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横綱稀勢の里の出身地をどう考えるのか

横綱稀勢の里が、夏場所11日目から休場して、寂しい場所になった。そんな中、今回取り上げるのは、横綱の出身地は“どうあるべきか"というテーマである。今年1月の初場所後、稀勢の里横綱昇進が決定すると、テレビ局が本人の出身地を巡って、茨城県の牛久と龍ヶ崎の両市を、面白おかしく報道した。しかし、報道の中では、出身地は「こうあるべきだ」旨の指摘がなかった。つまり、稀勢の里の出身地は「牛久市」となっているが、最終学歴が龍ヶ崎市の「長山中学校」である以上、出身地は「龍ヶ崎市」と考えている。その点を、これから説明していきたい。

先ずは、その理由として、中卒者が多い相撲界では、中学校を卒業した自治体が出身地と考えるのが自然と思う。しかし、稀勢の里の場合、龍ヶ崎市の中学校を卒業したが、両親が牛久市に転居したので、その後は同市から通った。また、若い頃に「荻原関郷土後援会」を牛久市に設立(平成16年7月)したので、出身地を「牛久市」にしたようだ。

稀勢の里横綱昇進後、茨城県南部は近隣であるので、母校の「長山中学校」を訪ねたり、同中学校の「稀勢の里資料室」出張展示を見学した。このほか、2月18日に牛久市で開かれた稀勢の里の祝賀パレード(人出5万人)と市民栄誉贈呈式を見学した。その贈呈式では、古河市(茨城県)から来た老婆二人組が「双子の有望力士・貴源治も、境町(茨城県)の中学校を出たが、親が小山市(栃木県)に転居したので、後援会を小山市に設立し、出身地も『小山市』になった」と教えてくれた。貴源治はこの夏場所新十両に昇進した有望力士であるので、この話しを聞いた時には大変驚いた。

確かに、最近発売された月刊誌「相撲」(5月号)を見ると、貴源治は、境町の境小5年から第一中3年まで、兄の貴公俊(幕下)とともに在学している。また、月刊誌「大相撲ジャーナル」(6月号)では、バスケットボールで、「栃木・境第一中では3年の時に県大会で無敗。栃木県選抜で出場した全国大会では3位になった」と、境町が栃木県内として書いている。貴源治の出身地が小山市であるので、境町も栃木県と思ったのであろう。いずれにしても、茨城県境町に住んでいたことは間違い。

話しを2月18日の贈呈式に戻す。贈呈式終了後、左腕に「龍ヶ崎市広報」と書かれた腕章した男性と会ったので、我が輩が「龍ヶ崎市役所の人ですか。稀勢の里は、龍ヶ崎市の小中学校を卒業したのに、牛久市に出身地を取られて悔しくないですか」と尋ねたところ、その男性は「確かに、稀勢の里は2歳から14歳まで、龍ヶ崎市に住んでいたので、そう言えると思います。帰ったら、市長に伝えておきます」との返事であった。

牛久駅到着後、実家が同駅西口付近に所在するという話しを聞いたので、ついでに西口に赴いた。ところが、一向に判明しないので、駅前の書店で尋ねると、女性主人が「随分前、稀勢の里が建てた豪邸に引っ越した」との返事であった。さらに我が輩が「今日のパレード、凄い人出であった。このパレードを見た龍ヶ崎市民は、悔しい想いをしたと思う。なぜ、龍ヶ崎市ではなく、牛久市に後援会が出来たのか」と尋ねると、主人と話していた年配のお客が“人差し指と親指で丸"を作って、「聞いたところでは、稀勢の里は最初、龍ヶ崎市役所に後援会設立をお願いした。ところが、龍ヶ崎側は、わずかなカネさえも出せないということで、牛久市側にお願いしたようだ。最後はカネですよ」との話し。我が輩も、以前から薄々感じていたことなので“やっぱり"と思った。

稀勢の里の場合、出身地が牛久市でも、龍ヶ崎市でも、同じ茨城県である。しかしながら、貴源治がもしも横綱に昇進した場合には、栃木県出身になる。大関以下の力士であれば、何も目くじらを立てることはないが、横綱の場合は別である。何故なら、歴代横綱の出身地として、末永く伝えられていくからだ。その意味で、後世の相撲ファンが、誰でも納得する都道府県や自治体でなければならい。しかしながら、中卒地の自治体が全て出身地という訳ではない。例えば、元横綱北の湖の場合、当時は中学生力士が認められていたので、両国中学校を卒業している。だが、出身地は北海道という事例もあるからだ。

実は、力士の出身地を疑っているのだ。つまり、一部の力士は、後援会を財政力や人口が多い自治体に設立しているのではないか。この背景には、双方の利害が一致しているからではないか。例えば、牛久市龍ヶ崎市は、共に人口8万人であるが、牛久市常磐線に駅があり地価が高い、一方の龍ヶ崎市は、常磐線沿線ではないので地価が安い。その結果、両市間には経済格差がある。また、境町は人口二万五千人、小山市は人口十六万人で、当然のごとく経済力も財政力にも格段の差がある。言い方は悪いが、後援会員を増やせて、カネが集まる自治体に出身地をシフトしているのではないか。さらに言えば、経済力や財政力のある自治体が後援会を設立し、有望力士を“乗っ取っている"のではないか。

以上、長々と説明してきたが、即ち、横綱本人の記憶(少年時代)の中に、全く覚えていることがない自治体に出身地を置くことは“如何なものか"と考える。それを考えると、相撲協会は安易に力士の出身地変更を認めるべきではない。横綱の出身地は、それくらい重要なものだし、未来永劫“歴史"に耐えられる都道府県や自治体でなければならないと思うのだ。

新撰組の故郷・日野市の今昔物語

今年の連休は、新撰組の故郷・日野市を訪れた。最初に向かったのは、土方歳三銅像が建立されている「高幡不動尊」で、それはそれは立派な銅像であった。銅像近くで小冊子を購入(200円)したが、この中に銅像建立の経緯などが書かれているので紹介したい。

土方歳三像建立のこぼれ話―

高幡不動尊では戦前・戦後を通じる何回か新撰組隊士の慰霊法要を行って来たが、一般社会では猶、逆賊のイメージが強く新撰組受難の日々が続いていた。

戦後徐々に見直しの気運が興りつつあったが、殊に司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」が世に出て以来、土方歳三をはじめとする新撰組の人気は急上昇をとげた。

そんな折、地元有志の間で新撰組の局長近藤勇、地元出身の副長土方歳三及び六番隊長井上源三郎銅像建立の計画がもちあがり、設計図もあがり、大方の資金の目処がついたので正式に観光協会に計画をもちこんだところ、時の市の幹部から暴力団まがいの人達の像を建てるのは文化都市日野市に応わしくないとのお達しがあり計画は沙汰止めとなってしまった。

その後、日野ロータリークラブが結成30周年を記念して土方歳三像を建立することになり平成7年秋、現在地に建立されたものである。

つまり、新撰組は、新政府軍と戦ったことで、地元では長らく人気がなく、子孫たちも目立たないように生活していたという。その意味では、戦後の民主主義が、良い面に現れた時評かもしれない。

続いて、土方の兄の6代目子孫が館長を務める「土方歳三資料館」に行った。資料館は、自宅の一部に設置され、入館料は500円であった。それにしても女性が多く、入場者の4分の3は女性客であった。やはり、土方歳三が、戦死する直前に函館で撮影した写真が影響していると思う。

次いで、日野市立の「新撰組のふるさと歴史館」を訪れた。入館料は200円で、それなりの資料が置かれていた。特に、無料て入手した小冊子4冊は、大変参考になったので、その一部を紹介したい。

文久(1863年)2月8日、募集に応じた浪士の中から236名が選ばれ、京都へ向けて中山道を上がった。その「浪士組」の出身地は、武蔵68人、上野58人、甲斐19人、下野12人、陸奥8人、常陸7人、下総・信濃・越前・播磨・肥後各5人という順に多い。

甲州道は、人足や馬の数も中山道の半分であり、交通量は少なかった。実際、加賀藩(100万石)や福井藩(32万石)などの大藩も通行し、全部で40藩以上が通行していた中山道に対し、参勤交代で甲州道を通行していたのはいずれも5万石未満の小藩のみであった。

甲州道と中山道は、諏訪で合流するが、甲州道の方がわずかに短かった。沿道の人口は中山道が多く、宿場の数(下諏訪〜江戸間)は中山道が29宿なのに対し、甲州道は45もの宿場が存在した。但し、甲州道には、一つの宿場の機能を分担しているところもあり、そうしたところを一つと数えると34宿になる。

○多摩は、江戸時代の初めに開発された土地が多い。その開発を行ったのは“草分け百姓"という戦国時代に主君を失った、かっての武士たちであった。また、八王子周辺には、主君をなくした千人の武士を集めて編成された「八王子千人同心」という組織があった。彼らは、普段は百姓身分だが、仕事の間だけは百姓身分より上の同心身分(武家奉公人に相当し、武士身分よりは下)となった。

要するに、多摩地域には、新撰組を生み出す土壌があった。先祖を武士とする家が少なくなく、武士への憧れを抱いている者が多い以上、幕府の呼び掛けに応じる若者が多数存在しても何ら不思議ではない。いずれにしても、観光資源が乏しい多摩地域が、新撰組で地域を売り出すことは素晴らしいことで、今後の盛り上がりに期待したい。

高校総体出場選手の削減に向けて

昨年の4月6日、経費削減を目的に題名「高校総体の規模は縮小すべき」という文章を作成した。そうした中で、今月発売の月刊誌「月刊陸上競技」(6月号)が、筆者の見解を補足する記事を掲載した。題名は「インターハイ地区大会『突破記録』一覧<過去3年間の“ボーダーライン最高記録>」で、全国11地区大会の結果を調査し、過去3年間で最も高水準だった「6位記録」を表にまとめたものである。各地区の記録水準を一覧表にすることで、11地区の“地域格差"が見えた。

その内容を紹介すると、やはり近畿地区の突破記録が高い。男子21種目中12種目、女子17種目中11種目(走高跳は4地区が同記録)で、突破記録が11地区中トップを占めた。次いで男子は南関東が5種目、東海と東北が各2種目でトップを占めた。女子は東海と南関東が3種目、北関東が2種目、中国が1種目でトップを占めた。

一方、突破記録が低い地区は、当然のごとく北海道と四国であった。男子は北海道が12種目、四国が5種目、北九州と南九州が各2種目を占めた。女子は北海道が10種目、南九州が5種目、四国が3種目を占めた。なお、南九州の2種目(百㍍と二百㍍)は、向風が強いために突破記録が低くなった。

という訳で、やはり北海道と四国の突破記録が低かった。その背景には、人口が少ない地域は、当然のことに生徒数も少ないので、突破記録が低くなる。それを考えると、北海道地区と四国地区のインターハイ出場資格を削減することは、何ら問題はないと思う。

今回の月刊誌が、筆者の見解を地区大会の記録面から裏付けてくれたことに対し、大変感謝している。いずれにしても、生徒数が減少している中で、インターハイの出場枠を、生徒数が多かった時代と同数(種目増加で、逆に増加している)にしていることは、許されないと思うのだ。

ところで、筆者が、この問題を提議した理由は、もう半世紀前の記憶にある。高校2年生の時、某教諭(野球部顧問)が授業中に、ある話題の中で「今年、全道大会で優勝(走り高跳び1.82㍍)した生徒はインターハイに出場するが、6位になった生徒は出場しない。あの記録では、出場しても意味がない」旨の話しがあった。そして後日、再びこの教諭が「全道大会6位の生徒は、やはりインターハイに出場する。記録が悪いからと言って、勝手に出場を辞退することは出来ないようだ」と話した。つまり、当時から全道大会4〜6位選手は、インターハイに出場しても意味がないことを、多少陸上競技界のことを知っている教諭ならば、予想できたのだ。

筆者は、その頃から月刊誌「陸上競技マガジン」を読み始めたが、まだ、その教諭が言わんとする背景を理解出来なかった。だが、その後、陸上競技の専門誌を一冊も欠かさずに購入し続けた結果、その教諭の言わんとすることが理解できた。つまり、北海道大会の4位以下でインターハイの出場権を獲得しても、予選通過どころの話しではなく、予選の中でも下位に沈む選手が多いことを知った。

最後は、半世紀にわたる“陸上競技ファン"として、北海道の陸上競技界について説明したい。北海道は、けして競技レベルが低い地域ではない。インターハイでは、毎年1〜2名の選手が優勝しており、それなりの存在感を示している。ただ、トップクラスの選手層が薄いのだ。今後の期待は、北海道から南部忠平以来のゴールド・メダリストが出ることだと思っている。

森金融庁長官の素晴らしい基調講演

前回、金融庁の森信親長官の講演内容を紹介した。その後、ネットで金融庁を見たところ、さらに別の講演内容が掲載されていた。そこで、ある友人に話したところ、「それほど素晴らしい講演内容であれば、紹介するべきだ」とのアドバイスを受け、この講演内容を紹介することにした。

この講演内容は今年4月7日、日本証券アナリスト協会が主催した「第8回国際セミナー」で行った基調講演で、題名は「日本の資産運用業界への期待」(7㌻)である。その講演録は、誰でも読めるので、日本の将来を心配している人は、是非とも読んで欲しい。それでは、その素晴らしい講演内容の一部を紹介する。

私は、ここ数年、金融機関に対し「顧客本位の業務運営」をしてくださいと一貫して申し上げてきました。企業が顧客のニーズに応える良質な商品・サービスを提供し続けることが、信頼に基づく顧客基盤を強固なものにし、供給者である企業の価値向上につながることは、金融機関のみならず、およそ全ての企業に当てはまる原則だと思います。

資産運用の分野でも、お金を預けてくれた人の資産形成に役立つ金融商品・サービスを提供し、顧客に成功体験を与え続けることが、商品・サービスの提供者たる金融機関の評価を高め、その中長期的な発展につながることは当然のことです。マイケル・ポーターは、これを「共通価値の創造」と呼びましたが、金融機関による共通価値の創造は、顧客と金融機関の価値創造に留まらず、経済や市場の発展にもつながるものと考えます。しかしながら、現実を見ると、顧客である消費者の真の利益をかえりみない、生産者の論理が横行しています。特に資産運用の世界においては、そうした傾向が顕著に見受けられます。…

本年2月の我が国における純資産上位10本の投信をみると、これらの販売手数料の平均は3.1%、信託報酬の平均は1.5%となっています。世界的な低金利の中、こうした高いコストを上回るリターンをあげることは容易ではありません。日本の家計金融資産全体の運用による増加分が、過去20年間でプラス19%と、米国のプラス132%と比べてはるかに小さいことは、こうした投信の組成・販売のやり方も一因となっているのではないでしょうか。…

毎月分配型の投信は、引き続き多く販売されていますが、毎月分配型では複利のメリットが享受できないことをお客様に理解してもらった上で投信判断していただくのが「顧客本位」ではないでしょうか。同様に、過去数年間、高い値上がり率を示している投信も人気ですが、こうした投信の販売にあたっては、高値掴みの危険性についても言及するのが「顧客本位」だと思います。さらに重要なことは、商品に係る販売手数料、信託報酬などのコストをお客様に理解していただくことです。こうしたコストについては、単にパーセンテージで示すのではなく、例えば10万円投資した場合のコストを実額で示す方が「顧客本位」だと思います。

こうした話をすると、お客様が正しいことを知れば、現在作っている商品が売れなくなり、ビジネスモデルが成り立たなくなると心配される金融機関の方がおられるかもしれません。しかし、皆さん、考えてみてください。正しい金融知識を持った顧客には売りづらい商品を作って一般顧客に売るビジネス、手数料獲得が優先され顧客の利益が軽視される結果、顧客の資産を増やすことが出来ないビジネスは、そもそも社会的に続ける価値があるものですか?こうした商品を組成し、販売している金融機関の経営者は、社員に本当に仕事のやりがいを与えることが出来ているでしょうか?また、こうしたビジネスモデルは、果たして金融機関・金融グループの中長期的な価値向上につながっているのでしょうか?

ここ数年、友人から「母親が亡くなり遺品の整理をしていると、最近購入したと思われる、お年寄りには到底不向きのハイリスクで複雑な投信が、何本も出てきた」という苦情を聞くことがよくあります。もしかすると、そうした投信を売った営業員の方は、親のところにあまり顔を見せない子供たちに代わって、お母様の話し相手になっていたのかもしれませんが、これにより子供たちの当該金融グループに対する評価はどうなったでしょうか?こうした営業は長い目で見て顧客との信頼関係を構築する観点から本当にプラスでしょうか?

客観的な数字でみても、リーマンショック後の2009年から2015年までの6年間で、我が国の銀行預金は全体で589兆円から730兆円へと140兆円増加したのに対し、銀行の窓口販売による投信残高は、同じ期間に23兆円から22兆円に微減しています。更に長いスパンで見ても、家計金融資産に占めるリスク性資産(株式・投信等)の保有割合は1990年の13.2%から、2015年には14.5%とほとんど増えていません。…

どうですか、日本の金融当局者から、これほど辛辣な証券業界の批評を聴けるとは、思いもしなかった。しかし、筆者のように長年、証券会社の営業マンと付き合ってきた者には、森長官の批判は納得出来るし、誠に的を得た指摘であると考える。その意味で、森長官には、まだまだ現在のポストで頑張って欲しいと思った次第である。

金融庁の森長官の講演内容に納得したが…

昨日の「読売新聞」に、金融庁の森信親長官の講演内容が載っていた。筆者は、それほど金融政策に詳しい訳ではないが、講演内容に納得してしまった。

例えば、家計が保有する金融資産約1800兆円の半分超が、現預金として滞留しているので、現状を打開するために金融変革を課題に挙げている。この課題は、多少金融に知識がある者には、広く知られていることである。この課題の背景として、森長官は「銀行や証券会社などが顧客に売る商品は手数料稼ぎを目的とするものが多く、顧客不在になっていないか。顧客の資産形成を助けるような商品の作り方、売り方をしていない」として、金融機関による金融商品の販売方法を批判している。つまり、日本の売れ筋の投信の販売手数料は米国の5倍以上で、何度も同じ顧客に商品を売り買いさせる「回転売買」も行われていると指摘しているのだ。

実は、筆者もお恥ずかしながら、証券会社の営業マンの口車に乗って、投信購入の8か月後に“売り買い"させられたことがある。営業マンは、それなりのテクニックを使ってくるので、“脇の甘い人"や“心の優しい人"などは、うっかり口車に乗ってしまう。

森長官の講演に戻すと、「銀行に将来性を見抜く『目利き力』がなく、融資を受けられない企業もある」、「一部地銀が、貸し出しによる利益を目指し、地元を離れて首都圏などでの融資を獲得しようとしている。この事が競争を激化させて、貸出金利の低下を招いている」と述べている。つまり、昔の銀行の預貸率は100%近くあったが、最近は預貸率が50%に達していないことを批判しているのであろう。

この講演内容を読んで、思い出すことがある。それは以前、北海道の友人が送ってくれた「北海道新聞」オホーツク版(14年4月5日付け)である。そこには、筆者の故郷に所在する「遠軽信用金庫」(預金額=2829億円、預貸率=48.6%<15年3月末時点>)のことが掲載されている。見出しは「遠軽信金ー稼ぎ頭はアパートローン」で、記事の内容を紹介すると、

遠軽信金の経営の柱の一つが、アパートやマンションの建設資金を融資する「アパートローン」だ。その融資先は大半が札幌で「地元で調達した資金を札幌で融資する」構図が定着している。

遠軽信金の13年3月期の貸出金は1337億円で、うちアパートローンが654億円と半分近くを占める。地区別では札幌が534億円と大半(81.7%)で、遠紋(3.9%)や北見(3.1%)、旭川(11.3%)などを大きく引き離す。

○札幌地区では貸出金の8割以上がアパートローンで、同地区の4支店はそれぞれ年数千万円単位の利益を上げる「稼ぎ頭」(遠山理事長)という。札幌支店の開設は1992年。札幌地区の職員数は39人。全体の16%の人員で融資残高の4割を占める効率の良さだ。

ちなみに紙面の図表によると、貸出金の地区別シェアは、地元遠紋地区が31.0%で、北見地区7.2%、旭川地区14.3%、そして札幌地区が47.5%であった。

要するに、地銀は首都圏に、道内の信金は札幌圏内に進出して、利益を出している。このような現実がある以上、森長官が「地元の中小企業に対して融資を増やせ」と訴えても、なかなか銀行の姿勢に変化は起きないと思う。つまり、国民の意識や経済の仕組みを変えないと、大きな金融変革の動きは起きないと思うのだ。

北朝鮮情勢と石油事情

北朝鮮情勢が緊迫している。トランプ米政権は、軍事行使を選択肢に含む牽制の動きを続けると同時に、中国に対しては対北制裁の強化を迫っている。特に、原油・石油製品に関しては、中国が北朝鮮の輸入量のほとんどを担っているだけに、その動向が注目されている。しかしながら、中国の石油輸出に関しては、「中国にとって、最後のカード」(外交筋)というだけに、さらなる危機的状態にならなけば、石油の禁輸措置を発動しないようだ。

そこで、北朝鮮の石油事情を紹介したい。冷戦終結の1990年以前は、北朝鮮は毎年、中国と旧ソ連から友好価格(国際市場価格の3分の1ないし50%の価格)という経済援助によって、安い原油・石油製品を輸入していた。更に、別口の経済支援策で、石油の支援を受けたので、正確な輸入量を把握出来ない。だが、貿易統計から推測して、中国から約120万㌧、旧ソ連から約80万㌧、中東諸国から約50万㌧の原油を輸入していた。つまり、北朝鮮は当時、年間250万㌧の石油を確保していたのだ。

冷戦が終結すると、ロシアはハードカレンシーよる決済を求めたことで、統計上1987年が80万㌧、88年が64万㌧、89年は50万㌧とだんだん減少して、90年には5万㌧に激減している。その後、統計上の数量は少ないが、水面下では石油を輸出していたハズだ。

中国の原油輸出に関しては、03年12月14日付け「読売新聞」が詳しい。それによると、中国の原油輸出は、中朝間の石油パイプラインで行われているが、その油送管は直径40㌢・㍍ほどで、保安と盗難防止から地中に埋設され、鴨緑江では川底に敷設されている。中朝両国が石油パイプラインの建設に合意したのは72年で、着工は74年2月、75年末までに完成し、76年1月に開通した。パイプラインの油送量は、年間最大400万㌧可能であるが、90年代前半は、年間110万㌧〜80万㌧だった。そして、99年には31万7000㌧まで減少し、02年は47万2000㌧と前年を10万㌧下回った。

最近の石油輸出量については、貿易統計で、12年は約52万㌧、13年は約58万㌧と発表している。ところが、北朝鮮が13年2月、中国の反対にも関わらず3回目の核実験を行ったことと、同年12月に張成沢を処刑したことで、14年以後の貿易統計では、中国からの原油輸出量は“ゼロ"となっている。しかしながら、実際には年間50万㌧前後の原油をパイプラインを通じて、輸出しているようだ。ただ、北朝鮮向けの原油は、質が悪い大慶油田産であるので、パイプラインの擬固防止のために供給を停止出来ないという事情もあるようだ。

中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報は、4月12日から「原油供給の制限も辞さない」と繰り返し警告しているが、石油の禁輸措置は中国にとって“最後の手段"である以上、簡単に切れるカードではない。日本の多くの北朝鮮専門家も「北朝鮮人民の生活維持を考えたら、全面的な供給停止を行うことはない」との見解を示している。しかし、北朝鮮人民にまで影響が及ぶような制裁を加えない限り、金正恩体制を揺るがすことは出来ない以上、中国の石油の禁輸措置に注目せざるを得ない。我々は、中国の原油輸出に何らかの変化が生じていないか、最も注目して見て行かなけならない。

それにしても、金正恩体制が絶対に“核とミサイル開発"を放棄しない以上、トランプ政権は韓国と日本に被害が出ても、軍事力の行使に踏み切ると考える。つまり、絶対に“北朝鮮の核とミサイル開発を放置しない"ということである。まさに、現在の北朝鮮情勢は、いつ何時、朝鮮半島で戦火が始まってもおかしくない状況にあり、その点を理解して、北朝鮮情勢を見つめて欲しいのだ。

苫小牧と大洗間のフェリーに対する要望

北海道旅行では、乗用車を利用するとバラエティーに富んだ観光コースが設定できて、それなりの旅行目的を達成出来る。それに応えるべく、商船三井フェリーが、苫小牧と大洗を結ぶ航路に、「さんふらわあ ふらの」を今月13日に就航させるという。我が輩は、昔から北海道旅行にフェリーを利用することが多く、これまでに上記航路のほか、苫小牧と仙台間、苫小牧と八戸間のフェリーを利用したことがある。また、若い頃には、日本海側の小樽〜舞鶴間、現在は廃止された東京〜釧路間のフェリーも利用したこともある。

そんな中、産経新聞(5月1日付け)と日本経済新聞電子版(5月2日付け)は、苫小牧と大洗間に就航するフェリーの性能や船内記事を掲載した。それによると、現行船は定員に占める個室比率が3割だが、新造船では同5割程度まで引き上げた。また、苫小牧行きは現在、午後6時半に大洗を出港するが、速度向上で到着時間を変えずに出港を午後7時45分に遅らせるという。

我が輩は、その記事を読んだ途端に“がっかり"してしまった。何故なら、新造船の速度を向上させたというので、苫小牧の到着時刻が早まると予想したが、現行と同じ午後1時半というではないか。その理由として、出港時刻を遅くすることで、関東から北海道まで荷物を運ぶトラックが、より遠方で集荷できるようになるという。しかしながら、到着時刻が同じであれば、以前と同じようにオホーツク管内の町中に行く場合、やっとこぎりぎり明るい時刻に到着することになる。それに時々、到着時刻が遅れることを考えると、正直、喜びも半減してしまった。

5年前か、この航路を利用した際、男性船員に対して「船のスピードを上げて、到着時刻を午前中に出来ないものか。私のように、夜間運転が苦手で、オホーツク管内の町中に行く者には、もう少し到着時刻が早い方が良い。旅行者にとって、最も理想的な到着時刻は、午前9時半頃である」との希望を述べたことがある。それに対して、その船員は「効率的な燃費を考えると、このくらいのスピードが最善になる」旨の説明があった。この説明を聞いて、我が輩は、乗客たちに出航時の夕食、翌日の朝食、さらに昼食を取らせるために、敢えて午後1時半の到着時刻にしているのではないか、と推測したものだ。

もしも、到着時刻が午前9時半であれば、旅行者は苫小牧や札幌などで昼食を取ることが出来るし、我が輩も無理なくオホーツク管内の町中に到着出来る。このほか、知床半島根室という遠距離にある旅先にも、無理なく当日中に到着出来るし、襟裳岬を回って帯広市付近に宿泊することも出来る。つまり、到着時刻が早まれば、北海道本来の雄大な自然を味わえる「道東」や「道北」という観光地に、無理なく当日中に到着出来るのだ。

という訳で、新造船の就航に対しては、船内に多少関心があるものの、到着時刻が変わらないので“がっかり"なのだ。運行会社である商船三井フェリーは、日本の商船会社では大手であるので、北海道旅行者や観光業への貢献を考慮して、少しでも早く到着する努力をお願いしたい。その意味で、我が輩の“がっかり"を個人的な不満と考えず、北海道旅行者の身になって検討して欲しい。切に切に、お願いする次第である。