陸軍第七師団の誕生とその悲惨な結末

高校時代の日本史の授業で、教師が「日露戦争で、旅順の二〇三高地を占領したのは、旭川の第七師団である」と誇らしく語ったことで、以前から“北鎮部隊"と呼ばれた陸軍第七師団の歴史には関心を持ってきた。そうした中、書店で新刊書「第七師団と戦争の時代ー帝国日本の北の記憶」(著者=北海道大学大学メディア・コミュニケーション研究院教授・渡辺浩平〈1958年生まれ〉、発行所=白水社、339ページ)を見つけたので、さっそく読んでみた。

読み応えがある本で、どの部分を抜粋するかで悩んだが、やはり最初は「日露戦争」での活躍ぶりを紹介する。

乃木希典が司令官をつとめた第三軍が旅順の二〇三高地を攻略したのは、1904(明治37)年12月5日のことである。その二〇三高地への第3回目の総攻撃ではじめて山頂に達したのが歩兵第25聯隊長の渡辺水哉と、同じく第七師団歩兵第28聯隊長・村上正路がひきいる部隊であった。

(中略)

第七師団と第一師団の残存部隊は11月30日の朝から攻撃を開始する。まず日本軍の砲弾が、二〇三高地とその周囲へはなたれた。すさまじい砲撃のあと先頭にたったのは歩兵第28聯隊長の村上正路だった。手榴弾、機関銃の猛火により、兵士は次々と倒されていく。攻撃目標たる二〇三高地、となりの老虎溝山は攻略できない。午後になり攻撃は中止となった。

12月4日に攻撃部隊が再編され、攻撃隊長についたのは、歩兵第14旅団長の斎藤太郎だった。その指揮下に、25聯隊822名、27聯隊700名、28聯隊900名余りがついた。あわせて4500名ほどの部隊だ。上記では歩兵のみを記したが、工兵もいる。日露戦争は、大砲を設営し、塹壕を掘り、陣地をかためる工兵の活躍が大きな役割をはたした。

12月5日の朝、前回同様に砲兵聯隊が高地に向けて砲弾をはなつ。各聯隊が二〇三高地を目指して侵攻した。先頭にたったのが歩兵第28聯隊の村上正路と第25聯隊長の渡辺水哉であり、それぞれ3、40名の兵をひきいて、高地に向けて突進した。まず、村上の部隊が敵の火力をかわして、二〇三高地西南角を占領した。遅れて渡辺水哉ひきいる部隊が、高地の東北部を奪取した。その後も、敵からの反撃がくわえられるが、頂上を死守した。翌日、二〇三高地に防禦陣地が設営された。

(中略)

1904(明治37)年11月末からはじまる旅順の第3回攻撃での死傷者は、第三軍の死者が5052人、負傷者は1万1883人で計1万6935人、うち第七師団の死者1982人、負傷者4224人、計6206人だ。第3回攻撃のうち第七師団の犠牲者は3割強となる。

第七師団の内訳を戦死者のみでみると、第25聯隊570人、第26聯隊542人、第27聯隊425人、第28聯隊390人となる。

(中略)

奉天会戦で日本は7万人を超える死傷者を出した。うち第三軍の死傷者は1万8千人強。第七師団の損害は戦死1061人、戦傷3546人、あわせて4607人である。第七師団の死傷者は第三軍全体の4分の1にあたる。なお、第三軍で最も多くの損害を出したのは第九師団(金沢)で、6千人を超えた。

(中略)

日露戦争を通じて第七師団の病死をふくめた戦死者は4千4百人。うち、歩兵第25聯隊が1076人だ。

そもそも第七師団は、北の守り「北鎮」としての屯田兵を母体として1896(明治29)年に札幌の東の地・月寒で誕生した。その経緯については、次の通りである。

日清戦争開戦後、最終的に近衛師団(御親兵)と6師団(旧6鎮台:東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)にくわえて、七から十二の師団が増設されることとなった。それが、第七師団(札幌)、第八師団(弘前)、第九師団(金沢)、第十師団(姫路)、第十一師団(善通寺)、第十二師団(小倉)であり、近衛師団をふくめて13個師団となったのである。

以上が、北海道において屯田兵が師団に生まれ変わった経緯だが、屯田兵はすぐに師団となったわけではなかった。日清戦争開戦時の明治28年3月4日に、臨時第七師団が編成され、26個中隊、4千名が召集された。臨時師団長をつとめたのは永山武四郎だった。翌年の5月12日に臨時第七師団が第七師団となったのだ。

引き続き、第七師団がその歴史を終える時の部隊編制を紹介する。

〈北部軍司令部と第七師団の改変〉

もう一つ歩兵第25聯隊の樺太移駐を語る際に述べておかねばならないことがある。それは、聯隊が上敷香に駐屯した翌月の1940(昭和15)年12月に、北部軍司令部が誕生したということだ。司令部は月寒の地に生まれた。司令官官邸が、いまも月寒にのこっていることは以前述べた。戦後、占領軍に接収され、独立後に北海道大学学生寮となり、現在は「つきさっぷ郷土資料館」として使われている。

すでに東部、西部、南部の司令部が誕生していた。北部軍司令部はそれから半年遅れて生まれたのである。各地域の司令部設立の目的は防空にあった。すでに1935(昭和10)年には防衛司令部が各地域にできていた。それは防空を管理する地方組織だった。その防衛司令部が5年後に軍司令部にかわったのである。軍司令部は、地方の師団をも統率した。旭川の第七師団も北部軍司令部の管理下にはいった。司令部の誕生と前後して、師団編制も変更となった。1個師団がこれまでの歩兵4個聯隊から3個聯隊となったのである。

軍司令部の設立と師団編制の改革を「昭和軍改革」と呼ぶ。軍制改革では、作戦要務令や歩兵操典も改定され、軍装も変わる。陸軍は外見的には一新した。

当時防空は最重要課題だった。樺太でも領空侵犯が幾度かおきていた。1939(昭和14)年1月にソ連機が国境線の西岸である安別を越境した。同年3月にも、ソ連機が半田を超えた。米国の動きを見ると、同年7月、日本の中国侵攻を理由に、日米通商航海条約の破棄を通告、翌年6月からアラスカのアンカレジに陸軍航空基地の建設がはじまっていた。北の空に暗雲が垂れこめてきたのである。

ここで一つだけことわっておかねばならないことがある。歩兵第25聯隊が、その師団編制の改変にともなって、第七師団からはなれた、ということである。つまり第七師団の歩兵聯隊は、26、27、28の3個聯隊となったのだ。3個聯隊制の意図は、1個師団の兵員を少なくし、その分、機械化をすすめ、師団増設を容易にするためであった。

昭和15年の改変をあらためて整理すると、北部軍司令部が月寒に誕生し、その指揮下に第七師団(旭川)や樺太混成旅団(上敷香)等がはいった。その樺太混成旅団の中軸として、歩兵第25聯隊がくわわった。その後の、北東方面の戦いとなるアッツ、キスカ、さらには、ソ連対日参戦後の樺太の戦い、千島列島の初戦となる占守島の戦いも、この北部軍司令部(当時の名称は、後身の第五方面軍司令部)が指揮することとなる。南樺太の戦いは、この歩兵第25聯隊が拡大した第八十八師団(師団長:峯木十一郎)がになうこととなるのである。

つまりソ連の対日参戦において、満蒙の地でソ連軍を迎え撃つのは関東軍だが、千島、樺太においては、月寒の地が司令塔(第五方面軍司令部)の一つとなり、樺太では歩兵第25聯隊の後継の第八十八師団が対峙することとなるのである。

最後は、第七師団の「主人公」である「歩兵第25聯隊」(8月17日に樺太の逢坂で聯隊旗を焼く)などが、聯隊旗を焼いて消滅する状況を紹介する。

旭川にあった第七師団司令部に帯広への移駐が命ぜられたのは1944(昭和19)年3月のことだった。司令部は帯広へ、歩兵第26聯隊は近郊の音更へ、第27聯隊は釧路に、第28聯隊は北見へとうつった。第七師団の任務は、道東の沿岸部に防塁を築くことである。決戦は中標津の計根別平野等が想定されていた。

(中略)

第七師団歩兵第27聯隊が軍旗を焼却したのは8月28日、東釧路地方の天寧高原だった。歩兵28聯隊の軍旗は北見で焼かれた。しかしそれは、明治天皇の親筆のあるものではなく、新たに下賜されたものだった。一木支隊が捧持し、ガダルカナルでうしなわれいたからだ。

道東にあった歩兵第26聯隊は、終戦間近、第五方面司令部から緊急の召集をうける。ソ連軍の上陸を想定し小樽への出動が命ぜられた。列車で札幌に向かい、月寒の兵舎にはいった。が、出動命令はおりることはなかった。第26聯隊の聯隊旗は月寒神社の境内で焼却されることとなる。それをもって、第七師団の旧4聯隊の軍旗はすべてうしなわれた。屯田兵を出自とする師団は、その歴史を閉じることとなったのである。

北海道出身者の戦死者が約11万人とされている中で、駆け足で「大日本帝国」最強と謳われた第七師団の歴史を紹介してきたが、最後は最強ゆえに常に最激戦地に投入されて、誠に悲惨な状況で消滅した。いつものことであるが、終戦間近での樺太と千島列島での戦況を知ると、ただただ悲しみと同時に、怒りの感情しか沸き起こってこない。その理由は、当時の政治指導者の“愚かさ"しか見えず、国際情勢に対する把握力と認識力が全く欠如しているからだ。だから、この時代の歴史本は、これまで避けてきたのだ。

ところで、最近ロシアのプーチン政権は、なりふり構わず第二次大戦期のソ連の行動を正当化する目的で、日本を貶める情報戦を出している。その背景には、欧州でナチス・ドイツだけでなくソ連にも第二次大戦勃発の責任があると批判され、プーチン政権は歴史認識に神経質になっているからだ。それくらい、欧米諸国では、スターリン体制下での国際条約違反や残虐行為を追求している。日本も、日ソ中立条約を破って対日参戦して樺太や千島列島を占拠したことや、戦後にはシベリア抑留で約5万5千人が犠牲になったことを忘れてはならない。

さて、皆さんの中にも知床半島の中ほどの知床峠を通った人もいると思うが、そこに立つと目の前というか、眼下にクナシリ島(国後)が見える。あの間近の島々が、当時の政治指導者の“外交音痴"のために、今に生きる私達が苦しんでいる。吾輩も、いつかは樺太や千島列島に行くことができると、微かな希望を持って生きてきた。しかし、健康で生きられる年月が後10年ほどと考えると、その希望が叶えられる可能性は非常に低くなってきた。

だが、樺太と千島列島の奪還を望んで生きてきた吾輩としては、死ぬまでその希望は失いたくない。その背景として、最近の国際情勢が激変し、日本に追い風が吹いている感じを受けるからだ。奪還に至る経緯は、楽観過ぎるので伏せるが、もう少し国際情勢の把握に努めていきたいと考えている。