更生保護の父・原胤昭は手賀沼に眠る

我孫子市の歴史を研究している人たちの会報「我孫子史研究 2号」(編集・発行者=我孫子市史センター、2021年9月30日発行)を購入し、その中の論文「江戸最後の与力・原胤昭鵞湖望郷」(10ページ、村越禮子)を読んだ。明治時代の北海道開発史で、月形の樺戸や釧路、網走の集治監(刑務所)での悲惨な囚人労働は、絶対に無視できない出来事である。その中にあって、日本で最初のキリスト教教誨師・原胤昭(たねあき、1853〜1942)のキリスト教人道主義の立場での尊い活動は、吉村昭の「赤い人」や山田風太郎の「地の果ての獄」の歴史小説でも取り上げられている。そして、胤昭は教誨師を離れた後、民間人としての更生保護事業の先駆者として「更生保護の父」と称される人物になって行く。

そのような人物の墓が、まさか吾輩の居住地近くの手賀沼周辺にあるとは、この会報を読むまでは全く知らなかった。そこで、まずは原胤昭晩年の部分から紹介する。

五 晩年の胤昭

昭和一三年、八六歳になった胤昭は人生の大半を出獄人保護運動、社会慈善運動に捧げ「矯正保護の父」と呼ばれるようになっていたが、この年に完全に退く。

晩年の胤昭は、遠祖からの由緒をまとめたり、江戸最後の与力として、また関東大震災後、伝統的な行事や古記録の多くを失った東京に維新以前の東京を知って欲しいと、元町奉行の与力、同心達と同窓会的な「南北会」を設立、中心的に活躍する。八丁堀の与力、同心達の年中行事や町奉行の職制等をまとめる。武家ながら八丁堀は日本橋に近く町人とも交流があり、それらの人達との回想記や証言をラジオ放送や講演で語っている。また、胤昭が執筆した記録はもとより江戸の古記録を収集し、現在これらは東京銀座の教文館九階の図書館に所属されている。

昭和一七年二月二三日、大森の四男竹胤宅で亡くなる。享年九○歳。二月二六日の葬儀に際し、天皇、皇后、皇太后より金一封が下賜され、正六位に叙せられる。胤昭の死は遺言により身近なものだけに知らされ、質素な葬儀であった。それは、参列により出獄人の過去の身元がわかってしまうことへの配慮からだった。関東大震災の時、胤昭は家屋他一切を失ったが、自分が関わった出獄人の保護カードは何を置いても持ち出した。そして、胤昭の遺言によってこの一万人分の保護カードは焼却された。胤昭の人生は正に天職であった。キリスト教の教義を支柱に弱者を救い、弱きを助け、強きを挫く。江戸最後の与力、原胤昭に相応しい人生であった。

六 胤昭鷲湖懐古

鷲湖とは手賀沼のこと。胤昭は手賀沼の湖畔にあった先祖の地に晩年は住むことを夢にみて、しばしば訪れたという。旧沼南町から出版された『沼南のあゆみ』に、「胤昭は手賀を父祖の地とし愛着を持ち、度々訪れて余生を送るつもりであったが実現しなかった」とある。

大正一三年、関東大震災の翌年、胤昭は幸いに系図と古い過去帳が焼失を免れたことを感謝して「原家家譜」をまとめ、末尾に自身の想いを「書添え」にして込めている。初代手賀城主原胤親以来三八六年間血統が絶えなかったことへの神恩祖恩に感謝、そして人を慈しみ、社会を益し、人道愛に努めようと記している。

(中略)

 

この「書添え」に書かれた百年前の手賀地区は、現在もその風景はほとんど変わっていない。原氏の旧領地は現在の柳戸、手賀、布瀬辺りが中心であったという。今、手賀城址を訪ねると東側に土塁が残り、台地中央の畑地がかつての本丸跡、南に隣接する興福院が二の丸跡と伝わる。稲荷社が建つ北端からは眼下に手賀沼が望め、対岸は我孫子市都部、胤昭の先祖が眠る正泉寺がある。近年、正泉寺にある承陽太祖(塋山禅師)像が修理された際に発見された木札には、天正五年(一五七七)手賀城主、原次郎右衛門や小金城主高城彦二郎らが施主となったと記されている。また、墓地には原家の三基の宝筮印塔があり、二代胤次(寛永一七年没 耕安本秀居士)、三代胤重(延宝七年没 月桂高雲居士)、三代胤重の弟、原主馬介(寛永十八年没 心円常円禅定門)の墓である。これら三人の供養墓は十一代胤予(たねまさ)の時、手賀の本来の原家の墓地に五輪塔に姿を変えて建立されたようだ。四代以降十二代迄は台東区寿にある曹洞宗永見寺に墓があったが、関東大震災とこの度の大戦ですべて失われたとのこと。明暦の大火以前の永見寺は八丁堀にあったと伝えられている。

県道柏印西線のバス停「東台」から東へ300㍍ほど行くと、左手山林の中に地元の人が「お墓山」と呼ぶ元手賀城主、原一族の墓がある。奥まった石垣の上に江戸期の墓が七基あり、その内の三基は正泉寺に埋葬された二代胤次、三代胤重、主馬介の供養墓である。旧住民の聞き伝えによると、幕末期頃まで多くの石塔があり整理されて現在のようになったとのこと。墓地内には十字架の墓や子息らの墓があり、左手に、昭和四年に亡くなった幹子夫人と並んで昭和一七年に亡くなった原胤昭の墓がある。一般人と変わらぬ二基の墓石であるが、銘は近衛文麿が書いている。墓石の後ろに八基の根府川石がならんでいる。二三名の名前が刻まれているが、実数は五○名以上とのこと。これらの人達は、死んでも引取り手のない前科者であった。胤昭はそれらの人達を原家の墓所に埋葬したのだ。かつての城主と犯罪人とが同じ墓所に眠っている。胤昭の純粋不屈の宗教心から実現できたことだった。この墓所は、山林の中にも係わらず雑草が繁ることなくいつもきれいに清掃されている。近くの手

賀東小学校の生徒が郷土の歴史や胤昭の事績を学び、春秋の彼岸に清掃を続けていると聞く。

もう少し、手賀原氏のことを書くと、豊臣秀吉軍の攻撃で手賀城が落城(1590年6月)後、江戸に出て町奉行の与力(御家人と呼ばれる下級武士)となり、その後の子孫も与力として明治維新を迎える。原胤昭は、初代町方与力胤親から13代目であるが、幕府の瓦解により15歳で第二の人生を歩むことになった。慶応4年4年11日徳川幕府は終焉を迎え、9月2日に東京府が開庁になると、市政裁判所の書記となるが、早々に東京府減員のために免職になる。 

明治7年10月 、米国宣教師カロゾルスによりキリスト教洗礼、銀座に東京第一長老教会を設立する。明治16年、前年の福島事件(福島県自由党員や農民が県令三島通庸の圧政に反対し、千数百名が逮捕)に関する錦絵「天福六家選」を刊行し、かつて自らが勤務していた石川島監獄に収監される。その時の囚人としての経験が、後の胤昭の人生を大きく影響させる。

出獄後、石川島監獄の過酷さを「監舎報告」「監獄改良意見書」として内務小輔土方久元に提出したことで、明治17年7月に兵庫仮留監で日本最初のキリスト教教誨師として赴任した。そして明治21年1月には、妻子と共に200人の囚人を連れて、北海道釧路集治監獄に赴任する。その後、幌内炭鉱の採炭(10年間で死傷者7460名)、硫黄山の採掘(失明者や死人発生)、北海道中央横断道路(札幌から網走間)での囚人たちの死につながる重労働を目にして、中央政府を説いてまずは硫黄山の労働を中止させた。

明治25年11月には、樺戸集治監に出向となり、囚人保護運動の同志・留岡幸助(北海道家庭学校創設者)らと「同情会」を組織して囚人改善に努める。しかしながら、キリスト教教誨師と仏教教誨師が次第に反目するようになり、ついに明治28年12月に胤昭を含めたキリスト教教誨師たち5人は、その職を辞して東京に戻った。

ということで、原胤昭の墓所を確認するため、カメラを持参して自転車で現場に向かった。途中、胤昭の先祖が眠る正泉寺(案内板には1263年創建、女人救済の寺と記載)を訪れ、3人の供養墓を見学。次いで、手賀城址と刻まれた石碑を見て、茅葺屋根の旧手賀教会堂(ハリストス正教会として、明治12年3月22日に設立)を訪れた。正泉寺と旧手賀教会を訪れた際、関係者に「原胤昭の墓を知っているか」と尋ねたが、いずれも「知らない」という返事であった。

正午過ぎになったので、この付近で唯一の食堂「手賀寿し」に入り、ランチサービス(千円)を頼み、店主に「原胤昭の墓を知っているか」と尋ねた。それに対して「知っている。柏市我孫子市の郷土歴史に関心があるグループが訪ねて来た時には、この店で昼食を取るからだ」という返事であった。それにしても、ここの寿司はしゃりが他店の3倍程の大きさで、一口で食べられず、ネタが一つであるので、なんだか“寿司おにぎり"を食べた感じであった。

昼食を済ませ、原胤昭の墓に向かったが、県道柏印西線の道端から見えない場所であったので、一度通り過ぎた。引き返して、竹林の中をよく見ると、墓石らしいのが見えたので、竹林の脇の小道に入って行った。そうすると、そこには約100坪くらいの空間があり、その中に墓が10基くらいあった。

原家私有地と思われる墓地入口には、高さ3㍍くらいの白い棒に、

ー正面右側の五輪塔は戦国末期にこの地を領した手賀原氏の供養塔で、江戸初期に建てられました。左側には、免囚保護に一生を捧げた原胤昭と刑余者たちの墓石が並んでいます。ー

と書かれていた。

墓地の中に入ると、左側の4基並んだ墓の中に、「原胤昭之墓」と書かれた墓石があり、墓石の下には花が2つ置かれていた。そして、確かに墓石の後ろに、囚人の墓と思われる小さな石が8つ並んでいた。

以上が吾輩の探訪記であるが、それにしても何も知らなかった。今回の件も、吉村昭山田風太郎の著書を読んでいたことと、論文に遠軽町と関係がある「留岡幸助」の名前が出てきたことで、キリスト教教誨師のことを思い出した。まだまだ、埋もれた偉人を紹介して行きたいと、改めて考えた次第である。