昭和一桁世代が体験した学制改革

父親が昭和一桁世代(8年7日間)であることから、以前から終戦後の学制改革に関心を持っていた。そういうことで、古本屋で書名「旧制高校物語」(著者=秦郁彦、平成15年12月20日第1刷発行、文春新書)を購入したところ、コンパクトに学制改革を説明する部分があるので紹介する。

こうして新学制は昭和22年3月に制定された教育基本法と学校教育法によって確定した。新たに義務制となった新制中学は22年4月、新制高校は23年4月、新制大学は24年4月からスタートすることになる。

必要な経過措置も慌しく決められた。旧制高校は、22年4月に入校した生徒が卒業して旧制大学(3年制)へ進学する25年3月に閉鎖されることになった。23年4月に入校した生徒は、1年後に追い出され新制大学を受験することにされたが、ふしぎなことにそれを知らずに入学した者もいたらしい。

23年3月に旧制中学5年を卒業するが、4年を修了した者には、衣替えした新制高校の3年生か2年生へ編入、昭和24年か翌年に新制大学(4年)へ進む路も用意されていた。後者へ向かのが常識的だったろう。

ところが蓋を開けてみると、1年後の「中退」が決まっている旧制高校になんと4万8333人の志願者が押しかけ、うち6985人が入校(官立のみ)したのである。前年より1割前後も増えたのである。

メリットが全くなかったわけではない。4修で入れれば、新制高校へ進むより2年、5卒なら1年早く大学を卒業できたからである。なかには藤木英雄(早生れの昭和7年2月生れ)のように、一高を経て28年に新制の東大法学部を首席で卒業して3年後に刑法の助教授に就任した人もいるが、これは例外中の例外、旧制高校へ向かったのは単なる惰性かもしれない。

ということで、終戦後の学制改革は非常に複雑で、これを理解することはなかなか難しい。それよりも、本文の中で“例外中の例外"として藤木英雄(以下、敬称略)を取り上げているが、この部分を読んで、戦後第20代目の検事総長・吉永祐介(昭和7年2月生まれ)のことを思い出した。と言うのも、吉永も旧制中学を飛び級の4年で修了し、旧制第六高等学校へ進学、結果的に2年早く新制岡山大学を卒業した。司法試験も在学中の昭和27年に合格し、さらに早生まれときているので、前任者の検事総長・岡村泰孝(昭和4年6月生まれ)と同じ司法修習7期(昭和35年任官)であるが、年齢は2歳8カ月も若いのである。

それでは何故に、吉永は東大や京大など旧帝大ではなく岡山大に入学したのか。その理由が2つばかり伝えられている。

○六高の校風に愛着があったのと、何よりも東京の食糧事情が最悪であるという“情報"によって、吉永たち六高生の多くは岡山大学一期生となった。

○当時、敗戦によって旧帝大を含めて全ての大学が同等の格式になるという話が流布しており、それならば地元の岡山大学でと考えた。

ということで、後の通産省事務次官・小長啓一(昭和5年12月生まれ)も、同じく六高から岡山大学に入学している。だから、岡山大学卒の苦労人検事・田中森一(昭和18年生まれ)は、田原総一郎との対談で「吉永は東大卒業と一緒」と、はっきりと言っている。

このほか、吾輩が20代後半に東京本店で体験したことを紹介する。ある日、課長補佐(昭和4年生まれ)の役人生活が昭和22年ころからで、最終学歴が明治大学と知ったので、「夜学で大学を卒業したのですか」と尋ねたところ、「いや、昼間の大学を卒業した」と答えた。そこで、吾輩は「どうして平日に勤務しているのに、平日の大学を卒業できるのか」と疑問点を尋ねたところ、この補佐は下を向いて“もぐもぐ"という態度を示した。これを見ていた隣りの補佐も、なにやらニヤニヤするだけで、何も教えてくれなかった。

以上のような話しは、他でも聞いたことがあり、当時の大学入学や学生生活は、相当いい加減なものであったようだ。だから、戦後の学制改革の実態はどうなっていたのか、と長年にわたって関心を持っていたのだ。だが、やはりその時代に生きていないと、なかなか本当のことは理解できないと感じている。

最後にもう一つ、旧制中学に関してだ。もう10年前の話になるが、栃木県宇都宮市の知人(当時70歳代)の自宅で、まさに昭和一桁世代の元高校長(80歳前後)など2人の元教員を交えて、対話する機会があった。その際、元教員の中から栃木県立宇都宮高校を卒業した衆議院議員枝野幸男(昭和39年5月生まれ)の受験の話しが出て、4つの大学を受験して、どこが受かり、どこを落ちたかをよく知っており、驚いたことを覚えている。

また、吾輩が「北海道オホーツク管内の道立遠軽高校を卒業した」と言ったが、最初は何の反応も示さなかったが「旧制中学から新制に変わった高校です」と述べたところ、3人とも多少顔の表情が変わった。そして、元教員たちは「それは凄いですね。栃木県には旧制中学から新制高校に変わったのは、9校(宇都宮、栃木、真岡、佐野、大田原、烏山、足利、石橋、今市)だけしかない」と説明した。その後も対話して、最後に元校長が「戦前(昭和15年国勢調査)の栃木県の人口は約120万人で旧制中学は9校、一方のオホーツク管内の人口は約30万人で旧制中学は3校(北見、網走、遠軽)。北海道のハズレのオホーツク管内も、本州並みの教育環境にあったのだぁ」と言ったのだ。

ということで、東北地方や北関東(茨城、栃木、群馬)では、前身が旧制中学であるのか否かに関心を持っている人たちが意外に多い。それは現在でも、それらの高校がその地域の進学校としての存在感を示しているからで、その意味で遠軽高校卒業生には、多少の誇りを持って社会で活躍してほしいと思うのだ。