沖縄戦で散った宇都宮市出身の教育者・内田文彦

8月10日付けの「下野新聞」が、「沖縄戦ひめゆり学徒隊を率い、多くの教え子と共に26歳の若さで戦場に散った宇都宮市出身の教員・内田文彦(1919〜45年)を顕彰しようと、郷土史家・塚田保美さん(85)が『沖縄からの手紙』を自費出版した」という記事を掲載した。一昨年から元沖縄県警察部長・荒井退造の功績に関心を持ってきたので、さっそく地元の友人を通じて本を入手(千円)した。

先ずは、内田文彦の経歴から紹介したい。

職業軍人の父・敬三郎(宇都宮中学、陸軍士官学校卒)の長男として、大正8年1月3日に宇都宮市に生まれる。兄弟は、長女・淑子(大正10年生)、次男・邦武(大正13年3月9日生)、三男・陸郎(大正15年生)、四男・昭輔(昭和5年生)がおり、本人は目が悪かったので教育者の道に進むが、それ以外の男子は陸軍幼年学校に進む。ちなみに、淑子も陸軍将校と結婚した。

○宇都宮中学入学後、父親の転勤に伴い仙台第一中学に転校。4年の時に肋膜炎で半年入院し、一年休学後に宇都宮中学に編入・卒業(昭和12年)した。

東京高等師範学校、東京文理科大学教育学科を卒業(昭和18年8月31日)し、同年9月30日付けで沖縄師範学校女子部助教授を命ぜれる。実は、松本師範学校への話しもあったが、弟の邦武(少尉候補生)が半年前の3月19日、台湾・基隆沖に於いて、乗船していた「高千穂丸」が米潜水艦の魚雷攻撃で撃沈・戦死した。そのためか、弟の最後の場所に近い沖縄を敢えて選んだという。

那覇市には、11月29日に到着し、それ以後は3日あけずに、主に父親に84通もの手紙で近況を知らせている。その手紙の束は、全て弟・昭輔宅に保存されているという。

それでは、日付順に、私の心に残った文面を紹介したい。

○当地に来て一番困るのは言葉です。標準語は年寄りの外はよく通用しますが、方言になると何を云っているのか全然分かりません。…当地で目につくのは人力車の多い事です。

○県内唯一の専門校の助教授であり実に愉快です。…若い文理大出身の先生と云うので、生徒は好奇と尊敬を以て私に接して居ます。

○(弟・陸郎宛)部下から信頼される上官になれ、指導者は全塊からほとばしり出た人格の結合でなければならぬ。

○文理大の学生主事教授の話では、沖縄師範の校長は年齢も低く最も将来性のある人だとのこと。…出身は同じ文科一部です。…私自身文理大出身と云う事を決して鼻にかけず、へりくだった態度で上官同僚に接し、且つ生徒と共に行軍し運動している事等が、校長部長の気に入ったのかもしれません。

○女の生徒は女の先生に叱られると涙をこぼしますが、男の先生なら涙をこぼしません。女性の心理は不可解です。…生徒も時々遊びに来ます。…淑子から度々御忠告に接しますが、父上、母上、家の事を考えると、又自分の一生を考えると、夢にも間違った事は許されません。

○私の同級生も羨望され海兵や陸幼に入学した者は、ほとんどが散華してしまった。…福島師範に奉職した同級生も、名誉の戦死しました。

○素直という二文字が一番大切だと思います。…教育は力ではありません。愛の力です。愛と道のみが真に生きる教育者の総てです。

○もう授業は殆ど出来ません(昭和19年6月27日)。…授業は半永久的に不可能です(7月31日)。…私はどんなことがあっても、女子師範教育に生涯を捧げたい気持ちで一杯です。

昭和19年9月19日以後の手紙は、三通しか届いていない。

○私は本島を去る決心です(10月25日)。

○従って無許で届のみを提出して帰国するのが最上の方法です(12月10日)。

○私の擔任生徒は、心から私を信じて慕って呉れます。道と愛、皇國精神と教育愛、此が教育者たる唯一の資格です(昭和20年3月1日)。

著書には、昭和20年に入り、文彦の考えが一変し、教え子を残して帰れないと云って、いくら帰省をすすめられても、応じようとしなくなったという。この背景には、野田校長が「全国高等師範学校長会議」に出席するために上京した後、毅然として帰校したことと関係があるようだ。仲宗根成善先生が「帰って来なくても良かったのではないですか」と云うと、野田校長は「建物は壊れても再建することは出来るが、人の心は一度壊してしまったら再建することは出来ない。それで帰って来ました」と言ったという。その後、野田校長は沖縄戦が始まると、師範学校男子部で組織する「鉄血勤皇隊」を率い、6月下旬具志頭村ギーザバンダ海岸で戦死した。

野田校長を尊敬していた文彦は、沖縄に残る決心をする。そして、沖縄戦では、動員教師として、ひめゆり隊(3月23日動員)の第二外科学徒56名の統括と連絡調整にあたった。亡くなったのは、6月23日で、喜屋武海岸で自決したと推察されている。

それにしても、沖縄戦では、まだまだ知られていない逸材が、多数亡くなっているようだ。7月末に開催された討論会で、元宇都宮高校長・斎藤氏が「退造の功績をたたえても、本人は“ただ自分の責務を果たしただけ"と言うであろう」旨発言していたが、内田先生も“自分の責務を果たしただけ"というのか。つまり、自分に与えられた職務に対する“責任感"は、宇都宮中学の教育理念「瀧乃原主義」から発露されたものなのか。この「瀧乃原主義」は、明治35年6月に着任した笹川種郎(臨風)校長が、同窓会報に「瀧乃原主義とは何ぞ」を発表したもので、最も重要視した点は“人格形成"という。それを知ると、今後も宇都宮高校出身者には期待してしまう。

最後は、著者の塚田さんにお礼を述べたい。素晴らしい上梓、おめでとうございます。今後のご活躍も期待します。