北海道佐呂間町に存在した「栃木歌舞伎」

ネットで、北見市の日刊紙「経済の伝書鳩」(7月9日付け)を見たところ、年1回発行の地域文芸誌「文芸北見」(第48号、246ページで価格は1250円)の内容が掲載されていた。その中に、「岡田祐一さん(札幌市)の郷土史佐呂間町栃木歌舞伎の盛衰ー川島平助が地域と共に歩んだ五○年』は、足尾銅山鉱毒事件で廃村に追い込まれた栃木県旧谷中村の村民の一部が、現在の佐呂間町栃木に移住し、大正2年から50年にわたって取り組んだ『栃木歌舞伎』の歴史をまとめた。」と記されていた。そこで、さっそく北見市の「事務局」に電話を入れて、文芸誌を郵送して貰った。

我が輩が、旧谷中村民が佐呂間町栃木地区に移住したこと知ったのは、宇都宮市に居住していた時である。栃木県の地元紙「下野新聞」が、「とちぎ20世紀」という企画で、栃木県の重要な出来事百件を取り上げて、連載で報道していた。その中の58回目に、「谷中村民の佐呂間移住(1911)」(2000年2月27日付け)というタイトルで、この歴史的な事実を伝えていた。

それでは、文芸誌に記された主要な部分を抜粋・引用して、移住先での生活状況や「栃木歌舞伎」の存在意義などを紹介したい。

○谷中村村長・茂呂近助を含む66戸・約240余名は、明治44年(1911)4月7日に栃木県を出発、札幌・旭川を通り12日に陸別着、旧池北線で野付牛まで来て、さらに用意された馬橇で留辺蘂まで。その後は、瑞穂・共立・栄と歩いて21日佐呂間町若佐に到着した。ところで、池田・野付牛間の鉄道が開通したのは、その半年も後の明治44年9月25日であった。北見駅の開業も明治44年9月25日であり整合しない。このことを調べたところ、北見までは工事中の建設列車、その資材を運ぶ屋根ない貨物車に乗って来たのである。

○入植者66戸の中から1年足らずで20戸が離農する。そのため開拓が計画通りに進まない懸念があるとして、大正2年(1913)に第2次募集をし栃木県から32戸が入植した。ところが、その直後更に20戸の離農と8戸の除名者を出した。98戸の入植に対し、わずか3年間で半数近い48戸が離農した。

○そうした中、母県で歌舞伎一座の団員(17〜25歳)として経験を積んだ川島平助を中心に、栃木歌舞伎集団が形成され、栃木歌舞伎が始まったのは大正2年の秋である。以来、春4月21日・秋10月21日の祭典に演じるだけではなく、技量の素晴らしさから北見市湧別町、旧端野町、旧留辺蘂町からまで公演を依頼されるようになる。

○栃木歌舞伎は、他のそれにはない卓越した特色を持っていた。その第一は地域挙げての歌舞伎集団であった。…栃木歌舞伎は始まりから終演まで、他の農村歌舞伎に引けを取らない卓越した農村歌舞伎集団となった。…川島平助の作成台本で、現在に残る最も古いのは大正3年作である。残る142冊は偶然に残ったに過ぎない。

○栃木歌舞伎は、戦時中も出征家族慰安会などで演じられ、戦後は昭和22年(1947)には再開された。そして、最後の公演は昭和35年4月21日の入植五○周年記念式典の日である。この記念式典は、栃木小学校で挙行され、来賓として栃木県知事代理・横川信夫、下野新聞社長・福嶋武四郎夫妻をはじめ町関係者、地元民など三百人以上が参列した。

○川島平助は、大正6年から合わせて17年間にわたって村会議員を務めた。注目されるのが、昭和12年に自ら中心となり「渡良瀬川遊水地施敷地貸下願」として、栃木県知事宛てに帰郷請願運動をしている。翌13年にも再度試みられたが実現はしなかった。請願運動はその後も続き、昭和46年に4度目の誓願を提出したことで、翌47年3月、6戸の帰郷が実現した。(川島平助は昭和36年3月20日、88歳で亡くなった)

○栃木歌舞伎については、我が国の歌舞伎研究の諸氏(早大教授・郡司正勝、「新版・歌舞伎辞典」の著者・冨田鉄之助)からも高い評価を受けている。また、「語り継ぎたい日本人」の一人に、東京以北で唯一「開拓地に咲いた川島平助の歌舞伎人生」として、財団法人モラロジー研究所から刊行されている。

以上、旧谷中村民が移住したオホーツク海沿岸の入植地で、郷土芸能として「栃木歌舞伎」が花開いたことを紹介した。おそらく、栃木県民も佐呂間町移住のことは知っていても、「栃木歌舞伎」のことは知らないと思う。そして、現在の栃木地区に暮らす22世帯約90人のうち、4世帯だけが移住者の家系という。

ところで、抜粋した文章の中に、帰郷請願運動として、昭和46年に4度目の誓願提出という部分がある。ということは、昭和46年に、我が輩の先輩が、帰郷請願一行を宇都宮駅まで出迎えに行ったことになる。つまり、先輩が栃木県庁に勤めていた時、県庁幹部から「君の故郷近くから、帰郷請願のために県庁に来る人たちがいるので、駅まで迎えに行って欲しい」と言われたというのだ。

それにしても、栃木県庁に、遠軽高校を卒業した先輩が就職しているとは、考えてもいなかった。この先輩は、昭和9年生まれで、高校卒業後、都内の大学を卒業して栃木県庁に奉職した。初めて会った時は、退職直後で県庁の関連団体に勤めていた。当時、同世代の友人・知人が、道庁や遠軽町役場の幹部に就いていたので、随分と故郷の話しを聞かせてもらった。だから、なおさら宇都宮時代は懐かしいのだ。