遠軽町の人口が2万人の大台を割った

北海道遠軽町の人口が、11月末に2万人の大台を割り1万9990人となった。今年度(4月末は2万105人)もジワジワと減少していたので、2万人という大台を割ることは時間の問題と考えていたが、いざ現実化すると何とも言えない気分になった。というのは、現在の人口が昭和4年(1929年)ころと同じ規模であるので、人口に関しては約90年前に戻ったことになるからだ。そこで、過去の人口推移と、将来の課題を考えたいと思う。

まずは、現在の遠軽町の行政区域を確認したい。その理由は、遠軽町は過去に、分村や合併を繰り返し、最初から同じ広さの行政区域ではなかったからだ。最初の遠軽町は、大正8年4月1日に、紋別郡上湧別村から分村して「遠軽村」(昭和9年4月1日町制施行)として始まり、行政区域は現在の広さと同じで、人口は1万5554人であった。大正14年1月1日には生田原村、昭和21年8月1日には丸瀬布村と白滝村が分村し、その後は3町1村体制で遠軽地域の自治を運営してきた。

平成に入ると、行政のサービス維持・向上、効率化のためとして、全国の市町村がこぞって合併を進めたが、これを「平成の大合併」(1999〜2010)と呼ばれる。これを推進した総務省の誘いは「特例債の発行を認める」というもので、要は「合併すれば公共事業が増える」という政策であった。ご多分に漏れず、旧「遠軽町」の3町1村も合併を受け入れて、再び平成17年(2005年)10月1日に、新「遠軽町」が誕生した。

次いで、遠軽町の人口推移(国勢調査)を掲載するが、その数字は現在の「遠軽町」の行政区域に置き換えたものである。

○大正9年=1万7492人。

○同14年=1万7080人。

○昭和5年=2万419人。

○同10年=2万4008人。

○同15年=2万7688人。

○同22年=3万3545人。

○同25年=3万5845人。

○同30年=3万8592人。

○同35年=3万8755人。

○同40年=3万6916人。

○同45年=3万3330人。

○同50年=3万785人。

○同55年=3万428人。

○同60年=2万9444人。

○平成2年=2万6735人。

○同7年=2万5769人。

○同12年=2万4844人。

○同17年=2万3648人。

○同22年=2万2265人。

○同27年=2万873人。

というわけで、昭和35年をピークに一貫して人口減少が続き、現在はピーク時の半分近くまで減少している。この大幅な減少の背景としては、少子高齢化に伴う自然減の拡大が最大の要因であるが、特に遠軽町のような地方では、その傾向が顕著に見られる。

続いて、遠軽町が作成した資料「人口ビジョン」(平成27年12月)を参考に、今後の人口推移を予測したい。そこで、まずは子供(0〜14歳)の人口がピークであった昭和30年を起点に、それ以降の人口推移と学年別に置き換えた人数を示したい。

○昭和30年=15002人(一学年平均1000人)。

○同35年=13360人(同891人)。

○同40年=10843人(同723人)。

○同45年=8531人(同569人)。

○同50年=7690人(同513人)。

○同55年=6914人(同461人)。

○同60年=6914人(同407人)。

○平成2年=4671人(同311人)。

○同7年=3922人(同261人)。

○同12年=3421人(同228人)。

○同17年=3075人(同205人)。

○同22年=2751人(同183人)。

ということで、人口のピークは昭和35年であるが、子供人口のピークは昭和30年であることがわかる。それと同時に、この半世紀で人口はおよそ半分に、子供人口は6分の1まで減少したことがわかる。

このほか、子供人口がピークだった昭和30年は、子供の一学年数は平均1000人であったが、55年後の平成22年には183人まで大幅に減少している。つまり、子供の一学年平均値は、既に8年前に遠軽高校の定員数200人を下回っている。

要するに、遠軽町の自慢の高校「遠軽高校」の生徒数が、今後も少しずつ減少していくことが明らかになっている。生徒数の減少は、学校自体の活力が失われ、必然的に遠軽地域の活気も失われる。それを防ぐ方法は、他の地域からの生徒確保であるが、この対策をおろそかにすると、過去に全国大会出場を果たしている吹奏楽ラグビー及び野球の部活動は“過去の栄光"になる。その意味で本年7月、地元の企業が越境入学した生徒を受け入れる下宿先(入居者数18人)を建設したことは、その面では先取りした動きと思う。

ところで、遠軽町は人口減少ペースに歯止めがかかない状況の中で、町としては将来的に「最低1万五千人以上を維持」という目標を立ているようだ。しかしながら、昨年度の出生数が122人であることを考えると、悲観的にならざる得ないが希望は持ちたい。また、当然のごとく地方交付税も減少していくので、今後も町独自の特効薬を見つける努力は必要である。さらに、将来的には複数の自治体にまたがる「域内」連携で行政を進めることも必要である。このほか、若者が住みやすく、若者に視線を向けた街づくりも絶対に欠かせないテーマである。要は、これからが“活気ある町存続の本番"となるのだ。