「承久の乱」は日本史のターニングポイント

最近、新刊書「承久の乱ー日本史のターニングポイント」(著者=本郷和人・東大史料編纂所教授、文春新書)を読了し、1221年の「承久の乱」が日本史のターニングポイントであることがよくわかった。だが、吾輩はどうしても、郷土の勇士・平将門のことを思い浮かべてしまう。そこで、まずは現在の歴史学者による、歴史学における中世国家論の議論を紹介しよう。

歴史学者の世界では、中世の日本を2つの大きな見方でみています。まず、天皇が中心にいて、日本は一つにまとまっていたと考えるのが、黒田俊雄さんが唱えた「権門体制論」です。日本の最高権力者である天皇上皇を中心とした「王家」と、それを支える権門(権威のある門閥、家柄、集団)として、政治を司る「公家」(貴族)、祭祀を執り行う「寺家」、そして、治安維持を司る「武家」がそれぞれ存在していたという考え方です。それぞれの「家」には得意なところ不得意なところがあるので、それぞれが欠点を補いながら(「相互補完」)、最終的には天皇を支えている。それぞれの権門の支配力も、最終的には王家の権威に裏づけされているかどうかが重要だ、という議論です。だから鎌倉幕府の支配の正統性は、天皇によって頼朝が将軍に任命されたことによって担保されている、と考えるのです。

それに異を唱えたのが、佐藤進一さんの「東国国家論」でした。この論は単純明快で、日本の権力は一つじゃない、という考え方です。そこでは鎌倉幕府と朝廷はそれぞれが独立した存在で、「相互に不干渉」で自立した権力だと論じます。

私は「東国国家論」の立場に近いのですが、 相互不干渉は言い過ぎだと考えています。幕府も朝廷もお互いのあり方や影響力を無視できなかった。相互に干渉しながら、二つの王権が存在したと考える「二つの王権論」(私の師である五味文彦氏の説)を唱えており、本書もその視点に立脚しています。ちなみに今の歴史学界では「権門体制論」が圧倒的な多数派です。なぜかというと、天皇が将軍を任命するのであって、逆ではない。それゆえに天皇と将軍は上下関係にあると、理解する人が多い。この表面的な相互関係を重視すると、権門体制論が妥当に見えるのです。表面ではなく実態こそ大切だ、とする私は少数派です。しかし、学問は多数決で決まるものではありません。

それはともかく、こうして比べてみるとおわかりのように、権門体制論は朝廷の立場、東国国家論は幕府の主張と、それぞれ重なり合います。

歴史学者の中で、中世国家論が2つに別れて議論されていることを知ったが、吾輩は本郷教授の論をとる。その理由は、源頼朝がつくった鎌倉幕府は「源頼朝とその仲間たち」の政権で、そして「武士の、武士による、武士のための政権」という「東国」独自の政権であるとの解説に納得したからだ。というのも、平将門の動きも「平将門とその仲間たち」という武力集団で、「東国」独自の風土に裏づけされた集団と考えるからだ。つまり、将門が「新皇」(新しい天皇)と名乗りはじめたが、当時としては、ある面では「東国」の権力者が求める当然の帰結なように感じたからだ。その背景には、現在の我々が想像していないくらい、「東国」と「西国」は違う力学で物事が動いていたのではないか。

改めて記すが、将門の本拠地は下総国(千葉、茨城、東京など)で、短期間で坂東一帯(北関東)を支配下におさめた。また、源頼朝も同じく短期間で関東地域をおさめて鎌倉幕府を開いた。将門が亡くなったのは840年で、承久の乱との時間差は281年である。つまり、「東国」は281年後でも、「西国」と違う権力機構が動いていたのではないか。だからこそ、源頼朝は、京都に都を開かないで、鎌倉に幕府を開いた。

一方、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府の実権を握っていた北条義時の追討を命じたのは、当時の鎌倉幕府の実態が「北条義時とその仲間たち」なので、義時を討つことで鎌倉幕府を否定した。つまり、後鳥羽上皇の命令は、武士政権の否定であるし、武士のトップである将軍を上皇に忠実な従者とする目的があった。ところが、義時は将門とは違い、逆に幕府軍一万数千で、上皇軍千七百を全面降伏に追い込んだ。

義時の戦後処理は厳しく、朝廷の最高実力者・後鳥羽ら3上皇流罪にし、さらに後鳥羽上皇の側近の貴族たちを次々に処刑した。その結果、ヤマト王朝以来、朝廷を中心として展開してきた日本の政治を、この乱以後、明治維新に至るまで、実に約六百五十年にわたって、武士が司ることになった。

なんだか、本郷教授の解説と吾輩の見方(平将門)で、ごちゃごちゃになった感じだ。本郷教授が「本が売れない」と嘆いているので、皆さんも協力する意味で、この本書を購入してみては如何ですか。面白い歴史書であることは間違いと思う。