「三船遭難事件」は絶対に忘れない

終戦直後の8月22日、樺太(サハリン)からの緊急引き揚げ船3隻(小笠原丸=1403㌧、二号新興丸=2500㌧、泰東丸=880㌧)が、北海道の留萌管内の沖合でソ連軍の潜水艦から魚雷攻撃を受け、民間人1700人以上(死亡=1558人、行方不明=150人)が犠牲となった「三船遭(殉)難事件」が起きた。その後、ソ連はこの惨劇事件を認めないので、日本の研究者が長年調査してきたところ、1991年にソ連が崩壊したことを契機にロシア側と接触した。その結果、翌92年にロシア側の軍事日誌などでソ連軍の犯行が判明したが、その研究者たちの中心人物が現代史家・秦郁彦(昭和7年生まれ)であった。その秦先生が、月刊誌「Voice(ボイス)」の8月号と9月号で、「三船遭難事件とL-19潜水艦〈一九四五年夏ーー留萌沖の惨劇〉」という題名で、真相解明に至った経緯を明らかにしている。

本文では最初に、この事件を小説にした作家・吉村昭の文章の一部を取り上げているので、まずはその部分から紹介する。

ー三十年後の真冬に事件の取材で現地を訪ねた作家の故吉村昭は、その感慨を次のように記す。

……強風で息があえいだ。眼前に白波を随所に立たせた海がひろがっていた。私は増毛町大別苅西方約五浬と記録されている小笠原丸沈没位置の方向に眼を向けた……そこには、六百余の遺体が海の柩のように小笠原丸の船体とともに沈んでいる。沈没時からすでに三十年近くが経過しているが、その出来事は土地の人の記憶に残されているに過ぎない……そして記憶する人々の数も減少して、やがてその存在も消え去ってしまうだろう。

(吉村昭「烏の浜ノート」)ー

秦先生は「事件の存在さえ消え去ってしまうだろうという吉村の予見は、やや早とちりの感がなくもない」と書いて、事件の真相究明に至った経緯を記述しているが、やはり事件を起こした犯罪人は、当時から言われていた通りソ連海軍の潜水艦であった。

一九五二年に独立を回復した日本も、米ソ冷戦の谷間にあって平和条約と北方領土問題に制約され、三船遭難事件に関心を払った形跡はない。

事情が変わってきたのは一九九〇年代に入ったころからで、ソ連邦が崩壊し、「グラスノスチ」(情報公開)とペレストロイカ(改革)が進展してソ連時代に封鎖されていた歴史的公文書が公開され、国際学会の活動も許容される。その一環として一九九一年、モスクワと東京でノモンハン戦(一九三九年)を対象に日・露・モンゴルの研究者が集まる学術会議が開催されるに至った。

東京大会に出席した私は、同年末にモスクワの国防省戦史研究所を訪問し、かねてから気になっていた三船遭難事件の情報公開を要望したところ、翌九二年九月二十二日付でV・ジモーニン戦史研究所長代理から返事が届いた。新聞各紙は大々的にその要旨を報道した。

たとえば十月一日付の『毎日新聞』には一面トップの扱いで「ソ連軍の攻撃だった」「終戦七日後 サハリンからの避難船撃沈」「潜水艦魚雷でーー艦隊司令部報告に明記」のような見だしが躍った。「現在、内部の資料で確認を急いでいる」という外務省筋の談話も掲載されているが、その後も日本政府が外交ルートで確認しようとした形跡はなく、「事実を認めたうえでの謝罪」を求める遺族会には知らぬ顔で通してきた。

それでも地元の『北海道新聞』やNHKは、特派員をモスクワやウラジオストクに送って補完情報の収集に努めた。この後追い調査では、三船を攻撃したソ連潜水艦二隻の行動が明るみに出た。

とくにL-19号潜水艦は太平洋艦隊司令部の指令で次の任務につくために宗谷海峡を横断中に行方不明となったこと、ロシア海軍日本海軍が敷設した機雷に触れて失われたと推定していることが判明したのは、画期的新事実といえよう。

(中略)

一九四五年八月二十二日に留萌沖で三船を攻撃した潜水艦は、被害者や関係者のあいだでは当時からソ連潜水艦と認識されてきた。日本政府も直後に、ソ連を含む連合国軍の最高司令官であるマッカーサー元帥へ「おそらくソ連邦所属のものと推定される」と通報していた。しかし日ソ間の外交ルートで確認する機会はなく、ソ連の公刊戦史は沈黙を守り、日本のマスメディアも名指しは遠慮しつづけたため、公的には「国籍不明の潜水艦」として扱うしかなかった。

本稿前編で概述したように、一九九二年九月、私がロシア国防省戦史研究所長代理でロシア自然科学アカデミー準会員であるV・ジモーニン大佐から受け取った書簡は、L-12とL-19が八月二十二日に「留萌港口で輸送船二隻を撃沈、一隻に損傷を与えた」ことを認め、さらにL-19からはその後の報告がなく、「宗谷海峡を強行突破するさい日本の機雷に触れ、沈没したものと推定される」(北澤法隆訳)と忖言していた。

モスクワでジモーニンに会って依頼してから十ヵ月を要したのは、情報公開が進み始めていた時期ではあったが、かなり慎重に対処したためと推察される。裏付けとなる典拠資料を添付しなかったのも、そのせいかと想像した。

ともあれ、準公的とはいえ三船攻撃の加害者がソ連海軍であった事実が初めて確認されたわけだが、典拠資料の発掘に成功したのはNHKである。その成果は一九九二年十月十四日の「ミッドナイトジャーナル」の番組で「樺太引き揚げ船 撃沈の真相」と題して放映された。

NHKのスタッフがサンクトペテルブルグにあるロシア海軍省のアーカイブズで入手したのは、ソ連太平洋艦隊や第一潜水戦隊から発出された命令書やL-12、L-19の行動記録などで、NHKの訳文も付して市立留萌図書館に寄贈されている。

今更ながら、怒りが湧いてくる内容であるが、それを秦先生が中心になって真相究明に取り組み成果を出したのだ。しかし現在に至っても、これ以上の全容が明らかになっていないことから、北海道の在住者(札幌の映像プロデューサー・中尾則幸〈75〉など)の中には、現在でも犠牲者の追跡に努めて人がいる。このような動きは、ウクライナ戦争によって真相究明が難しくなった以上、ますます価値を増すであろう。

91年末にソ連邦が崩壊したことで、ソ連側から多少の情報公開があり「三船遭難事件」の犯人が判明したが、今から振り返ると、もう隠しきれないという背景があったものの、よくも自国が不利になる情報を公開したものだ、と考える。そのような経緯を考えると、吉村昭の著書「烏の浜」(昭和46年9月、別冊文藝春秋〈117号〉)では「国籍不明の潜水艦」と書かざる得なかったようだ。

吾輩は今年5月に北海道一周の旅に行ってきたが、その際に増毛町留萌市2ヶ所、小平町2ヶ所に所在する「三船遭難事件」の慰霊碑を参った。特に、留萌市の「三船殉難之墓」碑(市営墓地)では、毎年8月21日に「樺太引揚三船遭難遺族会」(札幌市)による慰霊祭が営まれているが、今年も行われるという。

いずれにしても、犠牲者の名前の判明分が約1594人というのだから、いまだに100人以上の身元の手がかりがないという。今更ながら、ロシアに対する大きな憤りを感じずにはいられないが、まずは合掌で締めたいと思う。