駒澤大学陸上部を立ち上げた遠高卒業生

北見市の日刊フリーペーパー「経済の伝書鳩」(1月21、25、2月1日付け)を読んで驚いた。それは、見出し「駒澤大学 箱根10区で大逆転」という連載記事(3回)である。

初代主将、優勝に万感ー北見の76歳男性、陸上競技同好会創立に奔走した学生時代

北見市在住の76歳男性は、今年の「箱根駅伝」(東京箱根間往復大学駅伝競走)をテレビ観戦し、人一倍感激した一人。駒澤大学が最終10区で大逆転し、13年ぶり7度目の総合優勝を飾ったが、男性は同大学在籍中の1964(昭和39)年、戦後陸上競技部の前身となる陸上競技同好会を創設、67(同42)年に駒澤大学箱根駅伝に初出場を果たす磯を築いた人物でもある。自身も4年生のとき、同大学として最初の参戦にアンカーを務め第10区を完走。以来同大は55年連続で伝統の藤色のたすきをつないでいる。名門復活に喜びも一入(ひとしお)のようだ。

男性は44(同19)年、遠軽町出身。中学、高校時代は野球部に所属し、遠軽高校3年の夏に野球部の活動を終了後、62(同37)年10月の第15回全道高校駅伝に同高の一員として出場。にわか参戦ながら第5区を走り、並み入る私立強豪校の選手を破り区間賞を獲得している。記念に贈られた栄冠を今も大切に保管している。

大学は「神宮(球場)で野球がしたくて」と東京世田谷区の駒澤大学に進学。ところが1年時に手首と肩を故障し、やむなく退部。「不完全燃焼だった」こともあり、もう一つの夢だった箱根出場に気持ちを切り換える。しかし陸上競技部もなく「箱根をめざす」と体育会でプレゼンテーションしても応援団などから、そんな夢みたいな話と相手にされなかったそう。

ほとんど男性が中心となって動き、何度も大学に掛け合って2年時の1964(昭和39)年に有志を誘い、陸上競技同好会設立願を同大学総長に提出。筆頭に男性の名が記されたガリ版刷りの請願書は今も色あせずに自宅に保管されている。「同好会設立の呼び掛けに女子を含めけっこう手を挙げる学生がいた」そう。当初8人ほどが集まったが「練習グランドもなく、まもなく会員は減少した」。

それでも男性が3年の夏、同好会に残った十数人で練習を開始。近くの駒沢公園多摩川土手、皇居周辺を練習会場に走った。65(同40)年秋の箱根予選会に初出場し、「最下位から2番目」。翌66(同41)年の予選会で4位通過し、67(同42)年正月の本戦出場権を獲得。同大学として戦後初出場を果たした。

数少ない4年生の中で主将の男性はアンカーの第10区を任された。ところが直前に発熱と高血圧に見舞われる。内臓疾患だったが「健康良好」と大会顧問医がOKを出してくれた。「遠軽の実家が開業医で日本医師会の健康保証証をみて、融通をつけてくれたのでは」と男性。

現代のような厚底靴はなく「強豪大学はメーカー品を使っていたが、我々は市販の靴を買って履いた。腕抜きもなく、腕にワセリンを塗って浜風、ビル風による体温低下に備えた」。「みんなで大観衆の前で走らないか」と同好会を立ち上げた男性。第10区鶴見〜大手町の途中、「沿道で『○○さん(男性)頑張れ』と声援を送ってくれた。誰だか分からなかったけれど力が出た」そう。21・3㌔を走り切り、同大学は総合13位のデビュー戦だった。

卒業後の翌1968(昭和43)年にはコーチとして伴走の監督車両に同乗。メガホンを手に「行くぞ〜」「いいぞ」と声を張った。「野球部時代の声出しが役に立った」と振り返る。駒澤大学陸上競技部を長く率いる名将・大八木弘明監督(62)の今大会の名セリフ「男だ!石川」が話題だが、今も通じるものがあるようだ。

今大会も第10区が気になった男性。残り約2㌔で駒大がトップに出たときは、テレビの前で「涙が出た」。

男性によると、箱根駅伝には管内から過去に4人が出場。いずれも遠軽高校出身で、今回エントリーされるも当日登録変更された東洋大学1年生の村上太一選手(北見緑陵高出身)も遠軽町出身。「まだ来年以降がある。頑張ってもらいたい」と思っている。

今管内で長距離走を頑張る中学・高校の選手達に向けて、男性は「人一倍の研究心と努力が大事。そして何よりも負けず嫌いでなければ。3番でいいという練習内容と1番になろうという練習では結果が違ってくる。箱根だけでなく、将来のオリンピック選手をめざしてほしい」と熱くエールを送る。

吾輩は、高校生時代から箱根駅伝をチェックしてきたので、それなりに詳しいが、駒澤大学の創設に関する経緯は知らなかった。それも「平成の常勝軍団」と言われている強豪校・駒澤大学陸上部の創設に、遠軽高校の先輩(箱崎有信、10区=1時間12分21秒・区間12位)が関わっていたというのだから驚いた。また、過去にオホーツク管内から箱根駅伝出場者4人が、いずれも遠軽高校出身者という話しにも驚いた。

話を昔に戻すと、吾輩の机上には「陸上競技マガジン・1960年度記録集計」があるが、そこには遠軽高校3年生の大村良治選手が載っている。1500㍍は4分11秒4(高校ランキング43位)、5000㍍は15分41秒2(高校ランキング26位)で、卒業後は専修大学を経て、実業団の名門・リッカーミシン(東京五輪に男女各5人、計10人の陸上代表を送り出している)へ入社している。東京五輪当時、3000㍍障害物(67年の記録集には、歴代18位の記録・8分56秒4、専大、64年と記載)で五輪候補に選ばれたということで、この話しは高校時代に陸上部の顧問先生から聞いた。

北見の男性の駒澤大学陸上部の創設には、大村選手の影響があるのではないかと感じた。大村選手は、北見の男性の2学年上で、野球部と陸上部のグランドは隣同士であったので、練習風景を見ていたと思う。さらに、駒澤大学の入学後、大村選手が箱根駅伝(1年=5区・4位、2年=5区・12位、3年=2区・6位、4年=2区・8位)などで活躍していたので、なおさら陸上同好会の創設に熱を上げたのではないか。

さて、村上太一選手であるが、遠軽町出身とは知らなかったが、高校在学中から注目していた選手だ。高校時代のタイムは5000㍍で14分15秒01で、高校ランキングは73位である。そう言えば、中学時代に全国都道府県対抗女子駅伝に出場し、遠軽町から旭川龍谷に進学して、全国高校駅伝大会に出場していた女子選手がいた。どこに行ったのかと思っていたところ、今年1月に京都市で開かれた「京都女子駅伝・中長距離競技会」で、京都産業大学の選手として出場していた。こんな遠いところにと思ったが、そういう時代になっているのだ。