旭川市と宇都宮市との共通点・軍都

ネット(北海道新聞)によると、6月2日に旭川市内中心部の1・5キロで、マーチングバンドの祭典「第86回北海道音楽大行進」が開催(沿道には約14万8千人)された。参加者は、園児から社会人までの98団体・約3900人であるが、ピークだった1969年(昭和44年)には1万200人を数えたという。

我が輩が、この大行進に注目したのは、この催しが戦没者の霊を慰めようと、1929年(昭和4年)6月5日開催の「北海道招魂祭大音楽行進」がルーツということだ。この催しについては、数年前の動画で、遠軽高校吹奏楽部が参加していたので知ってはいた。しかしながら、催しの背景や経緯は全く知らなかった。

実は最近、この催しを母親(昭和4年生)に尋ねると「少女時代、親戚一同で、旭川市の催しを観た記憶がある。生田原(遠軽町)からゴザを持って、汽車で旭川に行ったが、なぜ、この催しが札幌ではなく、旭川なのかと思っていた」と言うのだ。だから、旭川近辺の人たちには、それなりに昔から有名な催しであったようだ。

翻って我が輩が昔住んでいた宇都宮市も、旭川市と同じように昔「軍都」(陸軍第14師団)であった。当時、親しくしていた社長が「宇都宮市旭川市は、似たところがある。先ずは、軍都ということ。さらに、地理的にも、宇都宮市は首都・東京の北方百キロに、同じく旭川市も道都・札幌市の北方百キロのところに所在する。だから以前、同じ立地条件ということで、旭川市に支店を開設したことがある」という話しをしてくれた。

ここで、再び軍都・旭川市に相応しい“世にも不思議な話し"を紹介したい。この話しの出どころは、沖縄戦の著書がある作家・田村洋三氏の著書「彷徨える英霊たちー戦争の怪異譚」(中公文庫、2015年初版)である。その第一章に、「亡霊部隊の帰還」という文章があるので、その内容を紹介する。

時は1942年(昭和17年)、九州・熊本の陸軍第6師団と並んで最強を謳われた第7師団には、中核部隊として第26、第27、第28の各連隊が存在した。そのうち、第28連隊(約4000人)の中から、敵前上陸部隊として2502人の選抜部隊が編成(一木支隊)され、5月14日に旭川の兵舎から出征した。だが、一木支隊は、最後は4個中隊916人の少人数になり、8月21日のガナルカナルの戦いで全滅(916人のうち777人が戦死)した。

ところが、同じ日の深夜、亡霊になって、一木支隊は旭川の兵舎に帰ってきた。先ずは、衛兵当番に出てた小玉洋一郎兵長(その後、沖縄戦で戦死)の「部隊接近!衛兵整列!」の声に、営門内の衛生所にいた控歩哨(7人)が反応した。その中の一人・目黒隆上等兵(その後、沖縄戦で戦死)は、生前、周りの戦友に下記のように語ったという。

営門からの「部隊接近!」に続く「軍旗入門!」の小玉兵長の大声を受け、衛生司令の軍曹は直ちに「整列!」と号令した。衛生所前で目黒上等兵を含む6人の控歩哨が背の高い順に右から横一列の執銃(小銃を持っての)整列を終えた時、ザクザクと靴音を立てて部隊が営門を入って来た。衛兵司令の「頭右ッ」の号令で捧げ銃をしながら、目黒は目の前を通り過ぎる兵士の姿に驚いた。

まず、どの顔も能面とも言うべき無表情で、まるで生気がなく、どす黒かった。しかも、不思議なことに誰一人として見覚えのある顔がないのだ。さらに小玉兵長同様、彼らの下半身がずぶ濡れなのに気づいた。

目黒は「何か変だ」と思った。他の衛兵たちも一様にキツネにつままれたようなキョトンとした表情をしていたが、お互いそんな疑問を確かめ合う余裕はなかった。

衛兵の前を通り過ぎた帰還部隊の隊列は、連隊本部の吹き抜け通路を通過すると左折、第二線兵舎の方へ先を争うように入って行き、パッと消えたように見えた。

衛兵司令も、おかしいと感じたのだろう。「解散」の命令を下すと同時に「よしッ、俺は巡察してくる」と懐中電灯を持ち出し、目黒上等兵に「おい、目黒歩哨係、俺と一緒に来いッ」と命じた。

二人が帰還部隊の後を追うように行った第二線兵舎は明かり一つ見えず真っ暗で、森閑と静まり返っていた。二人は懐中電灯を照らし、冬季を除いて開放してある兵舎の玄関から中に入ったが、人っ子一人いなかった。人影はもちろん、話し声一つ、物音一つしないのだ。何ということだ、たった今、帰営の兵隊が先を争うように入って行った兵舎なのに、こんなに人気がない静けさとは!帰還した兵隊は、どこへ消えてしまったのか?

目黒は背筋に冷たい水を浴びせられたような思いがして、ゾクゾクッとした。この時、初めて「さっき見た部隊は亡霊ではなかったか?」との疑念が湧いた。その後、どうして衛兵所に戻ったか、後に衛兵司令と何度も話し合ったが、この間の記憶だけが二人とも霞が掛かったようにおぼろで、どうしても思い出すことが出来なかった、と言う。

著書には以上のように記載されているが、著者は「昭和戦争に造詣の深い読者の皆さんはすでに御存知だろう」とも書いているので、この話は全国的にも有名な話しのようだ。しかしながら、我が輩のように、先の戦争から目を背けてきた者には、全く知らない話しである。

この話しに説得力があるのは、亡霊部隊を見た人が多いことだ。先ずは、衛兵7人が150人前後の部隊を目の前で見ている。さらに、兵舎に北海道立旭川中学校の5年生が体験入隊、不寝番訓練に服務し、その中の立硝不寝番が夜中、ガタガタという物音や話し声を聞いて、兵隊の群れが兵舎に入って行くのを見ていることだ。そのため、この亡霊部隊帰還の噂は、当時人口10万人の旭川市内にまで凄い速さで伝わった。そこで、第7師司令部と歩兵第28連隊本部は、その噂話を制止することに躍起になったという。

というわけで、旭川市宇都宮市の共通点、軍都に関連する話しを書いた。しかしながら、現在では軍都と言われた都市からは、軍都を象徴する道路名や地域名を変えたという話しを聴く。例えば、宇都宮市の現「桜通り」は、昔「軍道」と言われていた。確かに、先の戦争が悲惨であるので、その記憶を消し去りたいということは理解出来る。だが、地域の歴史を研究した者には、受け入れることはできない。なぜなら、地域名には、その地域の特徴や歴史が隠されているからで、その意味では簡単に地名を変えてはならないと考えるからだ。

いずれにしても、我が輩にとっては、旭川市宇都宮市は、何かと縁のある街である。その意味では、国防上という観点からも、さらに地域の中心として、共に特徴ある都市として発展して欲しいのだ。