ウルトラ」のなかにあった。スイスのベルンに駐在する中国国民政府の陸軍武官が6月22日付で重慶に打った「アメリカからの最高機密情報」と題された電報があり、次のように記されていた。

「国家を救うため、現在の日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者たち(原文では日本共産党だが、日本共産党は党組織が壊滅していたため、日本に存在した共産主義者たちと訳す)に降伏している。あらゆる分野部門で行動することを認められている彼ら(共産主義者たち)は、すべての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めようとしている。日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(和平仲介を)提案している」

すなわち中国の国民政府の武官は、皇室の維持を条件に、ソ連に和平仲介を委ねようとしている日本の重要メンバーが、共産主義者たちに操られていると分析していたのである。

(中略)

〈日本の動向をつかんでいた中国武官〉

前掲の電報がベルンから重慶に打たれた日付に注目していただきたい。同日の6月22日、東京では最高戦争指導会議が開催され、鈴木貫太郎首相が4月から検討してきたソ連を仲介する和平策を国策として正式に決めた。近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣する計画だった。

奇妙にも、和平のソ連仲介策が正式決定したその日に、ベルンから「共産主義者たちに降伏した日本がソ連に助けを求めている」と報告しているのである。スイス・ベルンは日本から7時間遅れの時差があることを差し引いても、日本で国策が決まった直後に打電されており、アメリカと中国のすばやい反応に驚くしかない。

(中略)

国民政府の資料では、大戦末期のベルンには「斎○(チツン)」という武官が駐在しており、…「ウルトラ」では国民政府武官と記載されているが、大戦末期は第二次国共合作が行なわれていた時期であり、斎○が中国共産党員であった可能性もある。

〈親ソは時代の「空気」だった〉

この斎○が打ったと見られる電報には、「日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者たちに降伏している」とあるが、重要メンバーとはどの勢力を指すのか。

大戦時は陸軍とりわけ統制派が主導権を握っており、陸軍統制派と考えるのが妥当だろう。それを裏づける資料も「ウルトラ」にあった。ヤルタ会談が終わった直後の45年2月14日、ベルン駐在のポーランド外交官が、ベルンの日本外交官談話として、ロンドンのポーランド亡命政府に送った電報である。

「日本はドイツ敗戦後、中立国との外交がいっそう重要になる。ソ連との関係がカードとして身を守る保険として重要になる。日本はソ連と結合してアングロサクソンに対抗、アジアの影響力と利害を分け合う関係に変わるかもしれない。日本の軍部では、いまだに東京ーベルリンーモスクワで連携して解決する幻想を抱いている。ここでのベルリンとは、共産党政府もしくはソ連に共感を抱く政府のことである」

日本の軍部はなお日独ソの連携に幻想を抱いているというのだ。ポーランド外交官が日本公使館から聞いた情報として、この電報は打たれているので、日本の外務当局が軍部にはそのような幻想があると捉えていたとも考えられる。

もっとも、軍部だけがソ連に傾斜していたわけではない。戦前の国家総動員体制を押し進めたのは、「革新官僚」と呼ばれる左翼から転向した者たちだったことはよく知られている。親ソはいわば時代の「空気」だった。日本を代表する哲学者である西田幾多郎も同年2月11日、近衛(文麿)の首相秘書官や高松宮の御用掛を務めた細川護貞に、アメリカよりもソ連共産主義を礼賛する談話を残している。

「将来の世界はどうしても米国的な資本主義的なものではなく、やはりソヴィエト的なものになるだろう。ドイツのやり方でもソヴィエトと大差はないし、又ソヴィエトでも資本主義こそ許さぬが、それ以外のものは宗教でさえも許している有様だから、結局はああいった形になるのだろう。日本本来の姿も、やはり資本主義よりは、ああいった形だと思う」(『細川日記』中央公論社)。

(中略)

〈近衛上奏文〉

(中略)

米英は国体変革までは考えていないとし、それよりも「共産革命達成」のほうが危険と見なす近衛の情報分析は正鵠を射ていた。この近衛上奏から1ヵ月半余りのちの同年4月5日、ソ連は日ソ中立条約不延長の通告という離縁状を日本に突きつけてきた。小磯國昭内閣は総辞職し、7日に鈴木貫太郎内閣が成立すると、陸軍は本格的にソ連の仲介による和平工作に動き出した。

同月20日午後、参謀本部の河辺虎四郎次長は、有末精三第二部長を伴って外相官邸に東郷茂徳外相を訪問し、対ソ仲介による和平工作をもち掛けた。ソ連への特使としては、東郷外相か、よりによって上奏文で「親ソ気分」を批判した近衛を考えていた。

しばらくして参謀本部から、東郷外相に参謀本部第20班(戦争指導班)班長、種村佐孝が4月29日付で作成した「今後の対ソ施策に対する意見」と「対ソ外交交渉要綱」がもたらされた。

「今後の対ソ施策に対する意見」は「ソ連と結ぶことによって中国本土から米英を駆逐して大戦を終結させるべきだ」という主張に貫かれていた。全面的にソ連に依存して「日ソ中(延安の共産党政府)が連合せよ」というのである。驚くべきは「ソ連の言いなり放題になって眼をつぶる」前提で、「満洲遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対米戦争を完遂せよ」としていることだ。もしこのとおりに日本の南北の領土を差し出していれば、日本は戦後に東欧が辿ったように、ソ連の衛星国になっていたであろう。琉球(沖縄)までソ連に献上せよというのは、ヤルタ密約にすらなかった条件であり、ソ連への傾斜ぶりの深刻さがうかがえる。

また「対ソ外交交渉要綱」でも、「対米英戦争を完遂のため、ソ連中国共産党に、すべてを引き渡せ」と述べている。相互の繁栄を図るため、ソ連との交渉役として外相あるいは特使を派遣し、「乾坤一擲」を下せと進言していた。

スターリン西郷隆盛に似て〉

同じころ(同年4月)、種村の前任の戦争指導班長鈴木貫太郎首相の秘書官だった松谷誠は有識者を集め、国家再建策として「終戦処理案」を作成。やはり驚くようなソ連への傾斜ぶりで貫かれていた。松谷の回顧録大東亜戦争収拾の真相』(芙蓉書房出版)によると、「ソ連が7、8月に(米英との)和平勧告の機会をつくってくれる」と、ソ連が和平仲介に乗り出すことを前提に「終戦構想」を記している。

こうした記述からは、事前にソ連側から何らかの感触を得ていたことがうかがえる。すでに対日参戦の腹を固めていたソ連は、最初から和平を仲介する意図はなかった。にもかかわらず、日本政府がそれを可能であると判断したのは、ソ連の工作が巧妙だったからだろう。

(中略)

異常なまでの猜疑心と権力への強い執着心から、粛清を繰り返す恐怖政治を行ったスターリンは悪名高き独裁者であった。1930年代後半から始まった大粛清で処刑、獄死したのは700万人とも1000万人ともいわれている。これはヒトラー率いるナチス・ドイツホロコーストで虐殺したユダヤ人600万人を上っている。そんな残虐な独裁者のどこに人情の機微があるというのだろうか。また、「天皇制の廃止」を打ち出している共産主義と日本の国体がいかなる理由から両立できるのか。敗戦後の日本がめざすのは、米英の民主主義よりもソ連共産主義国家体制と主張しているが、それこそ亡国の道であった。

昭和天皇の聖断を仰ぐことで、日本を終戦に導いた宰相として評価が高い鈴木首相も、ソ連スターリンに対する認識は甘すぎた。対ソ交渉路線を決めた最高戦争指導会議で、鈴木首相は「スターリンという人は西郷南洲(隆盛)に似たところもあるようだし、悪くはしないような感じがする」とソ連の独裁者を維新の英雄、西郷隆盛に準えて絶賛している。その背景には松谷秘書官の「スターリンには人情の機微がある」とした「終戦処理案」の影響があったことは間違いない。

どうですか、ざーっと重要人物の思考を紹介したが、如何に共産主義ソ連に親しみを感じている人物が多かったことか。また、今から考えると、いかに情報センスと分析力の無い愚かな指導者が戦争を指導していたことか、と感じる。これらの人物は当時、優秀ということで日本を指導していたが、結果的には無残な敗北に導き、日本を奈落の底に転落させた。

それにしても、日本も英国の「ケンブリッジ・ファイブ」と同じように、エリート層にコミュニスト(共産主義者あるいは共産党員)のカテゴリーの中に入る人物が多かった。さらにソ連に対しても、情報量が絶対的に少なかった時代ではあったが、今では考えられないくらい“理想郷"と考えていたエリートが多かったことか。

ということで、長々と「なぜ、日本の終戦が遅れたか」を考えてみましたが、その背景には楽観的な“ソ連頼り"が見え隠れしていたと思う。そして、そう単純ではないはずだが、大きな要因ではあった筈だ。そのような歴史を知ると、将来にわたって絶対にロシアを信頼してはならないし、国体護持が最優先されて人命と領土を失ってはならないといいたいのだ。