桐生選手の日本新記録「9秒98 」を考える

陸上競技ファンであるので、昨日の桐生祥秀選手の「9秒98」には驚いた。何故なら、前日の準決勝の記録も悪く、世界陸上以後の体調も万全ではないと伝えられていたからだ。だから、陸上男子百㍍で日本勢初の9秒台である「9秒98」を樹立したことに驚いたのだ。

それにしても、焦らせに焦らせてくれたものだ。その理由は、桐生選手が2015年3月28日の競技会で、3・3㍍の追い風参考記録ながら9秒87の快記録で走っているからだ。国際陸上競技統計者協会会員の野口純正氏の研究によると、追い風3・3㍍での9秒87は、追い風2・0なら9秒96に相当し、追い風1・5㍍でも9秒99が出た計算になるという。それを考えると、既に一昨年から9秒台の記録を出す力があった。

それでは、この「9秒98」は、どのような意味があるのか、新聞記事から説明したい。

○世界では、過去に125人が10秒の壁を破っているが、ほとんどがアフリカにルーツをもつ選手。例外は10年に20歳で9秒98、9秒97を出した「白人初」のクリストフ・ルメートル(仏)、15年にアジア出身選手として初めて9秒99を出した蘇炳添(中国)ら数人しかいない。

○9秒台をマークした選手の国・地域別では、米国が最多の50人で、続いてジャマイカ16人、英国9人、ナイジェリア8人、トリニダード・トバコ6人、南アフリカ5人、カナダ4人、フランス3人である。

○アジアでは、ナイジェリアからカタールに国籍変更した2人とジャマイカから国籍を変えたバーレーンの2人、そして蘇炳添の計5人であるので、桐生選手は黄色人種としては2人目となる。

という訳で、今回の「9秒98」は驚くような記録ではない。過去の日本短距離界を振り返ると、1935年には吉岡隆徳が当時の世界記録に並ぶ10秒3を出し、64年には飯島秀雄が当時世界トップクラスの10秒1の日本記録を樹立している。また、98年12月に樹立された伊東浩二の10秒00は、当時世界歴代27位の記録だった。

現在の日本短距離界を見ると、五輪や世界陸上の四百㍍リレーでは、メダルを獲得するなど、常に上位入賞している。それを考えると、既に十年前に一人くらい9秒台の記録を出していても不思議ではなかった。つまり、遅すぎた9秒台と言える。

その背景には、以前から指摘している日本の陸上競技場の欠陥がある。つまり、多くの陸上競技場のホームストレートが向かい風になる。そのために「9秒台」を目指す選手たちは、トラックや風の条件が良い大会や海外のレースに積極的に参加した。この動きに対して、一部専門家が批判しているが、致し方ないと思う。

新聞紙上では、桐生選手の9秒台樹立を受けて、堰を切ったように9秒台が相次ぐのではないかと期待しているが、やはり黄色人種の日本人にとっては、9秒台の記録は大変な記録と思う。水を差すようだが、これからも9秒台が続出とはいかないと思う。それだけに、今回の桐生選手の9秒台は価値があると考えている。

最後は、桐生選手の肉体面や精神面を紹介したい。桐生選手には、他のスプリンターと異なる特徴があるという。一つは臀部上部の筋肉がかなり盛り上がっている。もう一つは、足首の硬さで、両足のかかとを地面につけて、しゃがめない。つまり、和式トイレの時のような(足首を曲げて)かがむ姿勢がきついという。硬い足首を強靭なバネのように使い、一瞬で地面にパワーを伝える。アフリカ系選手と共通する技術という。精神面では、「重圧に弱い」。つまり、今回の大会では、重圧がなく、無心で、何かのために走ったので実力を出したようだ。土江コーチも「無欲に走れたかな」とコメントしている。その意味では、もう少し精神面を鍛える必要があるようだ。

いずれにしても、短距離選手のピークは二十代前半であるので、21歳の桐生選手は、東京五輪の20年までには、もう少し記録を短縮できると思う。個人的には、「9秒90」まで短縮できると見ているが、どうか。

過激派の内ゲバ犠牲者数は113人

筆者は、以前から過激派の内ゲバで亡くなった人数に関心があった。そんな中、古本屋で「検証 内ゲバ〔PART2]」(発行=2003年1月31日、著書=いいだもも、藏田計成ほか、発行=社会批評社)という本を見つけ購入した。先ずは、内ゲバの犠牲者数を解説した文章から紹介する。

(1)党派内・分派闘争

①ブント内分派闘争(69年)……1名

中核派内ゲバルト(69年)……1名

京浜安保共闘内粛清(70年)……2名

連合赤軍内粛清(71〜72年)……12名

革労協(社青同解放派)内分派闘争(80〜90年代)……9名

(2)党派間・党派闘争

①民青による対革マル派の死亡者(71年)……1名

②マル青同の襲撃による死亡者(75年)……1名

中核派による対革マル派の死亡者(70〜90年代)……48名

革労協派による対革マル派の死亡者(70〜90年代)……23名

革マル派による対中核派、対革労協派の死亡者(70〜80年代)……15名

計113名(『検証 内ゲバPART1』小西誠論文)

この数字が意味する特徴点や問題点を要約しょう。

革共同中核派革共同革マル派内ゲバによる犠牲者が際立っていること。

革マル派革労協派の内ゲバがそれに続いていること。

革労協派内部の内ゲバでも多くの犠牲者を出していること。

連合赤軍の場合は、指導部による組織内粛清であること。

連合赤軍を含めた上記四党派以外の他の新左翼諸党派は、数字でみる限り「肉体的抹殺」を前提とした内ゲバを基本的には回避していること。但し、すぐ後で述べるようにその思想的政治的な内ゲバ体質はすべて同根・同質であること。

内ゲバによる重軽傷者延べ数は、上の数字を数十倍、数百倍の規模で上回るだろうということ。

新左翼諸党派の内ゲバが全面化した時期は、60年代後期から開始された「70年安保・沖縄・全共闘運動」とその後の「三里塚闘争」の激闘の中で、階級闘争史上未曽有の街頭武装闘争の高揚期を背景としていたこと。しかし、中核派革マル派内ゲバは70年代初期〜90年代前期にかけて、また、革労協派対革マル派内ゲバは70年代前期〜90年代前期にかけて、実に20〜30年の超長期にわたる死闘として展開されたこと。

やはり、百人以上の活動家が、尊い命を失っていた。以前、過激派関係の本を読んだ際、「犠牲者数は105人」という数字を見た記憶があるが、正確な数字を把握出来ないでいた。それが「総計113人」ということがわかった。

昔、公安機関の知人が「内ゲバの現場写真を見たことがあるが、それは酷いものだ。確実に殺すために、頭を集中的に襲っているので、脳みそや目の玉が飛び出し、それは悲惨なものだ」と説明した。また、内ゲバで重傷を負った活動家については、「暑い夏場に、内ゲバで重傷を負った活動家の自宅を訪ねたことがある。母親が出てきたが、本人は寝たきりの状態で、玄関口から布団が見えた。あの暑さの中で、つつきりで看病していることを考えると、母親が気の毒になった」と話してくれた。

いつも疑問に思うのは、何故に二十世紀になって、多数の人たちが「マルクス・レーニン主義」という“カルト"に引き寄せられたのかということである。筆者から見れば、旧ソ連、中国、北朝鮮の政治や経済を勉強すれば、共産主義体制が理想の国家でないことは理解できたハズだ。例えば、共産党一党独裁、唯一前衛党という考え方、そして政敵を「スパイ」「敵の手先」として粛清する人権無視の政治体制をだ。ところが、田舎者で多少利口ぶっている人や、想像力が欠如している人が、引き寄せられたようだ。

最後に、著書の結合として「内ゲバ廃絶のための私たちの提案」が掲載されているので紹介したい。

内ゲバが激しかった70年代から、すでに30年余が経過しつつある。その間に、おびただしい血が流された。死んだ人たち、傷ついた人たち、「廃人」となった人たち、心身「障害者」となった人たち、自殺した人たち。その数は、ある種の「戦争」ともいえる数である。

内ゲバは、これら人々の未来を断ち、その時間を、言葉を、日常を奪い、その心と身体を壊してしまった。のみならず、内ゲバはその家族、その地域の人間関係を同じように奪い、壊してしまった。

それは、新左翼の全党派を巻き込んでいたばかりか、日本共産党をも含む日本の左翼運動を覆ってきた「悪業」ともいうべき問題である。その意味で内ゲバは、人間の解放をめざすはずの左翼運動のモラルの崩壊であり、その思想的破綻と退廃・荒廃のあらわれである。この結果、民衆の中に、左翼への絶望と離反を生み、これを忌避する心を育て、今日にいたる左翼運動・社会運動の崩壊的危機の主体的要因となってきた。

見事な説明、分析である。それにしても、多数の尊い命が失われてしまった。合掌!

全国紙の発行部数は想像以上の水増し

先月発売の月刊誌「文芸春秋」(8月号)に、「新聞は『対読売一強』で大再編せよ」という記事が掲載されている。本稿を記すのは、現役の新聞社幹部とOBで構成される有志集団「プロジェクトP」で、販売店、ネット時代、新聞経営者、不動産経営などの問題点を解説している。その中で、全国紙の“実売部数"には驚いた。そこで、先ずは新聞発行部数に関する解説から紹介したい。

○日本新聞協会は、2016年の総発行部数(朝刊夕刊セット、朝刊単独、夕刊単独を合算)を4327万部としている。ピーク時は1997年で、5377万部と比較すると、約2割減っている。

○「朝刊夕刊セット」の部数は2000年の1818万部から、2016年には1041万部にまで急落。4割以上も減らしている。

○日本ABC協会が発表した2016上半期平均の朝刊合計部数(カッコ内は、そのうち「夕刊合計部数」の数)は、▼読売=901万(275万)▼朝日=658万(212万)▼毎日=309万(90万)▼日経=273万(138万)▼産経=157万(46万)である。

○「押し紙」(新聞社が販売店に押し付ける「在庫」のこと)は、朝刊単独で売られている部数の「4割から5割」が含まれている。それを考慮すると、全国紙の発行部数は次のように推定出来る。▼読売=588万〜651万▼朝日=435万〜480万▼日経=205万〜219万▼毎日=199万〜219万▼産経=102〜113万である。

要するに、全国紙5紙の“実売部数"は、最大700万部も水増しされている可能性があるという。これが真実であるならば、日本の統計数字は、全く信じられないと世界が見ると思う。

筆者は、以前から世界の新聞発行部数のランキングを見て、日本の根強い民主主義に誇りを感じた。そのランキングでは、全国紙が欧米の民主主義諸国の上位にある。例えば、ドイツのビルト/B.Z.265万、アメリカのウォール・ストリート・ジャーナル237万、ニューヨーク・タイムズ186万、イギリスのザ・サン217万などよりも上位で、各国別発行部数でも、日本4424万に対して、アメリカ4042万、ドイツ1578万、イギリス862万、フランス616万、イタリア299万部である。ところが、全国紙の発行部数は“印刷した部数"で、個人宅や駅売りで“販売した部数ではない"というのであれば、北朝鮮、中国、ロシアの経済統計を笑えなくなる。

さらに、日本の新聞業界の厳しい現状も解説している。例えば、販売店の場合、販売部数の減少と「織り込みチラシ」の減少で苦境にある。1999年には全国に2万2311店あった新聞販売店は、14年には1万7609店。つまり、15年間で約4700店、2割以上が消滅した。従業員数もピーク時の96年(約48万人)に比べ、14万人も減っているという。

このほか、ニュースを伝える「媒体」としての新聞のライバルは、今はネットメディアという。この分野のことは詳しくないのでコメントしないが、メディアは国民の判断材料を提供する以上、何らかの打開策を打ち出して欲しいものだ。

話を戻すと、全国紙の発行部数が、これほど水増しされているとは、想像もしていなかった。もしかしたら、多くの新聞記者も知らない可能性がある。そうであるならば、新聞経営者も隠しておきたい数字であるのかもしれない。それを考えると、新聞業界の経営状況は、世間が考えている以上に、厳しい現状にあるのかもしれない。

沖縄戦で散った宇都宮市出身の教育者・内田文彦

8月10日付けの「下野新聞」が、「沖縄戦ひめゆり学徒隊を率い、多くの教え子と共に26歳の若さで戦場に散った宇都宮市出身の教員・内田文彦(1919〜45年)を顕彰しようと、郷土史家・塚田保美さん(85)が『沖縄からの手紙』を自費出版した」という記事を掲載した。一昨年から元沖縄県警察部長・荒井退造の功績に関心を持ってきたので、さっそく地元の友人を通じて本を入手(千円)した。

先ずは、内田文彦の経歴から紹介したい。

職業軍人の父・敬三郎(宇都宮中学、陸軍士官学校卒)の長男として、大正8年1月3日に宇都宮市に生まれる。兄弟は、長女・淑子(大正10年生)、次男・邦武(大正13年3月9日生)、三男・陸郎(大正15年生)、四男・昭輔(昭和5年生)がおり、本人は目が悪かったので教育者の道に進むが、それ以外の男子は陸軍幼年学校に進む。ちなみに、淑子も陸軍将校と結婚した。

○宇都宮中学入学後、父親の転勤に伴い仙台第一中学に転校。4年の時に肋膜炎で半年入院し、一年休学後に宇都宮中学に編入・卒業(昭和12年)した。

東京高等師範学校、東京文理科大学教育学科を卒業(昭和18年8月31日)し、同年9月30日付けで沖縄師範学校女子部助教授を命ぜれる。実は、松本師範学校への話しもあったが、弟の邦武(少尉候補生)が半年前の3月19日、台湾・基隆沖に於いて、乗船していた「高千穂丸」が米潜水艦の魚雷攻撃で撃沈・戦死した。そのためか、弟の最後の場所に近い沖縄を敢えて選んだという。

那覇市には、11月29日に到着し、それ以後は3日あけずに、主に父親に84通もの手紙で近況を知らせている。その手紙の束は、全て弟・昭輔宅に保存されているという。

それでは、日付順に、私の心に残った文面を紹介したい。

○当地に来て一番困るのは言葉です。標準語は年寄りの外はよく通用しますが、方言になると何を云っているのか全然分かりません。…当地で目につくのは人力車の多い事です。

○県内唯一の専門校の助教授であり実に愉快です。…若い文理大出身の先生と云うので、生徒は好奇と尊敬を以て私に接して居ます。

○(弟・陸郎宛)部下から信頼される上官になれ、指導者は全塊からほとばしり出た人格の結合でなければならぬ。

○文理大の学生主事教授の話では、沖縄師範の校長は年齢も低く最も将来性のある人だとのこと。…出身は同じ文科一部です。…私自身文理大出身と云う事を決して鼻にかけず、へりくだった態度で上官同僚に接し、且つ生徒と共に行軍し運動している事等が、校長部長の気に入ったのかもしれません。

○女の生徒は女の先生に叱られると涙をこぼしますが、男の先生なら涙をこぼしません。女性の心理は不可解です。…生徒も時々遊びに来ます。…淑子から度々御忠告に接しますが、父上、母上、家の事を考えると、又自分の一生を考えると、夢にも間違った事は許されません。

○私の同級生も羨望され海兵や陸幼に入学した者は、ほとんどが散華してしまった。…福島師範に奉職した同級生も、名誉の戦死しました。

○素直という二文字が一番大切だと思います。…教育は力ではありません。愛の力です。愛と道のみが真に生きる教育者の総てです。

○もう授業は殆ど出来ません(昭和19年6月27日)。…授業は半永久的に不可能です(7月31日)。…私はどんなことがあっても、女子師範教育に生涯を捧げたい気持ちで一杯です。

昭和19年9月19日以後の手紙は、三通しか届いていない。

○私は本島を去る決心です(10月25日)。

○従って無許で届のみを提出して帰国するのが最上の方法です(12月10日)。

○私の擔任生徒は、心から私を信じて慕って呉れます。道と愛、皇國精神と教育愛、此が教育者たる唯一の資格です(昭和20年3月1日)。

著書には、昭和20年に入り、文彦の考えが一変し、教え子を残して帰れないと云って、いくら帰省をすすめられても、応じようとしなくなったという。この背景には、野田校長が「全国高等師範学校長会議」に出席するために上京した後、毅然として帰校したことと関係があるようだ。仲宗根成善先生が「帰って来なくても良かったのではないですか」と云うと、野田校長は「建物は壊れても再建することは出来るが、人の心は一度壊してしまったら再建することは出来ない。それで帰って来ました」と言ったという。その後、野田校長は沖縄戦が始まると、師範学校男子部で組織する「鉄血勤皇隊」を率い、6月下旬具志頭村ギーザバンダ海岸で戦死した。

野田校長を尊敬していた文彦は、沖縄に残る決心をする。そして、沖縄戦では、動員教師として、ひめゆり隊(3月23日動員)の第二外科学徒56名の統括と連絡調整にあたった。亡くなったのは、6月23日で、喜屋武海岸で自決したと推察されている。

それにしても、沖縄戦では、まだまだ知られていない逸材が、多数亡くなっているようだ。7月末に開催された討論会で、元宇都宮高校長・斎藤氏が「退造の功績をたたえても、本人は“ただ自分の責務を果たしただけ"と言うであろう」旨発言していたが、内田先生も“自分の責務を果たしただけ"というのか。つまり、自分に与えられた職務に対する“責任感"は、宇都宮中学の教育理念「瀧乃原主義」から発露されたものなのか。この「瀧乃原主義」は、明治35年6月に着任した笹川種郎(臨風)校長が、同窓会報に「瀧乃原主義とは何ぞ」を発表したもので、最も重要視した点は“人格形成"という。それを知ると、今後も宇都宮高校出身者には期待してしまう。

最後は、著者の塚田さんにお礼を述べたい。素晴らしい上梓、おめでとうございます。今後のご活躍も期待します。

非正規教員の多さは放置できない

読売新聞は、8月19日付けと6月27日付けで、公立小中学校の非正規教員の多さと、給与の低さを大きく報道した。筆者も、この現実を見過ごせないので、文章を作成することにした。先ずは、非正規教員の実態を紹介したい。

○全国の教員定数は58万1357人(16年度)、このうち4万1030人が臨時的教員で、定員の約7%を占めている。

○臨時的教員の割合が高い都道府県は、沖縄県15.5%、奈良県12.4%、三重県12.3%、宮崎県11.7%、埼玉県11.7%で、低いのは東京都1.4%、新潟県3.1%、福井県3.8%、長崎県4.2%、富山県4.7%である。

○給与は正規教員の5〜8割程度で、育児休業は原則取れず、通勤手当や扶養手当は出ない地域もある。

さらに、個別の事象を紹介すると、

富山県の小学校の臨時教員(30歳代後半)は、午前7時過ぎに登校して、帰宅は午後10時前後。給与は正規教員の6割強で、昇給の見通しもなし。

熊本県茨城県など38都県は、給料表とは別に条例や内規などで上限を設けている。そのため、鹿児島の給料表の最高は月40万5600円だが、規定により20歳代後半の給料と同程度の月22万1200円を上限としている。

○教員歴10年で九州地方の臨時的教員女性(40歳代)の年収は、上限の約250万円。そのため「低収入のため自分の子供は就学援助を受けている」と嘆く。

以上のような実態を知ると、果たして日本の教育現場は、これで良いのかと考えざる得ない。新聞紙上でも、非正規公務員問題に詳しい地方自治総合研究所の上林陽治氏は「臨時的教員が人件費抑制の手段に使われているということ」と話し、日本福祉大の山口正教授は「臨時的教員らの処遇はあまりにも低く、放置できない状態だ。短期雇用が繰り返される現状は、教師として子どもを継続的に見守れず、教員の力量の向上を困難にするなど、安定的な教育を保障するうえで、支障が出ている。教員といえども、労働者としての権利を守る法律を整えるべきだ」と指摘している。また、文科省も臨時的教員ではなく、正規教員を採用するように各教育委員会に要請しているという。

そもそも、本来は「臨時的教員」という以上、“臨時的に教員を務める人"のことを言うのであろう。ところが、実態は正規教員として採用されない人が、臨時的教員として働いている場合が多いようだ。その背景には、各地の教育委員会が、将来の子どもの減少に備え、正規教員の採用数を抑えている影響が大きい。ある教育委員会幹部は「正規教員は将来、子どもの数が大きく減っても解雇できず、財政を圧迫しかねない。そこで新卒の教員採用を抑え、臨時的教員を雇用を増やした」と語っている。つまり、臨時的教員を雇用の「調整弁」にしているのだ。

このような状況を放置していて良いのか。これでは、志のある教員も、身を削って教育に邁進することは出来ない。一方、生徒側から見ると、尊敬も出来ず、同情すらしてしまう。その結果、逆に生徒側から蔑まされ、精神に異常をきたし、自殺に至る教員もいるのではないかと想像してしまう。生徒側から同情される実態は、絶対に避けなければならない。

いずれにしても、正規教員の採用数の増減に関して、最終的には議会が決議する。この現実を考えると、これまで何度も指摘したが、地方議会費四千億円はどうなっているのだ。教員の仕事は、長期的には莫大な価値を生み出すが、地方議会はほとんど経済成長に貢献出来ず、さらに何ら価値を生み出さない。その意味で、議員報酬を削減して、正規教員数を増やすべきなのだ。

日本では長年、子どもたちに対して、「日本には地下資源がないので、人材育成に力を入れてきた」旨の教育をしてきたハズだ。そうであるならば、教育現場の劣化は絶対に許されないのだ。

荒井退造の記念討論会の開催状況

7月30日午後1時から5時半までの間、宇都宮市立南図書館で、荒井退造(元沖縄県警察部長)の功績を学ぶ「討論会」が開催された。討論会のテーマは「退造の生きざまから、何を学ぶべきか」で、退造と島田叡(元沖縄県知事)の二人の顕彰に取り組む沖縄、栃木と島田の故郷・兵庫の3県の関係者ら約450人が参加した。

最初に栃木県知事が「一昨年、沖縄県の『栃木の塔』と『島守の塔』を参拝した。これからは、沖縄、栃木、兵庫のトライアングルで“平和交流"を推進して欲しい」旨の挨拶があった。引き続き、ノンフィクション作家・田村洋三が基調講演を行った。

○この会場には、沖縄県から17人(うち3人が栃木県出身者)、兵庫県から7人が参加している。特に沖縄県からの参加者は、全て沖縄戦に関係した人たちの縁者で、このうち8人の縁者から取材した。2003年に「沖縄の島守ー内務官僚かく戦えり」という本を出したが、私は「二人の島守」というタイトルにしたかった。しかし、出版社の意向で「沖縄の島守」になった。

沖縄県は、戦後6年後に旧県庁の生存職員などから浄財を集めて、「島守の塔」と「終焉の地」碑を建立した。また、島田知事の母校・兵庫県立高校では、昭和39年に当時の姉崎校長が中心になり、三つの事業を行った。その一つが、高校野球の「島田杯」の制定である。

○ところが、栃木県での顕彰作業は2年前から始まった。この差はどこに原因があるのか。それは栃木県民の“謙虚"にある。しかしながら、実は私にも責任がある。退造の息子・紀雄さん(自治省官僚)と会って取材したが、紀雄さんが「沖縄であれだけ犠牲者を出しており、身内のことは何も喋りたくない。栃木の取材はしてくれるな」と言われた。この言葉で、新聞記者であるにも関わらず、従順にも取材を中止してしまった。その意味では、退造の顕彰作業が遅れた原因の一つに、私にも責任もある。つまり、“謙虚"の美徳と“従順"は正史の邪魔であるのだ。

○最近、退造の精神構造を知ろうとすると、どうしても退造の母校・宇都宮高校の教育理念「瀧の原主義」に行き着く。配布した資料の中に「瀧の原主義」(明治41年発行)の文章が掲載されている。その51行の文章の始めに、

<何をか瀧の原主義となす、曰く剛毅なるにあり、元気なるにあり、沈勇なるにあり、自重なるにあり、活躍的精神に富めるにあり、気概心あるにあり、高潔なるにあり、義来心あるにあり、天空海闊の襟度にあり、男子らしきにあり、…>

という部分がある。そこが、退造の精神的バックボーンと考える。

○海軍司令官・大田實少将の電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」(6月7日)は、退造の絶筆電報「六十万県民ただ暗黒なる壕内に生く」(5月25日)が下敷きなっている。

次いで、司会者・下野新聞社会部長の下、パネラー6人によるパネルディスカッションが行われた。

①嘉数昇明・元沖縄県副知事

○一昨年、初めて宇都宮高校を訪ねて、「瀧の原主義」を知った。退造の精神が、今も引き継がれていることを知り“これだ"と思った。

○私は昭和17年生まれで、2歳の時に大分県疎開した。その意味で、二人がいなければ、生きていないし、今日の沖縄もない。

②小林正美・兵庫県立兵庫高校武陽会副理事長

○島田の母校・兵庫高校は、昭和39年に当時の姉崎校長が、島田先輩の顕彰を行った。その結果、沖縄県の新人野球大会の優勝校に「島田杯」を贈ることになった。

○第三部のテレビドラマは、私の同級生の藤原デレクターが制作した。このドラマを通じて、今後の“平和活動"に繋げて欲しい。

○若い人や世界の人たちに、二人のことを知って欲しい。そこで、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」に申請する準備をしている。

③太田周・前作新学院大学学長

○作新大学は、栃木県出身者が7割を占め、そのまま地元に住むことになるので、一昨年から地域のことを学ぶ「栃木学」を始めた。そんな中、退造を知ることは、まさに「栃木学」に繋がるものと考える。

○田村氏から“謙虚"と“従順"は良くないという話しがあった。私も長野県上田市の出身であるので、田村氏の話しには納得した。

④小柳真弓・栃木県立宇都宮南高校教諭

○会場に到着したところ、会場入口に行列が出来ていたので感動した。栃木県でも、やっと荒井退造のことを知る人が多くなった。

○私は社会科の教師で、一昨年、真岡工業高校に在籍した時、知り合いの漫画家に荒井退造の漫画本(ーまんがで学ぶー「疎開の恩人」荒井退造おきなわ奮闘記)の制作を依頼した。原案は私が作成したが、女性らしいタッチで、結構評判が良い出来上がりになった。定価は300円ですので、若い人の教育に利用して下さい。

斎藤一郎・栃木県立宇都宮高校同窓会長

○昨年3月、校長を務めていた宇都宮高校の野球部員と共に、沖縄県を訪れた。この際、沖縄県高校野球連盟に対して、兵庫県立高校が贈った「島田杯」と同じ趣旨で「荒井杯」を贈呈した。試合は、二試合とも地元高校に惨敗した(笑)。

○先ほど、田村氏から「瀧の原主義」の紹介があった。私は、次の文章が重要だと思います。

<人物たるへしと云へるは敢て歴史上の人たるへしと云ふにあらす、是を大にして天下国家の人物たるへし、是を小にしては一村一郷の人物たるへし、歴史上に名を陳ねたるか故に人物なりとは称すへからす、瀧の原主義を具體的に現はすの人たれよと云ふなり、此主義を他に鼓吹し他を感化する偉大なる力ある人たれよと云ふなり、生命は限りあり、歴史も亡ふることあり、濁り人間の感化力に至りては永遠に渉りて渝らす亡ひす滅せさるなり、…>

⑥長谷川薫・明治大学校友会栃木県支部

○2年前、荒井退造を顕彰している人から「退造は夜学の明治大学を卒業している」との話しがあり、さっそく調べてみた。確かに、退造は大正13年に入学して、昭和2年に卒業していることがわかった。

○明大交友会は、全国に約34万人の会員、栃木県にも約5300人の会員がいる。そこで、偉大な先輩を慰霊するために、今年の「交友会総会」を11月28日に沖縄県で開催することにした。その前日の27日には、退造の慰霊祭を行う。

☆ゲスト・田村洋三

○私は2003年に「沖縄の島守」という本を出したが、そのきっかけは、大阪読売新聞記者時代に、沖縄戦を取材した時の古老の言葉にある。沖縄県の南部に、村民の40〜50%が亡くなった村を訪ねた際、ある古老が「大阪の人だから、島田知事のことも書くのだろう」と言われた。何もわからずに取材していたが、いつもあの言葉が気になっていた。

最後は、ドキュメンタリードラマ「生きろ〜戦場に残って伝言〜」(制作TBS、2013年作品)を上映(約90分)して終了した。

今回の討論会のキーポイントは、沖縄の言葉で「命こそ宝」という意味の「命(ぬち)どぅ宝」ではなかったか。複数のパネラーも触れた言葉で、退造も島田も現地の人々に呼び掛けていたという。

それにしても、こんなにも早く沖縄、兵庫、栃木のトライアングルが実現するとは考えていなかった。そこには、三県の人たちの底流に“今の平和を維持したい"という願いがあると思う。いつまでも、平和が持続することを願って、討論会の報告を終わります。

劉暁波の魂は永遠に生き続ける

連日の暑さで、文章を作成する気力も失せている。東京では、7月の31日間のうち、最高気温が30度を超える日が29日との予報があり、これから本番の暑さに心配になってきた。しかしながら、7月13日に中国の偉大な人物・劉暁波(61歳)が、中国共産党に殺されたので、追悼をかねて文章を作成することにした。

思い返すと、劉暁波が懲役11年の実刑判決を受けた理由は、旧ソ連時代にチェコスロバキアの反体制派が人権擁護を求める「憲章77」を下地に、「08憲章」(人権派弁護士ら303人が署名し、同年12月にネットで公表)を起草したことにある。この憲章の内容を紹介すると、

○1949年建国の「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実際は「党の天下」だ。

○自由は普遍的価値の核心である。言論、出版、信仰、集会、結社、移動、ストライキ・デモなどの権利は自由の具体的体現である。自由が盛んでなければ現代文明とは言えない。

○軍隊の国家化を実現する。(中略)人権を保証し、何人も不法な逮捕、拘禁、召喚、尋問、処罰を受けない。労働矯正制度を廃止する。

憲章の中身を吟味すると、民主主義国家では当然の権利だけだ。しかしながら、中国共産党による独裁国家では、当然の権利が当然の権利にならない。そこが、共産党独裁国家の恐ろしさである。

要するに、中国共産党憲法や法よりも優位な存在であるので、中国共産党の行いに何の歯止めもない。つまり、中国には憲法、法律、規則はあるが、「法の支配」が確立されていないので、中国共産党が法に違反しても何ら問題にならない。中国の憲法や法律は、ただただ“空念仏"になっているので、劉暁波ら真っ当な人たちが、改めて「法の支配」の実現などを訴えた。

筆者にとって、劉暁波の獄中死は、70年代と80年代の旧ソ連時代のことを思い出す。当時は、ソルジェニーツィンとサハロフ博士が有名で、ソルジェニーツィンは74年に逮捕・国外追放され、サハロフ博士は国内に軟禁された。それを考えると、文明国は人権を重視する時代になっているが、依然として中国は旧ソ連と同じような状況に置かれていることがわかる。こんな前近代的な国家が、これからの世界をリード出来るのかと思ってしまう。

先週発売された週刊誌の中で、「ニューズウィーク日本版」(7・25)が唯一、劉暁波が亡くなったことを大きく取り上げた。この現状に対して、元週刊文春の編集長・花田紀凱が「今週くらい日本の週刊誌の国際性の無さを痛感したことはない」と産経新聞(7月22日付け)で批評している。そして花田氏は、2010年のノーベル平和賞授賞式で読もうとしながら、出席がかなわず代読されたメッセージを抜粋している。

妻へのメッセージは涙なくして読めない。

<あなたの愛は高い塀を乗り越え、監獄の鉄格子を貫く太陽の光だ。その光は私の皮膚をなで、私の体の全ての細胞を温め、心に平穏と開放、快活さを常にもらたし、獄中の全ての時間を意義あるものにしてくれる。(中略)たとえ粉々に打ち砕かれても、私は灰となってあなたを抱き締めることができる>

そして祖国への思い。

<私は自分が、中国で綿々と続いてきた言論弾圧の最後の犠牲者となることを願っている。(中略)表現の自由は人権の基礎であり、人間らしさの源であり、真実の母でもある。表現の自由を抑圧することは人権を踏みにじり、人間らしさを抑え込み、真実を封印することだ>

さすが、言論人だ。説得力のある文章を抜粋している。筆者も、ニューズウィークを購入したが、どの部分を紹介するかで迷っていたからだ。

このほか、今月21日には「天安門事件」で学生リーダーの一人だったウーアルカイが、日本外国特派員協会で会見した。その際同人は、記者から「劉暁波の死を受けて、中国の民主化運動は今後どう動くのか」という質問を受けて、「良い質問だ。天安門事件のようなことは、もう一度起こると思う」と述べ、中国政府による抑圧こそが民主化運動を高揚させる最大の要因となり得ると主張した。

それにしても、あの「天安門事件」(89年6月4日)から既に28年の年月が経過している。筆者も、あの事件にショックを受けて、事件直後の日曜日に開催された在留中国人の“抗議集会とデモ行進"を見に行った。会場は、東京・渋谷の公園で、参加人数は五百人か、千人か、二千人かは忘れたが、参加者の怒りと不安そうな表情は今でも覚えている。その時は、近いうちに中国共産党は“打倒されるなぁ"と思ったものだ。

しかしながら、現実は、ソ連共産党の方が早く打倒されてしまった。中国共産党政権も、予想外の展開で打倒されると見ている。なぜなら、我々はこの世の中に“絶対"ということがないことを、ソ連共産党の崩壊で知った。さらに、人権を抑圧する国家に未来がないことを知っているからだ。