またまた鉄道の歴史に詳しい明治学院大名誉教授・原武史が、2月21日付「朝日新聞」土曜日別刷の連載「歴史のダイヤグラム」で、戦時中に大作家・吉村昭(1927~2006)の身の回りで起きた出来事を、時刻表から分析・推測している。
◇
〈吉村昭に切符を渡した駅長〉
昨年8月、栃木県の那須岳の麓にある大丸温泉の一軒宿を訪れた。都心に比べると気温が10度近く低く、高原の空気が心地よかった。
那須岳の周辺にはこの大丸温泉のほかに北温泉、高雄温泉など、ひなびた温泉地が点在している。いまでは営業が廃止されている旭温泉もその一つであった。
戦時中の1944(昭和19)年5月のことだ。勤労学徒として東京の軍需工場で働いていた17歳の吉村昭が、作業中に高熱を発した。肺結核を患っていた。
「結核にはこれと言った治療法はなく、清らかな空気の地で静養する以外にないとされ、私は那須温泉からさらに山奥に入った旭温泉におもむいたのである」(『東京の戦争』)
宿に着いて3日目の8月の午後、郵便配達が来て電報を渡した。そこには「ハハシス スグカヘレ チチ」と記されていた。子宮がんのため東京・日暮里の実家で療養していた母が亡くなったのだ。
すぐに身支度をととのえて宿を出た。濃霧の立ち込めるなか、山道を下ってゆく。湯元の近くから出ていた木炭バスに乗り、那須の玄関口に当たる東北本線の黒磯駅に向かった。駅に着いたときにはもう夕方になっていた。
「駅の切符売場の前には長い人の列が出来ていて、座っている人も多かった。翌朝売り出される乗車券を入手しようとしている人たちであった」(同)
この列に並んだとしても、明朝までは列車に乗れない。しかも切符の枚数が制限されていたので、買えるかどうかもわからなかった。
一大決心をして列から離れ、駅の事務室の扉を開けた。そして駅長に向かってこう言った。
「母が死にました。家に帰りたいのです」
電報を差し出すと、駅長は無表情のまま駅員を呼んだ。そして「上野駅まで一枚、この中学生に渡してやってくれ」と命じた。
運賃を支払い、駅長に無言で頭をさげた。駅長は黙っていたが、人情味のある好意に胸が熱くなった。
当時の時刻表によれば、吉村昭が乗ったのは盛岡7時38分発普通上野ゆき128列車だったに違いない。黒磯発は18時27分で、上野には22時23分に着く。もちろん超満員であった。
上野で降りて山手線に乗り換え、日暮里で降りた。実家にたどり着くと、すでに通夜も葬儀も終わっていたことを兄から知らされた。
「今でも乗車券を渡してくれた駅長の顔を、はっきりおぼえている。細面の黒いふちの眼鏡をかけた、四十年輩の人であった。/乗車券の枚数はきびしく制限されていて、即座にその場で渡してくれるようなことは、軍関係者の重要な所用のある人以外になかったのではあるまいか」(同)
◇
同日の朝、購読している3紙(朝日、読売、産経)を読んでいると、さっそく吉村昭研究会の桑原文明会長からメールがきた。
ーおはようございます。今朝の朝日新聞・土曜版「歴史のダイヤグラム」(原武史)に、吉村昭氏の『東京の戦争』が写真入りで紹介されています。原氏は以前にもこの欄で吉村氏の著作を引用されています。5か所の引用文は全て原典と一致しています。ただし、電報文「ハハシス スグカヘレ チチ」ですが、当時は濁音は二字文と計算され、料金の関係で、「スクカヘレ」とするのが一般的であったと思います。金のある吉村家では、そんな考慮はされなかったのでしょうか?他の文章でも、濁音は使っております。ー
2024年7月10、11日の連休、桑原会長と深谷事務局長の二人を誘って、吉村昭が若き日に湯治した奥那須の「北温泉」旅館(一泊二日)に行って来た。それに関しては、同年9月1日に「吉村昭が湯治した奥那須の北温泉旅館」と題して書いたが、父親の電報を受けてわずか3日間で湯治を打ち切り、急遽帰宅したことは知っていたものの、何時何分の列車に乗って、東京・日暮里には何時何分に着いたことまでは関心を持たなかった。だが、原氏はそんな小さなことにも注目して調べるのだから、流石というべきなのかもしれない。