ソ連の原爆開発に最も貢献した女性スパイ・ソーニャ

2020年6月20日に、英国の新聞タイムズでコラム二ストを務めたベン・マッキンタイアーの著書「KGBの男ー冷戦史上最大の二重スパイ」で、元ソ連国家保安委員会(KGB)のロンドン支局長・ゴルジエフスキーの前代未聞のモククワ脱出劇を紹介したが、今回は新刊書「ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員ー愛人、母親、戦士にしてスパイ」(2022年2月25日初版発行、中央公論社、512ページ)で、米英の原爆開発計画に潜入した理論物理学者クラウス・フックスの担当官を務めたウルズラ・クチンスキー(暗号名は「ソーニャ」)の諜報活動を紹介する。この分厚い本を読む気になったのは、著者のマッキンタイアーの前作を読んで、ノンフィクションのスパイ事件を深層に迫る作品に仕上げていたことと、女性スパイ・ソーニャとソ連参謀本部情報総局(GRU)に属していたリヒャルト・ゾルゲとの関係が記述されていたからだ。

それでは、まずは研究者の中には史上最も成功したと評する女性スパイ・ウルズラの経歴と活動歴から紹介する。

○ドイツで最も著名な人口統計学者で、共産主義を支持するユダヤ系ドイツ人の父親(ロベルト・クチンスキー)の下で、1907年に生まれる。兄弟は6人で、3歳違いの兄ユルゲン・クチンスキーもマルクス主義を支持する共産党員であった。

○ウルズラは29年秋に、建築士のルドルフ・ハンブルガーと結婚して、翌年に夫の仕事の関係で上海に渡り、米国の共産主義シンパであるアグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと会う。その後、スパイ活動を目的に、33年モスクワ、34年奉天、35年ワルシャワ、37年、38年モスクワ、38年ロンドン、38年ジュネーブ、41年オックスフォード、50年ベルリンに移動する。

○上海では、ゾルゲと愛し合ったほか、3人のスパイ(ルドルフ〈ルディ〉)・ハンブルガー、ヨハン・パトラ、レン・バートン)の子供を産む。

○50年2月3日、クラウス・フックス逮捕の報に接して、慌てて2月27日に子供2人を連れてイギリスを出国する。69年にはソ連から「赤旗勲章」、東ドイツでは小説家ルート・ヴェルナーとして14冊の本を書いて、2000年7月7日に93歳で亡くなる。

それでは、ウルズラの最も重要なスパイ活動であった「マンハッタン計画」に対する諜報活動に移る。米英は41年6月から極秘で原子爆弾開発プロジェクトを始めるが、そこの中枢にはナチスに弾圧されて33年にイギリスに入国していた、熱心な共産主義者である核物理学者クラウス・フックスが参加していた。

〈原爆製造計画は筒抜け〉

フックスは、見かけこそ浮世離れした学者先生だったが、心の中では昔と変わらぬ熱心な共産主義者であり、熱烈な反ファシズム派だった。ウルズラと同じく彼も独ソ不可侵条約に反発したが、「ソ連は単に時間稼ぎのために条約を結んだのだと言い聞かせて自分で自分をごまかした」。現在イギリスは、これまでの世界史上で最も強力な兵器の開発を急ピッチで進めているが、そのことをソ連政府には知らせていない。それがフックスには不公平に見え、締結まもない英ソ協定の不履行だと感じられた。後に彼はこう書いている。「私は自分をスパイだと思ったことは一度もなかった。ただ私には、なぜ西側が原子爆弾ソ連政府と共有しようとしないのか、その理由が理解できなかった。あれほど圧倒的な破壊力を持つ物は、すべての大国が平等に利用できるようにすべきというのが、私の考えだった」。幼いころからフックスは自分の良心に従えと教えられて育ち、彼が住む白か黒かしかない道徳の世界では、ソ連政府に新兵器の情報を知らせることはイギリスに対する裏切り行為ではなく、共産主義者

連帯を示す行為であり、ナチズムを撲滅するのに個人として貢献できるチャンスであった。後にイギリス当局はフックスの行為を「純粋に内省的な人間の、内に秘めた断固たる傲慢さ」の表れだと非難するが、フックスは多くのスパイと同じように自分を秘密の英雄だと思っていた。「私はソ連の政策を完全に信頼しており、ゆえに何のためらいもなかった」。ドイツがソ連を攻撃したことで、彼はソヴィエト連邦のため秘密裏に働きたいと強く願うようになり、「私は共産党の別の党員を通じて連絡を取った」。

その党員とは、ユルゲン・クチンスキーだった。

(中略)

フックスが一九四一年から一九四三年のあいだにソヴィエト連邦に渡した科学上の秘密は、謀報史上きわめて内容が濃い収穫物で、量にして約五七〇ページになる情報には、報告書の写し、計算式、スケッチ、数式と図形、ウラン濃縮装置の設計図、急速に進む原爆開発計画の段階ごとの指針などが含まれていた。

(中略)

一九四二年四月、ソ連モロトフ外相は、この新型の超強力兵器について説明した数々の情報報告書(その大半はイギリスから得られたもの)を一冊のファイルにまとめ、そのファイルを、どのような処置を取るべきかを決定せよとのスターリンからの命令を添えて、化学工業大臣に渡した。科学者たちは、ソヴィエト連邦もできるだけ早急に独自の原子爆弾製造計画を開始すべきだと提言した。その年の暮れには、国家防衛委員会がウラン爆弾を開発する研究所の設立を認可し、開発の責任者として、レニングラードのヨッフェ物理学技術研究所で核物理学のトップを務めるイーゴリ・クルチャートフが指名された。一九四三年二月、ソ連で原爆開発に関わる科学者たちは、クラウス・フックスとウルズラ・クチンスキーから大量に流れてくる秘密資料のおかげで半ば解決済みの問題に、熱心に取り組み始めた。

以上のような諜報活動によって、ソ連の原爆製造は急ピッチで進み、49年8月29日には最初の核兵器実験を秘密裏に実施した。

続いては、ウルズラをスカウトし、愛人にしたゾルゲとの興味深い話を紹介する。

ゾルゲは、高速バイクには人を誘惑する力があることを理解していた。ウルズラは、リスクを愛する彼の気持ちを共有した。彼がウルズラを試していたのは間違いないが、試されたのは肉体面ではなく感情面だった。ウルズラ・ハンブルガーとリヒャルト・ゾルゲはいつから愛人関係になったのか、その正確な時期については今も議論が続いている。後年、ゾルゲとの関係をしつこく問われたウルズラは、遠回しに「私は修道女ではありませんでしたから」と答えている。大半の資料は、この心浮き立つバイクの遠乗り直後にふたりの関係がプラトニックではなくなったことを暗示しており、おそらく遠乗り当日の午後に、上海市外の農村地帯のどこかで一線を越えたのであろう。

吾輩は、この一文の中の「ゾルゲは、高速バイクには人を誘惑する力があることを理解していた」という一節に関心を持った。というのも、ゾルゲは東京在住中の38年5月の夜間に、飲酒運転によるオートバイ事故で命を失いかけたことがあるが、そのバイク利用を「スパイ活動に使える」という見方に納得した。

それに関連するが、昔から警察官が「泥棒はいつも同じ手口で盗みを行う」ので、刑事は誰の犯行が分かるという話を聞いたことがある。その背景には、人間はどうしても肉体的な特異性や得意技、運動神経を利用して犯行に至るので、おのずとワンパターンの犯行に陥りやすい。その手口は、泥棒以外でもセールスマン、女たらし、そしてゾルゲのような工作員も、同じような傾向があると言える。

話をゾルゲに戻すと、著者のマッキンタイアーは本書の中で「生涯を通じて最も愛した男性は、一九三一年に、上海市内を猛スピードで突っ走るバイクの後ろに座って黄色い声を上げていたときに見つけていた」と書いている。それを裏付けることとして、額にいれたゾルゲの写真が、ウルズラの書斎の壁に終生掛けられていたというし、息子も「ずっと愛していたのです」と語っている。

ところで、本書の訳者があとがきで「二〇世紀は『共産主義の時代』であり、一九一七年のロシア革命から一九八九年の東欧革命と一九九一年のソ連邦崩壊まで、多くの人が共産主義を支持し、共産主義の描く理想社会に期待を寄せた」と書いている。昔を振り返ると、日本でも60、70年代の衆議院選挙では、旧社会党(特に「社会主義協会」)はいつも国会の3分の1の当選者を出し、社共を合わせると常に150以上の議席数を確保していた。それを考えると、確かに20世紀は「共産主義の時代」だったのかもしれない。

それにしても、ソ連によるスパイ活動の凄さよ。ソ連の独裁者スターリンが、核物理学者のクルチャトフらに「5年以内に原爆を完成させよ」と厳命したのは45年8月6日の広島原爆投下の直後だった。米英に対するスパイ活動の成果によって、首尾よく長崎型のプルトニウム原爆を完成させて、前述したように初めて核実験を成功させたのは49年8月29日である。そのように、計画より1年早く完成させた歴史的な事実を知ると、世界で展開されているスパイ活動を無視してはならないのだ。

以上のようなスパイ活動の実態があるにも関わらず、今になっても我が国には「情報戦」に対応する本格的な情報機関が設立されず、いわゆる「スパイ防止法」は全く整備されていない。如何にインテリジェンス(機密情報)が、日本の安全保障にとって重要であるのか、もう一度確認する意味からもこのようなスパイ事件を取り上げている。

なお、2014年11月12日に「ゾルゲ事件国際シンポジウム『ゾルゲ・尾崎処刑70周年新たな真実』」というタイトルで、ゾルゲの愛人・石井花子と尾崎秀実の異母弟にあたる作家・尾崎秀樹と会ったことを含めて、ゾルゲ事件を取り上げているので、関心のある賢人は読んでみて下さい。