利用された「天皇訪中」を考える

産経新聞では、元中国人の評論家・石平(1962年、中国四川省生まれ。北京大学哲学部。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。平成19年、日本国籍取得)の人生を振り返る連載「話の肖像画」(8月1日〜31日)が始まり、ほぼ同時に同人の著書「中国共産党 暗黒の百年史」(2021年7月4日第1刷発行)が出版された。この中で、中国共産党の実態の恐ろしさを、

○地主六百数十万人のうち、二百万人以上が命を落とした。

○1958年の無謀な目標がたたった「大躍進政策」の失敗で、59年から61年までに二千万人から四千万人という史上空前の大量の餓死者を出した。

○「文化大革命」の10年間で「非正常死亡」を遂げた人々の数は、最低でも一千万人単位であろう。

○1989年天安門事件の死者数は、数千人という説がもっとも有力である。

ーというふうに、中共政権の“暗黒統治"の実態を取り上げているが、日本では昔から伝えられてきているので、別段驚きはない。

それよりも、著書の中で記されている、1992年の「天皇訪中」に関する記述は、我々日本人に考えさせられる事柄だ。その事実は、今では“対中外交の失敗"と多くの有識者が認識しているからだ。

〈利用された「天皇訪中」は歴史の痛恨事〉

国交正常化以来の日中関係史上、両国間の最大の外交行事となったのは1992年秋の天皇陛下(現・上皇陛下)のご訪中である。10月23日、北京空港に到着した天皇・皇后両陛下は、空港から釣魚台国賓館までの沿道を埋め尽くす「歓迎群衆」に手を振りながら、日本の天皇として初めて、中国の首都に入った。

6日間の訪中で、天皇陛下は当時の江沢民共産党総書記、揚尚昆国家主席などの中国最高指導者と相次いで会談したほか、古都の西安などを訪れ、至るところで中国側による国家総動員の「熱烈歓迎」を受けた。その結果、天皇訪中は、世界中に日中両国関係の「親密さ」を鮮烈に印象づけることになった。

もちろん、中国側が日本の天皇の訪中を要請し、「熱烈歓迎」した最大の狙いは、まさに「日中の緊密さ」を世界中に示すことであり、それを外交的に最大限利用したのである。

当時の中国は、1972年のニクソン訪中・日中国交樹立前と同様、世界的に孤立した立場にあった。1989年6月の天安門事件で、中共政権は戦車部隊まで動員し、民主化を求める学生や市民に対し、大規模な虐殺を断行した。これで中国は世界中から激しい批判の嵐に晒され、国際的に完全に孤立した。アメリカを中心とする西側諸国は中国への制裁を実施し、海外からの投資は完全にストップした。同89年、翌90年の経済成長率はそれぞれ4パーセント台にまで落ち込み、実質的なマイナス成長となった。このままでは、中国は国際社会から孤立したまま、経済崩壊という最悪の結末を迎えることになりかねない。

天安門事件に象徴される中共政権の人権抑圧に反発する西側諸国は、経済面だけでなく、首脳らの訪中も取りやめるなど制裁の幅を広げていた。当時の中国指導者にとって、こうした対中制裁網を突破するため、どこかに風穴を開けることが緊急の課題となっていて、まさに生き残りをかけた最優先任務だった。彼らが目をつけたのは、西側先進国の中で中国の外交工作にもっとも弱く、中国にもっとも利用されやすい日本である。

外交的孤立の突破口を開けるため、中共政権は盛んな対日外交工作を行った。天安門事件翌年の1990年11月、外交担当の副首相だった呉学謙天皇陛下即位の礼への参列のため日本を訪問し、与党自民党と野党の要人たちと続々と会談を行った。外交工作の結果、呉学謙訪日の直後に、日本政府は天安門事件後に凍結していた第三次円借款の再開を決め、西側諸国の中で最も早く、率先して中国への経済制裁を解除したのである。

そして1992年4月、今度は共産党総書記の江沢民が日本を訪れた。彼の訪日の最大にして唯一の目的は、当時の宮澤喜一内閣を相手に「天皇訪中」を実現する工作の大詰め作業であった。江沢民中共政権はこの工作の成功に国運のすべてをかけていたが、結果的に彼らの必死の工作が功を奏し、前述のように1992年10月、日中関係史上初の天皇訪中が実現した。

江沢民中共政権は、この外交上の成功から何を得たのか。時の中国外相の銭其シンという人物が、引退後の2003年に出版し回顧録『外交十記』のなかで、天皇訪中の一件について色々と書いた。それを一読すれば、当時の中共政権が天皇訪中でどれほど大きな利益を得たのか、よくわかる。

銭其シンは、国際的な中国包囲網の突破口として日本を選んだ理由を、こう書いている。

「日本は中国に制裁を科した西側の連合戦線のなかで弱い部分であり、おのずから中国が西側の制裁を打ち破る、もっとも適切な突破口となった」

銭其シンはさらに、

「(天皇訪中が実現すれば)西側各国が中国との高いレベルの相互訪問を中止した状況を打破できるのみならず、(中略)日本の民衆に日中善隣友好政策をもっと支持させられるようになる」

「この時期の天皇訪中は、西側の対中制裁を打破するうえで積極的な効果があり、その意義は明らかに中日両国関係の範囲を超えていた。(中略)この結果、欧州共同体(EC=現在のEUの前身)が同様の措置(制裁解除)を始めた」

当時の中国外交の直接の担当者だった、銭其シンの一連の証言は非常に重要である。そこからよく分かるように、中国にとっての天皇訪中は確かに、西側諸国による制裁網を打ち破り、国際社会から孤立した局面を打開する絶好のチャンスであり、起死回生の突破口そのものであった。

そのために、中共政権は国をあげて天皇訪中を「熱烈歓迎」した。党総書記の江沢民自身が先頭に立って日本中の新中政治家やチャイナスクールの外交官を動かし、対日工作を必死に展開した。工作によって実現した天皇訪中は、最初から最後まで中共政権の党利のため画策されたもので、まさに「中共による中共のための」政治的イベントに過ぎなかった。

その結果はすべて、中共政権の望む通りの展開となった。天皇訪中以来、中国は日本を突破口にして西側の制裁網を打ち破り、国際社会への復帰をみごとに果たした。状況が安定してからは、中国への諸外国(日本を含む)からの投資は以前よりも格段に増え、ふたたび、中国経済の高度成長の起爆剤となった。

そして、天皇訪中の1992年から2021年までの30年間、中国は史上最大にして最長期間の高度成長を成し遂げ、日本を抜き去って世界第二位の経済大国となった。高度経済成長の上に成り立つ中国の軍事力と外交力の増強は、日本の安全保障を脅かす、現実の脅威になっているのである。

(以下、省略)

以上の事実は、中国問題に関心を持っている賢人にとって、知って当然の出来事である。しかし、不都合な部分を隠蔽する中国共産党が、これほど開けっぴろげに「天皇訪中」工作の成果を明らかにするということは、よっぽど嬉しかったのだ。だが、我々日本人としては屈辱であり、、また“失敗外交"を元中国人から指摘されると誠に恥ずかしく、二度と中国共産党に騙されないぞ、と思ってしまう。

これに関しては最近、テレビ番組に出演した当時の外務省中国課長が「天皇陛下の訪中に関しては、当時の外務省は乗り気でなかったが、今でいう『親中勢力』に押し切られた。この問題は、政治案件であった」とはっきりと述べていた。

当時、吾輩的には我が国の友好国である韓国を訪問する前に、「天皇訪中」はおかしいと思った。韓国とは、民主主義という価値観が同じであるが、共産中国は全く価値観が違うからだ。だから、政府は「情報機関からの警告を聴いているのか」と考えたものだ。

それでは、現在の状況はどうか。依然として、習近平国家主席国賓・訪日問題を抱えて、脇の甘い「親中派政治家」が闊歩している。それらの政治家は、中国情報機関に悪しき行為を握ぎられているか、あるいは自分や関係者が何らかの経済的利益を約束されているかだ。そういう意味で「親中派政治家」には、注意を払うべきだ。特に自民党の政治家は、本人が引退すると、その息子ら親族が地盤を引き継ぐ世襲が多い。つまり、下半身がだらしない政治家の場合、同じようにだらしない政治家が後継者として収まっているので、これでは、またまた中国人女性による工作「ハニートラップ」に陥るだけであるからだ。