東京電力刑事裁判の現状

今年の8月は、猛暑のためか、体調を崩して苦しい期間が続いた。来年も、同じ様な猛暑であることを考えると、何らかの対応をしなければと考えている。

さて、先週は関西国際空港が台風21号の高潮被害で一時閉鎖されたり、北海道では胆振地方で震度7を記録するなど、次々と記録的な大災害が日本を襲った。しかし、今回は東日本大震災の際に起きた、東京電力福島第一原子力発電所の事故に関する裁判状況を紹介したい。先週、図書館に赴いた際、左翼系週刊誌「週刊金曜日」(8・31、1198号)に掲載された福島原発刑事訴訟支援団団長・佐藤和良の「新事実続出ー東京電力刑事裁判」と題する記事が目に留まったからだ。以前から、東京電力に対しては、激しい怒りを持っているので、旧経営陣3被告(勝俣恒久元会長、武藤栄元副社長、武黒一郎元副社長)の刑事裁判の成り行きに関心を持っていた。そのような背景から、自然とこの記事に目が留まったのだ。

それでは、長文になるが佐藤弁護士の記事から引用して紹介する。

地震学者、電力会社寄りの土木学会津波評価部会の学者など15人が証言台に立った。

明らかになったのは、30メートルの海岸段丘を20メートル掘り下げた10メートル盤に原子炉建屋が建てられた福島第一原発に、10メートル盤を超える津波が襲う危険を予見できたこと、津波対策は時間的に間に合い、結果を回避できたこと、地震本部の長期評価は信頼できるという、ことであった。

まず、マグニチュード8クラスのプレート間大地震(津波地震)が過去400年間に3回発生している事実から、「三陸沖北部から房総沖の海溝寄りのプレート間大地震(津波地震)」は、福島県沖を含む日本海溝沿いの領域で「今後30年以内の発生確率は20%程度」と予測した地震本部の長期評価の信頼性が、あらためて立証された。

一方で、信頼性を損なわせるために、いかに圧力がかけられたかも明らかにされた。

そして、被告人らが危険を予見し、結果を回避できたことが、明らかになった。

東京電力は、06年9月、耐震設計審査指針の改訂に伴い、原子力安全・保安院(当時)から耐震安全性評価(耐震バックチェック)の実施を3年以内に行うことを指示され、07年11月時点で、長期評価を新しい知見として取り入れ、東電設計に対して、耐震バックチェックの一環で地震の随伴事象である津波評価の業務委託を行い、08年3月、福島第一原発津波想定が最大で15・7メートルを超える可能性がある、との報告書を受け取った。

また、敷地10メートル盤に10メートルの防潮提を立てた場合、敷地内の南北、敷地前面の3ヵ所で、津波が敷地に遡上し、主要設備が水没して深刻な事故を起こすとの報告書も同年4月18日に受け取っていた。

同年6月10日、当時の吉田昌郎(まさお)原子力設備管理部長、土木グループはじめ各グループが、武藤被告に長期評価による対策工事の検討内容等を報告し津波対策実施のための役員決裁を求めた。この時、沖合防波堤の許認可や機器の対策など指示を受け、同年7月31日の2回目の会議で、沖合防波堤の工程表や数百億円の建設費など報告したが、武藤被告は「研究を実施しよう」と述べて、津波対策の実施を先延ばしした。担当者は「頭が真っ白になり、力が抜けた」と証言している。

武藤被告の指示で、09年6月終了予定の耐震バックチェック津波対策を先延ばしし、安全審査担当の専門家の同意とりつけや他社が先行しないようにする調整、原子力安全・保安院との交渉など様々な裏工作を行ったことが、未公開の関係者の電子メールから明らかになった。「時間稼ぎ」であったとの証言通り、ここが福島原発事故に至る決定的分岐点であった。

武藤被告らが津波対策の先送りを決めた08年7月31日の直後、「柏崎刈羽が止まっているのに、これで福島も止まっているのに、これで福島も止まったら、経済的にどうなのか、って話でね」(酒井俊朗東電土木グループGM)との証言も判明、安全よりも経営を優先して津波対策を先延ばしした実態が明らかになった。また、同年8月6日、東電の津波対策先送りを聞いた日本原電の取締役開発計画室長は「こんな先延ばしでいいのか」「なんでこんな判断するんだ」と驚愕したという。しかし、日本原電は津波地震対策を進め、東海第二原発の建屋の水密化なども実行、11年3月11日の津波による事故を免れた。東京地検が東電元幹部の不起訴理由にした「他の電力会社も、地震本部津波地震に備えた対策はしていなかった」と言い訳は覆された。

7月25日の第22回公判で、検察官役の指定弁護士は検証請求に関する意見陳述を行った。指定弁護士は、17年3月10日付で「福島第一原子力発電所、双葉病院、ドーヴィル双葉、救助避難経路において検証するよう」検証請求書を裁判所に提出、その後も2回補充意見書を提出して現場検証を強く求めている。刑事訴訟支援団と告訴団も、7月11日付で現場検証等に関する要請書を提出していた。この日、指定弁護士は、裁判官に対し「現場に臨めば本件原子力発電所がいかに海面に接した場所に設置されているか、津波の襲来に対する十分な対策が必要であったか、が一見してわかります。本件について正しい判決をするためには、本件原子力発電所の検証が必要不可欠です。」と述べた。検証が実現するかどうか、今後の裁判の行方を占う重大なポイントだ。〜

この裁判は、東京電力福島第一原発事故をめぐり、業務上過失罪で強制起訴された東京電力旧経営陣3人に対する裁判であるが、新聞などは余り詳細に報道していない。ところが、左翼系の「週刊金曜日」は、多少詳しく報道している。左翼は、本質的に好きではないが、佐藤弁護士の記事は、我が輩が想像していたような内容で、その意味では非常に勉強になった。それにしても、次ページの座談会の記事の中に、「でも公判を通じて、東電関係者に刑事責任を負わせないために検察が行っていた工作活動の実態まで見えてきた。」という発言には驚いた。検察官の目指す方向は何であるのか、と問いたい。

次いで、福島第一原発事故の中で一番驚いたニュースを書きたい。東日本大震災で、発電所の外部電源が喪失し、さらに非常用ディーゼル発電機も使用不能になったことで、各地の発電所から電源車が現地に派遣された。ところが、最初の電源車が現地に11日午後9時過ぎに到着したものの、高電圧の電源車から接続するための低圧ケーブルが足りないということで、発電所に電気を流すことができないというニュースが流れた。その時、我が輩は、愕然とすると共に、激しい怒りを覚えた。つまり、日頃から非常時の訓練をしていれば、こんなミスをすることはなかったからだ。まさに準備不足の歴史的な事件になった。また、事故後、津波の高さが最大7㍍前後で建設されたことを知った時にも愕然とした。だから、東京電力の幹部に対しては、今でも激しい怒りを持っている。

いずれにしても、年内には論告求刑があるようなので、厳しい判決を期待すると共に、皆さんと注目していきたい。

史家・渡辺京二を知っていますか

産経新聞に、在野の「知の巨人」と紹介された、史家・渡辺京二(88)のことを知っていますか。8年前、新聞の批評を読んで、同人の著書「黒船前夜ーロシア・アイヌ・日本の三国志」(2010年2月17日初版、㈱洋泉社、3045円)を購入した。この作品はその後、大佛次郎賞を受賞したが、これまで大作家の司馬遼太郎吉村昭、さらにロシア専門家による日ロ関係の歴史本を読んでいたので、その内容の充実度には非常に驚いた記憶がある。さらに、これまで名前を聞いたことがないし、また、熊本市に居住しているというのだから、なおさら驚いたのだ。

そのような渡辺氏が、産経新聞の連載企画「話の肖像画」(8月14日〜18日付け)に、対談形式で取り上げられたので、その発言内容に注目した。そして、皆さんに渡辺氏を知って貰う意味で、同人の発言内容を紹介することにした。

○〈近世・近現代史や思想史に緻密かつ大胆な論理と視点で切り込み続ける在野の「知の巨人」。と同時に、情と義を備えた志士の面影が漂う。そんな渡辺さんに「『バテレンの世紀』(近世)から『苦海浄土』(現代)まで」をテーマに語ってもらった〉〜日本にとって西洋との「最初の出逢い」である16〜17世紀、スペインやポルトガルをはじめとする欧州諸国は19世紀以後の西欧列強とは全く異なっていました。〜「第二の出逢い」となった「黒船来航」のときのような圧倒的な国力の差はなく、むしろアジアの方が経済的にも文化的にも先進国でした。

○日本におけるキリスト教は庶民の信仰という面では非常に深いレベルにありました。そうでなければ多くの殉教者を出した島原の乱が起こるわけがありませんし、禁教下にありながら潜伏キリシタンたちが約250年もの間、信仰を保ち続けることはできません。でもその一方で、庶民を導くべき日本人聖職者たちが思いのほか育ちませんでした。〜イエズス会の宣教師によると、日本人は非常に頭がよく、初等教育についての理解は目を見張るほどなのだが、いざ聖職者に必須となるラテン語によるスコラ哲学や神学の段階に入るとついてゆけなくなったそうです。

○〈『逝きし世の面影』。訪日外国人が残した膨大な史料にあたり、幕末〜明治前期における古き良き日本人像を描出・論功したこの大著は、平成17年に平凡社ライブラリーに収められて以来、38刷・約16万部を数えるロングセラーとなっている〉「江戸時代はよかった」と『逝きし世の面影』で主張したかったわけではありません。異文化としての江戸時代は、現代を相対化する鏡になります。つまり、現代の価値観や社会は唯一無二ではないということを教えてくれるのです。それに気付くことが最も大事だと考えています。

○反国家主義には嫌悪を感じます。現代社会では、国民として国家に帰属し、現実的な利害をともにしなければ生きてゆけないし、治安や医療をはじめ、さまざまな面で国家のお世話にもなっているわけですから。また、国連に協力するために自衛隊を海外に派兵するのは当然だと思います。それを拒否するのは、エゴイズムにほかなりません。だだ、国家を超え、国家に依存しない人間の生き方を追求したい気持ちもあります。

○西郷(隆盛)を語るうえでまず指摘しておきたいことがあります。それは、江戸中期以降、農民・商人を問わず、自分は人間として非常に価値のあるものであるという意識、さらには身分制というのは社会を運営してゆく一つのシステムにすぎず、身分に貴賤はない、といった考えが広がっていったことです。〜明治政府という近代国家が誕生し、四民平等をうたいながら国民一人一人を把握してゆくとともに、徴兵令や地租改正といった施策を次々とー農民たちの目からすれば強権的にー施行してゆきました。加えて、利害を異にする個人や法人が、合法的な競争のもとに決着や妥協を図る近代社会は、うまく立ち回った者が得をし、正直者は損をするという、それまでとは打って変わった神も仏もない世の中と映ったことでしょう。

○〈渡辺さんの著作によると、宮崎滔天北一輝は西郷の系譜に連なるという〉北は西郷や西南戦争について矛盾した見解を残しています。〜ただ、基本的には流産した明治維新をやり直そうとする歴史的文脈の源流として西郷をとらえていたはずです。前述した民へのまなざしという点では、西郷を最も受け継いでいるのは滔天でしょう。

○自分の国の悪口を言いたがるのは日本だけではなく世界中のインテリの特徴です。〜だだ、海外や別の場所に進んでモデルを求めてそれと同化し、日本の悪口を言うことによって自分が偉くなったような気になったり、喜々としていたりする態度には嫌悪感を覚えます。

○〈「実現すべき目的の超越的絶対性、組織の大目的への貢身、そのための自己改造、目的のためには強弁も嘘も辞さぬ点」で、近世の日本に宣教師を派遣した当時のイエズス会と「20世紀の共産主義政党」とは驚くほど性格・手法が一致しているーと渡辺さんは近著『バテレンの世紀』で指摘している。〉〜戦後の一時期の大問題はマルクス主義共産主義をどう批判し、乗り越えてゆくか、でした。〜人のためによかれ、と思って善を追求する。しかしそれが堕落したさいには最悪の結果を招く、その姿はまさに共産・社会主義体制であり、旧ソ連時代にソルジェニーツィンが描いた『収容所群島』の世界です。〜マルクスは資本主義を解剖することについては優れた仕事を残しましたが、「その後こうなる」という点では大間違いをしでかした人です。たとえば現代にマルクスを蘇らせて北朝鮮に案内し、「あなたの教えのおかげでこんな国ができました」と説明したら、肝をつぶし、「冗談じゃない」と大声をあげることでしょうね(笑)。

○〈昭和40〜50年代、渡辺さんは「狂気まがい」で水俣病患者の支援活動にあたった。〉実をいえば、石牟礼道子さんにいろいろと依頼され、「仕方がないなあ」ということで、「徹底的につきあうことになった」というところでしょうか(笑)。石牟礼さんは広い意味では同志です。でもそれ以上に僕にとってはとてつもない才能をもった芸術家でした。〜石牟礼さんは自分のことを小説家ではなく、詩人と考えていました。〜宗教的な預言者は神からの言葉を預かっています。ならば、石牟礼さんはだれの言葉を預かっていたのか。「山河の言葉」です。〜小説技法だけならば優れた作家はほかにたくさんいます。でも、日本の近代文学史を見渡したさい、石牟礼さんと比較できるのは宮沢賢治だけだと考えています。

以上、渡辺氏の発言を紹介したが、我が輩は「黒船前夜」を読了後、引き続いて「逝きし世の面影」(和辻哲郎文化賞)を読んだ。その後は、渡辺氏の動向に注目してきたが、そうした中で、今回の対談に出会ったのである。

遠軽高校校歌の作曲家・大中寅二とキリスト教

読売新聞は、7月5日から8月9日までの間、連載企画「時代の証言者」(25回)で、「サッちゃん」という名曲を作曲した大中恩(めぐみ、93歳)を取り上げた。この連載記事に注目したのは、恩氏の父親が遠軽高校の校歌(昭和27年1月30日制定)の作曲家・大中寅二であるからだ。そして、遠軽町キリスト教は、切り離すことが出来ない地域であることを理解した。

それでは、恩氏が語った大中寅二の人物像を紹介します。

○僕の名前は「めぐみ」と読みます。熱心なクリスチャンだった父母が、「この方(キリスト)は恵みと真理とに満ち」との聖書の一節から名付けました。おやじの大中寅二は、多くの人に愛唱された「椰子の実」を戦前に作曲し、名をはせました。

○僕の父母は東京・赤坂の霊南坂教会を仕事場としていました。父の寅二はオルガン奏者、母の文子は教会付属の霊南坂幼稚園教諭。《霊南坂教会は明治初期に創立された。教会堂は大正時代の名建築とされたが、1985(昭和60年)に建て替えられた》

○おやじは1896年(明治29年)に東京で生まれました。大阪に越した後、教会の日曜学校に通っていました。そこでは、四つ年の離れた姉の京がオルガン奏者を務めていて、まぶしく映ったようです。ところが、京が何かの都合で、オルガン奏者をおりることになり、おやじに出番が回ってきた。オルガンを自由に弾けるようになり、すっかり音楽の魅力にとりつかれたようです。いったんは両親の希望通りに同志社大経済学部に進んだものの、グリークラブに入り、音楽家になると言い出して。当然、家族は猛反対。でも信念は固く、当時の音楽界の巨匠、山田耕筰を訪ね、弟子入りしました。《山田耕筰(1865〜1965年)は、日本クラシック音楽の黎明期を支えた作曲家であり指揮者。「からたちの花」で知られる。交響楽団活動の発展にも尽力した》

○おやじは大学卒業後、東京・赤坂の霊南坂教会でオルガン奏者兼聖歌隊指揮者として勤める傍ら、宗教音楽や歌曲、童謡などの作曲にいそしみました。といっても、作曲家の稼ぎなどしれています。NHKでラジオ番組の挿入曲を作ったり、音楽学校で教べんをとったりして、収入を得ていました。

○1936年(昭和11年)夏、僕が小学校6年の時、我が家に事件が起きました。あの「椰子の実」が、NHKラジオで全国に流れたのです。《「椰子の実」の作詞は詩人であり作家の島崎藤村。36年にNHKで始まった「国民歌謡」のため、作曲を委託された》「椰子の実」で一躍、おやじは作曲家としての地歩を固めましたが、それ以前からお弟子さんがわが家には出入りしていました。多い時には10人ぐらいいたかな。

○僕が東京音楽学校(現東京芸大)に入学した1942年(昭和17年)の秋、おやじは師匠の山田耕筰率いる「満州国建国10周年慶祝交響楽団」の打楽器奏者として、満州国(現在の中国東北部)に渡りました。〜おやじはその5年ほど前から、東京の百貨店「日本橋三越本店」の合唱団を指揮していました。〜戦後、現在のNHK交響楽団の母体となった新交響楽団では、打楽器を担当してね。

○1970年(昭和45年)3月に開幕した日本万国博覧会(大阪万博)では、「キリスト教館」の音楽ディレクターとして、パイプオルガンの演奏会や作曲コンクールを企画しました。《キリスト教館にはバチカン日本万国博キリスト教館委員会が参加。ホールにパイプオルガンが据えられ、演奏会が開かれた》日本人作曲家のカンタータを演奏しようということになりましてね。僕のおやじの大中寅二にも声を掛けました。数多くのオルガン曲を書いた作曲家で、オルガン奏者としても高名でしたから。キリスト教館は比較的小さな館ですが、おやじには晴れ舞台となりました。

○戦前、名曲「椰子の実」を世に送り、名をはせたおやじですが、戦後は東京・赤坂の霊南坂教会で、礼拝の祭のオルガン演奏をひっそりと続けていました。「バッハが聖トーマス教会のオルガ二ストとして生涯を終えたように、自分も霊南坂教会で一生を終えたい」が口癖でした。

○1979年春、教会での礼拝で演奏中、脳内出血で倒れました。〜その3年後、85歳で亡くなりました。〜NHKは、「大中寅二氏が亡くなりました」というニュースを「椰子の実」の音楽をバックに流したそうです。

というわけで、大中寅二は熱心なクリスチャンであった。そして、遠軽高校校歌の作曲をした背景はわからないが、遠軽町キリスト教との関わりを考えると、別段不思議ではない気がしてきた。

遠軽町の歴史をひもとくと明治29年東北学院大学の創設者である押川方義らが「北海道同志教育会」を設立し、翌30年5月7日に、遠軽の地にキリスト教の私立大学を建設するという目標を持って湧別浜に上陸した。その指導者であるキリスト教宣教師の信太寿之や野口芳太郎らは入植後、水害や農作物の不作の時など、小作人を自宅に呼んで、キリストの教えをこんこんと説いた。この集会が、後に明治36年に創立した「遠軽日本キリスト教会」へと発展した。

その後、アメリカ人宣教師ジョージ・ピアソン(明治21年に来日し、大正3年から昭和3年まで北見に住み、北見地方の文化に大きく貢献)の指導によって、明治39年に牧師館と集会所、伝道教会の建設した。大正2年には、街中に最初の会堂が建築されたが、昭和6年に会堂及び牧師館を焼失したが再建され、昭和56年には大改修を行い、現在に至っている。

そのほか、遠軽町には私立児童自立支援施設北海道家庭学校」(大正3年創立)が存在するが、その創始者留岡幸助もクリスチャンである。また、遠軽高校吹奏楽部は、北海道の高校の中ではそれなりの存在感を示しているが、その創立にも教会が関わっている。大正2年に「救世軍遠軽小隊が結成されて、地元で演奏活動を行っていたが、戦後の昭和27年の秋、遠軽高校の生徒が使い古された楽器を譲り受けたところから、オホーツク管内で一番早く吹奏楽部が創立(昭和28年)された。これらのことを知ると、遠軽町の色々な分野で、教会が大きく関わっていることが確認出来る。その意味では、遠軽町の街中に所在する教会、さらに二度ほど見学した「北海道家庭学校」の礼拝堂(大正8年完成)は、重要な文化財であると共に観光資源と考えるのだ。

常紋トンネルの掘削労働者の悲惨な歴史

ネットで、北見市の日刊紙「経済の伝書鳩」(8月1日付け)を見たところ、常紋トンネルの掘削労働者の死因に「第4の原因」判明という記事が掲載されていた。この記事の情報源は、北見市留辺蘂郷土史研究家(74)で、北見市史編さん室が300部作成して関係者に配布したという。そこで、さっそく北見市の「史編さん室」に電話を入れて、この資料を郵送して貰った(無料)。

我が輩が、常紋トンネルに関心を持ったのは、若い頃に「常紋トンネル」(著者=小池喜孝・北見工業高校教諭、1977年、朝日新聞社)という本を購入したからだ。さらに小学生時代、父親が職場(北見営林局)の人たちから聞いた話として、

「トンネル建設時に、トンネルの壁に『人柱』を入れたので、トンネルの壁を崩すと人骨が出てくる」

蒸気機関車がトンネルに入る時に、いつもトンネル入口の上部に人影がある。そのため、機関士は常紋トンネルを通るの嫌がっている」

などという幽霊話しを聞いていたからだ。

それでは、郵送されてきた資料「常紋トンネルで なぜ労働者は死んだか 中川功(元役場職員、元自治労委員長)」(32ページ)の中から、主要な部分を引用する。

○常紋トンネル(507㍍)の工事区間は、トンネル掘削を含んで4.99キロである。工事は明治45年(1912年)4月から大正2年(1913年)2月までの10カ月間だったが、トンネル自体は45年6月に留辺蘂側・生田原側の両側から導抗掘削が開始され、同年12月には完成しているから、6カ月で貫通したことになる。工事で亡くなった募集人夫は、100人とも400人とも言われている。

○3年前に、北見図書館にあった鉄道院発行の「湧別線建設概要」の中に、常紋トンネルの工事区間、工事期間、請負事業者の記録があるのを見つけた。これまで労働者大量死の原因を粗食・重労働・リンチとしてきたが、4番目の死因に「短期間の工期」を加えなければならない。人夫大量死の直接的責任は、もちろん請負業者にある。しかし、常紋の厳しい地理的条件を無視して10カ月間で完工を迫った鉄道院官僚に真の責任がある。

○常紋トンネル工事を含む第三工区は、澤井組(澤井市蔵)が鉄道院から17万59円94銭3厘で請負っているが、実際の工事を行ったのは掛田組(掛田万次郎こと佐々木藤三郎)である。掛田組は、根室本線の狩勝トンネルの工事もしたが、掛田組は狩勝トンネル以上の残虐な方法で、人夫たちを殺した。そのためか、澤井組は大正2年9月20日に、死者たちの「供養記念標柱」を建立している(写真あり)。

○トンネル内の掘削は、募集人夫(いわゆる「タコ」と言われる人たちで、地方から東京に出稼ぎに出て来た労働者)と信用人夫(工事現場近くの住民で、募集経費がゼロだから賃金も募集人夫の3倍)がやっていた。募集人夫(男20人、女10人)が、ツルハシとノミで土石を切り崩し、それを信用人夫が馬に引かせたトロッコで外に運び出す。募集人夫たちは、朝の3時から休憩時間もなく、15、6時間坑内労働を強いられていた。

○昭和3年、札幌地方裁判所の検事・石田廣は「所謂監獄部屋の研究」を著している。この分野の研究として第一級の資料であるが、その中で「工事請負及び募集両制度の改善こそ所謂監獄部屋の弊害に対する根本的改善策と断ずべきである」と主張している。そして、具体的には下請、孫請、曾孫請に各1割のピンハネをして、工事を渡すことを禁止すべきと提案している。さらに、公設無料職業紹介所をもって之に代わることを絶対的に必要としている。

○元機関士や国鉄職員の間では、次のような話が語り継がれてきた。

ートンネルに入った機関車の前に、血だらけになった男が立ちはだかったので、急停車した。機関士が降りて調べたら誰もいないので、出発しようとしたら、また血だらけの男が立っている。とうとう機関車は発車できなくなり、他の列車で来た機関士が、替わって動かせた。ー

さらに「駅長官舎の床の間に、生ま首の幽霊が出た」、「誰もいない台所で、水瓶のフタをとる音が聞こえる」などの幽霊話しがある。

○怨霊信仰に基づく幽霊話は、昭和34年に「歓和地蔵尊」建立し、6月25日に入魂報告祭が執行されるまであった。その当時、国鉄職員の奥さんたち8人が、2日間で49柱の仏さまを掘り出している。その後、前述の小池喜孝氏が昭和54年(1979)11月、常紋に関心を持っ人びとに対し、碑建立を強く迫った。翌年4月7日、碑と墓のふたつを建立することを決めると共に、「常紋トンネル工事殉難者追悼碑建設期成会」の役員を選出した。同年11月6日には、「常紋トンネル殉難者の墓」の納骨式と「常紋トンネル殉難者追悼碑」の除幕式を行った。なお、これらの経費は、留辺蘂町内で三千戸、全体で四千七百人から537万円の寄付金、さらに留辺蘂町からの補助金二百万円を含めて745万円で実現した。

ところで、我が輩は5〜6年前、地元の友人と乗用車で常紋トンネル近くの国道242号を走行したが、その際、我が輩が「常紋トンネルの慰霊碑を見て行くか」と声を掛けたところ、友人は「そんなところに行くと、霊がまとわりつくからやめた方が良い」というので、通り過ぎたことがある。さらに最近、この話を友人の一人に話したところ、その友人も「物見遊山で行くべきではない。霊を呼び込んで、悪いことが起こる。私も行きたくない」と話すのだ。こんなことを言われると、気の弱い我が輩は、もう慰霊碑を見ることは出来なくなった。

それにしても、107年前に建設された常紋トンネルを、未だに利用している。昨年か、北海道知事が、余りにもトンネルの劣化がひどいので、視察に訪れている。また、標高347㍍のトンネルを1000分の25に達する急勾配ということで、北見のタマネギをディーゼル機関車2両で運んでいる。もう、無料の高速道路を優先して建設するのではなく、早急に3〜5キロの常紋トンネルを建設するべきである。ついでに、石北トンネルもお願いしたい。

共に大作家の吉村昭と司馬遼太郎との作風の対比

8月4日(土)の午後2時半から約2時間、都内・荒川区の区施設に参加者約百人を集めて、吉村昭研究会主催の「第10回悠遠(ゆうえん)会」が開催された。同会では、最初に朗読家・田中泰子氏が、ドイツ人医師のシーボルトと長崎の遊女との間に生まれたイネに関して、吉村昭司馬遼太郎の作品の描写を抜き出し、両者の違いを朗読で解説した。

次いで、吉村昭研究会の会長・桑原文明(68歳)が、共にほぼ同時代を生きた大作家の吉村昭(1927・5・1〜2006・7・31)と司馬遼太郎(1923・8・7〜96・2・12)の作風などを比較する講演を行った。講演内容は、会場で販売していた小冊子「吉村昭研究」第43号に掲載されていたので、この小冊子の文面から引用して紹介する。

さて今日は、吉村昭司馬遼太郎との対比と言う事で、〜司馬氏の作品は、とにかく先ず面白い。物語をグングン読ませる強力な力を持っています。例えば「坂の上の雲」ですと、厚い文庫本で八巻もあるのですが、私は何度となく読み返しました。特に最後の巻(第八巻)の日本海海戦は、実力が拮抗していると言われたロシアと日本の艦隊が戦って、日本が完全勝利するのですから、日本人のナショナリズムを刺激して、面白くない筈は無いのです。野球で言えば、ノーヒットノーランに当たるでしょうか。

私は逆に、余りにも面白いので、これはちょっと危険だぞと思いました。お酒が美味しいからと言って、朝からビールを飲んでいたら身体を壊してしまうのと同じ理屈です。

坂の上の雲」の最後の巻の最後尾に、司馬氏はこんな風に書いています。「そういう待機期間中、珍事がおこった…」。日本海海戦の旗艦であった「戦艦三笠」の沈没です。司馬氏はたった二十行しか書いていないのですが、吉村氏は逆にそこから始めるのです。戦艦大和、武蔵が出現する前の日本の代表的戦艦は「陸奥」でした。「陸奥爆沈」では、日本の軍艦の爆沈事故を調べ始めると、三笠爆沈にまでたどり着いてしまうのです。司馬氏が書き終えたその地点から、吉村先生は書き始めるのです。ロシア艦隊のロジェストヴィンスキー提督のことも、司馬氏は敗軍の将として、ほとんど興味を持っておりません。それに対して吉村先生は、何を食べ、どんな俘虜生活を送っていたのか、そして帰国後の行動までも記述しています。〜

吉村氏と司馬氏との違いについて、まず眼につくのはその人気度です。圧倒的に司馬氏の方が勝っています。私の実感では10対1位の感覚です。ついでに付け加えれば、私の住んでいる愛媛県では、松山市に「坂の上の雲ミュージアム」があります。一つの長編小説で、博物館が一つ出来上がってしまうのです。さすがの吉村先生もこれにはかないません。他に東大阪市の自宅の跡には「司馬遼太郎記念館」があります。姫路文学館には「司馬遼太郎記念室」もあります。

吉村氏には、この近く(荒川区)に「吉村昭記念文学館」があります。他に愛媛県には「吉村昭資料室」(私の事です)があります。(笑)

歴史小説では司馬氏の視点は、高層ビルの屋上にありますから、街の流れがよく見えます。「そこの車、いくら急いだって、この先に踏切事故で列車が止まっているから、意味がないよ」と言える訳です。それに対して吉村氏は、トンネル工事の最先端(切羽)ですから、いつ岩盤が崩落するか、大出水があるか分かりません。ハラハラドキドキの臨場感です。

私のイメージでは、司馬ファンには、会社の社長や重役の方が多いように思えます。吉村ファンは、医者や技術者などの一匹狼が多いように感じます。〜

これに対して吉村氏は、坂本竜馬を幕末の活動家の一人としか認めておりません。歴史の大きな流れは、一人や二人の力ではどうにもなるものではない、と言っています。それは太平洋戦争についても同様で、昭和天皇の開戦のサインにしても、否という選択肢は無かった、との趣旨を述べています。

この二人は世間的にはライバルと見られているのですが、実際の所はどうなのでしょうか?本当の所は本人に聴いて見なければ分からないのですが、二人の微妙な距離感は、次に上げる三つの話しからある程度推測できます。

一つは題材を巡ってのバッティングです。司馬氏の長編小説に「菜の花の沖」があります。前述した和田宏氏(文藝春秋の編集者で、司馬・吉村両氏を担当)が担当していたので『司馬遼太郎という人』(文春新書、H16・10)に詳しく書いてありますので引用します。

「鮮明に憶えているが、羽田に向う高速道路を走行中の車中で『こんどは高田屋嘉兵衛を書くことにした』とぽつりといった。頭の中 が一瞬白くなった。(中略)嘉兵衛の子孫の方から、資料を提供するのでどなたか嘉兵衛のことを書いてくれる作家はいないだろうか、という打診が人を介してあった。そこでかねてから親しくさせていただいている人気作家(かりにAさんとする)にその話を持っていくと、おどろいたことにAさんは嘉兵衛を書く準備をひそかにしていた」

Aさんと言うのは、勿論吉村氏です。

「やむを得ず経過を話すと、今度は司馬さんが意表を突かれて絶句する番になった。『いや…』といってしばらく黙っていたが、『Aさんのはまだ先の計画だろうけど、僕の方はもう取材もほとんど終って、すぐにも書き出さなきゃならんしなあ』とため息をついた。『Aさんはすばらしい仕事をやってきた人だから、僕のとはちがった嘉兵衛を書くだろう。たがいに自分の道を行くしかないなあ』と複雑な表情で呟いた。/すぐにAさんにこの話を連絡すると、『そうですか、それじゃ私は書かないことにします』と淡々といった」

猟師が熊を追って行くと、向こうから熊を追跡している別な猟師が現れた、と言う所でしょうか。二人が共同して倒すと言うことが有り得ない以上、どちらかが降りるしかありません。猟師と言えば、海馬(トド)撃ち猟師を取材中、別な作家が話を聞きに来たと聞かされたことがあります。氏は執筆終了後、しばらくの間発表せず、その作家が取材だけに終ったと判断された頃、雑誌掲載(小説新潮、S63・10)を諒承しました。案外、作家と言うのも不自由なものみたいです。

〜吉村氏は戦艦武蔵の進水式に、責任者が短刀を呑んで出席した事実を書いていません。ナニワ節になってしまうからです。

吉村氏は、「史実こそドラマ」と言う考えから、事実に手を加えることはありません。歴史の流れとは、いくつもの選択肢の中から、その一つに決断し、取り入れながら進んで行く、と言う立場は取っていません。一見、いくつもの手法があるように見えても、実際にはその中の一つを選ばざるを得ない、と言う考えです。この方法は、複雑な計算式に取組む数学者の姿に似ています。乱雑な計算式を整理し、単純化して完成させた公式を、「美しい」と言っている姿が、吉村氏のイメージかもしれません。

今回の文章は、過去最長の部類に入る長文になった。その理由は、大好きな作家・吉村昭と、人気度ナンバーワンの作家・司馬遼太郎との比較であるので、我が輩も力が入った。今回の催しは、ネットの「東京新聞」都内版(7月24日付け)で知ったが、本当に参加して良かった。そして、本当に勉強になった。だから、その知識の分け前を少しでも皆さんに差し上げたくて、長文になった。また、少しでも吉村昭ファンが増えることを願ったことも、その理由に挙げられる。

JR北海道の苦悩はいつまで続くのか

国土交通省は7月27日、JR北海道に対して2019、20年度の2年間で、総額400億円程度の財政支援を行うことを発表した。この内容は、「JR北海道の経営改善について」という形で発表されており、我が輩もネットで読んでみた。

その主な支援策は、次の通りである。

①利用が少ない線区における鉄道施設及び車両の設備投資及び修繕に対する支援

②貨物列車の運行に必要な設備投資及び修繕等に対する支援

青函トンネルの維持管理に対する支援

④経営基盤の強化に資する前向きな設備投資に対する支援

ーというもので、①〜③は全額助成、④は助成2分の1、無利子貸付2分の1で支援する。支援総額は400億円台で、具体的な金額は今後確定するという。

そのほか、JR北海道が一昨年11月に、「単独では維持困難」と公表した13区間(1237・2キロ)に対しては、5区間(札沼線北海道医療大学新十津川駅間、根室本線富良野新得駅間、留萌線の深川ー留萌駅間、石勝線の新夕張夕張駅間、日高線鵡川様似駅間)は、国の支援を打ち切り、バスへの転換を求めた。それ以外の8区間(宗谷本線の名寄ー稚内駅間、石北本線新旭川ー網走駅間、根室本線の釧路ー根室駅間、同本線の滝川ー富良野駅間、室蘭線の沼ノ端ー岩見沢駅間、釧網線東釧路ー網走駅間、日高線の苫小牧ー鵡川駅間、富良野線富良野旭川駅間)については、北海道及び沿線自治体の財政支援などの条件が整えば、国の支援を前提に当面存続する方向という。しかしながら、国交省の文章には、下記のような厳しい内容が書かれている。

〜利用が少なく鉄道を持続的に維持する仕組みの構築が必要な線区においては、平成31年度及び平成32年度を「第1期集中改革期間」とし、JR北海道と地域の関係者が一体となって、利用促進やコスト削減、実証実験や意見聴取などの取組を行い、持続的な鉄道網の確立に向け、2次交通も含めたあるべき交通体系について、徹底的に検討を行う。その際、国は交通体系のあり方の検討を行う地域の関係者に対して、必要な支援を行う。その上で、「第1期集中改革期間」の検証を行い、着実な取組が行われていることを前提として、平成33年度から平成35年度までの「第2期集中改革期間」に移行するとともに、第1期集中改革期間の検証結果を第2期集中改革期間における取組に反映する。

JR北海道と地域の関係者は、集中改革期間における取組の結果を毎年度検証し、最終年度(平成35年度)には総括的な検証も行う。その際、利用者数等の目標に対する達成度合い等を踏まえ、事業の抜本的な改善方策についても検討を行う。

要するに、最終年度(平成35年度)終了後の総括的な検証の結果、これらの8線区の中には路線廃止もありえるというのだ。この内容には驚いたが、そう言えば、島田社長が最近、「8線区も経営改善しなければ廃線もありえる」と述べて、知事や道議会に対して弁明していたが、島田社長というか、JR北海道の本音が出た発言であったのだ。

それにしても、これほどまで、なぜ故にJR北海道をいじめるのか。確かに、JR北海道の最大労組「北海道旅客鉄道労働組合」(JR北海道労組、約5530人)の執行部の一部が、暴力革命を肯定する過激派「革マル派」といまだに密接な関係にあることは認める。しかしながら、JR北海道を取り巻く問題点は、これだけだと思うのだ。それにも関わらず、単独で維持出来ない路線の鉄道施設の修繕などでは、地方自治体にも相当な負担を求めており、今後地元負担のあり方が焦点になるという。地元自治体からは「地域の負担に関する法的根拠が明確でなく、地方自治体が国と同水準の支援を行うことを前提としている」という批判が出ているが、全く持って理解出来る発言だ。

地方にとって、鉄道がなくなって栄えた地域はなく、さらに人口減少に拍車がかかり、街は沈んで衰退する。それがわかっていながら、国は最もらしい政策を打ち出し、根本的な問題に取り組もうとしていない。基本的なことは、北海道には鉄道網が必要なのか否か、また、人口密度が低く、さらに人口減少が著しい道東や道北に、鉄道網が必要であるのか否かという問題だ。

ネットで「朝日新聞」北海道版(7月30日付け)を見たが、そこには「国はJR北海道に何度も支援をしてきた」ということで、その事実関係を掲載していた。

○1987年度→国鉄分割民営化に伴い経営安定基金を交付=6822億円

○1997〜2016年度→経営安定基金の運用益を下支え=2787億円

○2011〜31年度→経営安定基金の実質的な積み増し=2200億円

○2011〜16年度→老巧施設の更新など設備投資支援=600億円

○2016〜18→安全のための設備投資と修繕に対する追加支援=1200億円

○2019〜20→赤字路線の修繕や青函トンネル維持管理など経営自立支援=400億円台

以上の支援状況を見ると、JR北海道の自立経営は難しいことが良く解る。そして、沿線自治体の支援を要求しているが、沿線自治体のほとんどは、自主財源は少なく、交付税補助金自治体運営をしているのが実態である。例えば、平成30年度のオホーツク総合振興局18市町村の普通交付税額は約686億円(北見市約165億円、網走市約56億円)で、本土の市町村に比べて、相当恵まれた支給額になっている。その意味では、国費を投入した自治体から、再び国費を取り上げる政策が、果たして正しい政策であるのか、と言いたいのだ。

最近、河出文庫「辺境を歩いた人々」(著者=宮本常一)という本を読んだ。その中に、総理大臣であった伊藤博文が、外国から帰ってきた直後の発言がある。

「日本は外国に負けないだけの施設を作って、早く外国と肩を並べられるような国にならなければならない。そのために、沖縄などにかまっている隙はない」

この発言、どこかで聞いた発言だ。そうです、明治初期に黒田清隆(開発次官)が「北辺の樺太を手放して、北海道開拓に力を集中することが長期にわたる国益につながる」として、「樺太放棄・北海道防衛」論を主張し、ロシアとの間で「樺太千島交換条約」を締結した。つまり、日本人の辺境に対する重要性や、領土に対する考えが、ロシア人と相当ずれている感じを受ける。ロシアは、膨大な領土を維持するために約九千キロのシベリア鉄道を維持し、それに対して、たかが千キロの路線維持で、日本では大騒ぎである。我が輩は、その意識を変えない限り、これからもJR北海道の経営問題が、大きな政治課題として後世まで引きずる可能性を感じている。要は、昔から訴えていることであるが、JR北海道は国費で支えるしかないのだ。

北海道佐呂間町に存在した「栃木歌舞伎」

ネットで、北見市の日刊紙「経済の伝書鳩」(7月9日付け)を見たところ、年1回発行の地域文芸誌「文芸北見」(第48号、246ページで価格は1250円)の内容が掲載されていた。その中に、「岡田祐一さん(札幌市)の郷土史佐呂間町栃木歌舞伎の盛衰ー川島平助が地域と共に歩んだ五○年』は、足尾銅山鉱毒事件で廃村に追い込まれた栃木県旧谷中村の村民の一部が、現在の佐呂間町栃木に移住し、大正2年から50年にわたって取り組んだ『栃木歌舞伎』の歴史をまとめた。」と記されていた。そこで、さっそく北見市の「事務局」に電話を入れて、文芸誌を郵送して貰った。

我が輩が、旧谷中村民が佐呂間町栃木地区に移住したこと知ったのは、宇都宮市に居住していた時である。栃木県の地元紙「下野新聞」が、「とちぎ20世紀」という企画で、栃木県の重要な出来事百件を取り上げて、連載で報道していた。その中の58回目に、「谷中村民の佐呂間移住(1911)」(2000年2月27日付け)というタイトルで、この歴史的な事実を伝えていた。

それでは、文芸誌に記された主要な部分を抜粋・引用して、移住先での生活状況や「栃木歌舞伎」の存在意義などを紹介したい。

○谷中村村長・茂呂近助を含む66戸・約240余名は、明治44年(1911)4月7日に栃木県を出発、札幌・旭川を通り12日に陸別着、旧池北線で野付牛まで来て、さらに用意された馬橇で留辺蘂まで。その後は、瑞穂・共立・栄と歩いて21日佐呂間町若佐に到着した。ところで、池田・野付牛間の鉄道が開通したのは、その半年も後の明治44年9月25日であった。北見駅の開業も明治44年9月25日であり整合しない。このことを調べたところ、北見までは工事中の建設列車、その資材を運ぶ屋根ない貨物車に乗って来たのである。

○入植者66戸の中から1年足らずで20戸が離農する。そのため開拓が計画通りに進まない懸念があるとして、大正2年(1913)に第2次募集をし栃木県から32戸が入植した。ところが、その直後更に20戸の離農と8戸の除名者を出した。98戸の入植に対し、わずか3年間で半数近い48戸が離農した。

○そうした中、母県で歌舞伎一座の団員(17〜25歳)として経験を積んだ川島平助を中心に、栃木歌舞伎集団が形成され、栃木歌舞伎が始まったのは大正2年の秋である。以来、春4月21日・秋10月21日の祭典に演じるだけではなく、技量の素晴らしさから北見市湧別町、旧端野町、旧留辺蘂町からまで公演を依頼されるようになる。

○栃木歌舞伎は、他のそれにはない卓越した特色を持っていた。その第一は地域挙げての歌舞伎集団であった。…栃木歌舞伎は始まりから終演まで、他の農村歌舞伎に引けを取らない卓越した農村歌舞伎集団となった。…川島平助の作成台本で、現在に残る最も古いのは大正3年作である。残る142冊は偶然に残ったに過ぎない。

○栃木歌舞伎は、戦時中も出征家族慰安会などで演じられ、戦後は昭和22年(1947)には再開された。そして、最後の公演は昭和35年4月21日の入植五○周年記念式典の日である。この記念式典は、栃木小学校で挙行され、来賓として栃木県知事代理・横川信夫、下野新聞社長・福嶋武四郎夫妻をはじめ町関係者、地元民など三百人以上が参列した。

○川島平助は、大正6年から合わせて17年間にわたって村会議員を務めた。注目されるのが、昭和12年に自ら中心となり「渡良瀬川遊水地施敷地貸下願」として、栃木県知事宛てに帰郷請願運動をしている。翌13年にも再度試みられたが実現はしなかった。請願運動はその後も続き、昭和46年に4度目の誓願を提出したことで、翌47年3月、6戸の帰郷が実現した。(川島平助は昭和36年3月20日、88歳で亡くなった)

○栃木歌舞伎については、我が国の歌舞伎研究の諸氏(早大教授・郡司正勝、「新版・歌舞伎辞典」の著者・冨田鉄之助)からも高い評価を受けている。また、「語り継ぎたい日本人」の一人に、東京以北で唯一「開拓地に咲いた川島平助の歌舞伎人生」として、財団法人モラロジー研究所から刊行されている。

以上、旧谷中村民が移住したオホーツク海沿岸の入植地で、郷土芸能として「栃木歌舞伎」が花開いたことを紹介した。おそらく、栃木県民も佐呂間町移住のことは知っていても、「栃木歌舞伎」のことは知らないと思う。そして、現在の栃木地区に暮らす22世帯約90人のうち、4世帯だけが移住者の家系という。

ところで、抜粋した文章の中に、帰郷請願運動として、昭和46年に4度目の誓願提出という部分がある。ということは、昭和46年に、我が輩の先輩が、帰郷請願一行を宇都宮駅まで出迎えに行ったことになる。つまり、先輩が栃木県庁に勤めていた時、県庁幹部から「君の故郷近くから、帰郷請願のために県庁に来る人たちがいるので、駅まで迎えに行って欲しい」と言われたというのだ。

それにしても、栃木県庁に、遠軽高校を卒業した先輩が就職しているとは、考えてもいなかった。この先輩は、昭和9年生まれで、高校卒業後、都内の大学を卒業して栃木県庁に奉職した。初めて会った時は、退職直後で県庁の関連団体に勤めていた。当時、同世代の友人・知人が、道庁や遠軽町役場の幹部に就いていたので、随分と故郷の話しを聞かせてもらった。だから、なおさら宇都宮時代は懐かしいのだ。