我孫子市にもあった「手賀沼教員殉職事件」

2月19日付け「産経新聞」の連載記事「歴史に消えたうたー唱歌、童謡の真実(23)」を読んでいて、我孫子市で戦時中に若い女性教員ら18人が水難事件で亡くなったことを思い出した。まずは、産経新聞が取り上げた水難事件から紹介する。

事件は明治43(1910)年1月23日、神奈川県の逗子開成中学(旧制)の生徒ら12人が冬の相模湾で遭難し全員が亡くなった。「七里ヶ浜ボート遭難事故」である。遭難したのは、当時21歳から10歳までの中学2年〜5年生と兄弟の小学生。

事故から2週間後の2月6日、学校の校庭で犠牲者を悼む大法会が開かれた。参列者は学校関係者のほか、神奈川県知事、海軍幹部ら約500人。式場の外でも約4千人が参列したと伝えられている。その場で披露されたのが、ボート遭難の歌「真白き富士の根」(作詞・三角錫子〈1872〜1921〉、「七里ヶ浜の哀歌」とも)と後に呼ばれる歌である。

なかなかいい歌詞なので、6番のうち1番だけ紹介すると、

真白き富士の根 緑の江の島

仰ぎ見るも 今は涙

帰らぬ十二の 雄々しきみたまに

捧げまつる 胸と心

現在の逗子開成中・高には、オールをかたどった「ボート遭難碑」があり、玄関には「真白き富士の根」の歌詞が飾られている。今年も1月23日に全校生徒を前に校長が話をし、全員で黙祷をささげ、「真白き富士の根」の歌が流された。ちなみに、「真白き富士の根」は戦前、戦後とレコード化、映画化され、今に伝えられる、という。

ということで、これからは我孫子市での水難事件を紹介する。吾輩の手元には、3紙の記事があるが、3紙とも違う角度から書かれているので、古い記事から紹介する。

1.広報「かしわ」(2004年10月15日)ー手賀沼漁業協同組合組合長・深山正已の言

昭和19年11月22日は忘れもしません。当時私は19歳で千葉に下宿していて、手賀沼の河岸には常時、舟を置いていました。午後4時半ごろ実家に帰ろうと船置き場に行くと、晩秋の薄暗い中で一際明るい場所がありました。そばへ行くと、驚いたことに数多くの女性の水死体が、照明に照らされ並べられているではありませか。聞けば正午少し前、手賀渡船場前で、渡し舟の転覆による水難事故があったというのです。この事故で、教員16人と2歳の男児・小学生の女児計18人が亡くなりました。教員のうち2人は校長と教頭の男性、14人はほとんどが若い女性教員でした。手賀渡船場まであと二百㍍というところで東風の突風が吹き荒れ、乗っていた舟に水が入り、慌てた教員たちは連なっていた隣の舟に乗り移ったところ、重心を失った舟は転覆し、ほとんどの人が水中に投げ出されたということです。

このあたりは無医村で、医者が駆けつけたのは午後4時過ぎ。このことも事故死を多くした一因でした。

2.朝日新聞千葉版(2015年11月11日付け)

事故があったのは1944(昭和19)年。東葛飾郡東部教育会主催の研修会があり、午前中に湖北村国民学校(現、湖北小学校)での研修を終えた参加者らが3隻の渡し舟に乗り、対岸にある手賀沼手賀東国民学校(柏市立手賀東小学校)へ移動する際、強風で舟が次々に転覆し、沼に投げ出された。

我孫子中央国民学校(現・我孫子第一小学校)校長をはじめ、児童や乳児を含む18人が亡くなる大惨事になった。このうち12人が平均年齢20歳の女性教員だった。当時、男性教員の大半は戦地に駆り出され、教壇に立っていたのは若い女性教員が中心だった。

3.「朝日れすか」(19年10月20日付け)ー元教員・小林健(89歳、事件で亡くなった風早国民学校大井分教場の「女校長先生」と慕われた小林富さん〈当時36〉の長男)の講演内容。

事件が起きたのは小林さんが旧東葛飾中学校2年生の時だった。自転車で帰宅途中、友達から「いしら(お前の)、おっ母死んだと」と聞かされた。

何のことかわからず帰宅すると、本家の叔父や叔母、近所の人たちが集まっていて、母の死を知らされたという。

その朝、富さんを登校する荷台に乗せて柏駅まで送った。「ありがとう。きょう一日、しっかり勉強するんだよ」が最期の言葉だったという。

小林さんは、戦火が広がるにつれて男性教員が戦場に駆り出され、教育現場は女学校を出たばかりの若い女性が中心となり、大勢の若い女性教員が犠牲になった理由を説明した。

小林さんは「転覆した3隻は明らかに定員オーバーだった。止めた船頭を振り切り、引率した男性校長の責任は大きい。しかし、責められない。戦争が神経をまひさせ、安全を考える心の余裕をなくしたからだ」と断定した。

富さんの葬式も空襲警報の発令で中止になった。父親も戦死し、70代の祖母、幼い妹とともにわずかな畑を耕し、農作物を売って苦しい生活を送った。満足な補償も受けられず、朝から晩まで働き通しの遺族もいたことを紹介した。

1948(昭和23)年11月、手賀沼の現場を真下に見下ろす高台に慰霊碑が建立された。65(同40)年代から手賀沼干拓が始まり、埋め立てが進んだことから2015(平成27)年11月、事件直前の研修会場となった我孫子市立湖北小学校校地に移転された。

小林さんは「市民の皆さんのご理解を得て(犠牲者らが)大好きな子どもたちがいる湖北小に移転してよかった。深く感謝したい」との言葉で締めた。

どうですか、知らなかったでしょう。吾輩も5年前に、慰霊碑の移転を報じる地元紙で知り、さっそく写真機を持参して慰霊碑を探した。戦後、沼に面した小高い丘に建てられたというが、周辺は宅地化されたり、竹藪に覆われていたことから、なかなか発見できなかったが、やっと「手賀沼殉職教育者之碑」(高さ約3㍍の石碑)を発見した。その際には、移転計画が持ち上がって当然と感じた。

その後、慰霊碑は湖北小学校に移転したので同校を訪ねたが、設置場所は学校正面に近く、これでは日頃から皆さんの目に触れるという意味で良かったと思った。

ちなみに、柏市手賀沼フィッシングセンターには「手賀沼水難者の慰霊観音像」がある。しかしながら、この事件に関しての“うた"がないので、今からでも誰か作詞しませんか。吾輩も作りたいが、恥をかくから諦めた。