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江戸時代の「ウナギ道」のお話し

一昨日、柏市の「手賀沼と松ヶ崎の歴史を守る会」主催の歴史講演会に参加した。講師は、相原正義先生(78歳、元北海道教育大学教授、中央学院大学講師)で、演題は「手賀沼地域の農業と漁業と人々の暮らし」であった。色々と面白い話しがあったが、今回は“ウナギ道"の話しを紹介します。

江戸時代以来、ウナギというと関東では「手賀沼の代名詞」で、味も良かった。このほか、利根川下流のウナギも評判が良かった。そこで江戸時代、茨城県霞ヶ浦や北浦産のウナギを含めて、現在の柏市布施から流山市加村河岸までの間、馬の両側にそれぞれ60㌔の荷として運んだ。距離は14㌔、時間は3時間、途中に「生き」を保持するため、中間で水をかけて冷やした。

言い伝えでは、この方法での輸送は1757年から始まった。それ以前は、利根川上流の関宿から江戸川を下って江戸・日本橋に輸送していた。ところが、浅間山噴火などの影響で、利根川の河底上昇により輸送が困難。そこで、馬による最短距離での陸送に変えた。更に同時期、関東地方で良質の醤油(野田や銚子か)と味醂の生産が始まり、“蒲焼き"という食い方が開発され、江戸での消費が増えたという事情もある。

値段はどうか、現在と比べると相当に安かった。記録が残っている明治40年代、ウナギはキロ(1匹250㌘前後のものが一番高値で取引された)当たり53銭、白米10㌔=1円53銭の時代である。当時、利根川右岸を稚魚シラスウナギが黒い塊となって遡上してきたので、子供たちはすくい上げて遊んでいたとの事。

それでは、どこの産地のウナギが旨かったのか。先ずは、秋に産卵のために川から太平洋に戻る途中の「しも下り」と称する利根川産で、現在の東庄町(笹川)ら銚子市(松岸)の流域。次いで、「地下り」という埼玉県の越谷、春日部(粕壁)付近の品で、明治時代は「しも下り」をしのぐ逸品とされた。更に見沼産。そして、手賀沼産ということのようだ。

さて、話しは変わる。講演会は2時間半あり、途中、トイレ休憩があったので、講師に声を掛けた。私が「自分は遠軽高校出身者ですが、先生は何年くらい北海道教育大学に勤めていたのですか」と尋ねた。講師は「8年間、北海道教育大学の函館校に勤めていた。そう言えば、自分のゼミ生の中に遠軽高校卒の学生がいた。優秀であったが、ちょうど就職難の時だったので、希望がかなわず地元にかえり、町役場に就職した。ゼミ生の中で教師になれたのは2〜3人であった」と残念そうに話をした。

いつも、新たな人と出会うと感じる事は、“世間は狭い"と言うことである。