遠軽高等女学生たちの学徒動員解明に向けて

吾輩は母親(昭和4年生まれ)から、戦時中に北海道滝上町の木材工場で戦闘機の合板作りに動員されていた、という話しは昔から聞いていた。もう少し詳しく記すと、

○木材工場には、遠軽高等女学校の生徒1クラス(60人)のほか、旧制の遠軽中学校(父親が在籍)と稚内中学校の生徒各1クラス(昭和4年生まれ)が参加していた。主体は昭和4年生まれであったが、遠軽中学生の場合には、1学年上の生徒15人ほども参加していた。また、同学年の他の女子クラスは、下湧別の何かの工場に行ったが、埃が凄くて多くが肺病になり、途中で引き上げて来た。

○動員期間は1年くらいで、頭に「女子勤労挺身隊」と書かれた鉢巻きをした。それは、女工さんと区別するためでもある。生活の場所は寮で、食事は皆と一緒であったが、食事内容はダイコンメシなどが多く、ひもじかった。

○動員前には、将校が女学校を訪れて、「滝上町濁川の木工場で合板作業をしてもらう」という説明があった。

吾輩もトシを取ると共に、当時の学徒動員の実情を知りたくなった。そうした中、5月31日に滝上中学校の同級生と後輩が上京して来たので、前述の内容を伝えたところ、後輩がすぐに地元と連絡を取り、「当時、北見総合木材という工場があり、約200人くらいが働いていた。近所の人とは、隔離されていた」と説明してくれた。

帰宅後、ネットで調べると、下記のような文章を発見した。

ー昭和11〜17年に、北見市に馬場昌久という人物が、馬場酒造店を経営していた。17年廃業後「工場はベニア工場になって、戦争末期には国民学校高学年になった私も勤労動員で搬出などの手伝いにいったことがあります。」

この馬場酒造店廃業後の工場は、ベニア工場に転用され、「北見航空木材」という会社になったようですが、詳しい資料がありません。ただ「北見市史」年表編の昭和18年7月の項には「北見地方の合板工場、このころ航空機のプロペラ、舟艇用材の製作に忙殺される。」とあります。なお、戦後は「北見総合木材株式会社」となりました。ー

さらに6月13日、遠軽町教育委員会に電話を入れ、戦時中の学徒動員について問い合わせたところ、電話に出た男性が「本町の郷土館に在籍している職員は、昨年春に遠軽高校を定年退職した人なので、私より詳しいと思う」との返答があった。すぐに、郷土館に電話をしたところ、元教員(社会科教諭)の職員が「戦時中、旧制遠軽中学生が、学徒動員されていたことは知っています。遠軽高校に在職中、図書館の資料の中に、学徒動員された人たちが作成した小冊子を見たからです。作成したのは、25年前くらいであるので、書いた時には皆さん65歳前後になっていた」という返答であった。

続いて、当日の夜に、滝上町の同級生に前述の話しを伝えたところ、翌日の昼頃に、前日対話した職員から「今日の午前中、遠軽町滝上町の幹部から連絡があった。さっそく、遠軽高校に出掛けて資料を借り受け、滝上町の関係部分30ページをコピーして送付した」との連絡があった。それに対し、我が輩が資料のページ数を聞くと、「百ページ以上ある」とのことであったので、改めて「全ての資料を見たいので、コピーして置いて欲しい」と要望した。

ということが一連の経緯であるが、滝上町遠軽町などの関係者が関心を持ったことで、今後更なる調査が進むと期待している。そこで、遠紋地区の学徒動員の実情を書籍化出来ないものかと考え、文章力と取材力に優れた元新聞記者の友人に伝えたところ、当人も非常に関心を持ってくれた。

だが、書籍にするとなると、学徒動員に至る背景や、北海道軍部の動き、さらに稚内高校まで取材しなければならず、それはそれは大変な作業になる。吾輩も友人と一緒に動くつもりであるが、地元の資料や協力がないと無理な作業であるので、どんな事になるのやらという心境でもある。でも、是非とも書籍化したいとは考えている。