江戸幕府の「利根川東遷」に関連する歴史

この地に住み着いて、もはや10年余り。その間、地元で開かれた「郷土歴史講話会」に20回以上参加して、下総国(茨城県、千葉県、東京など)の歴史などを学んできた。その中で、最近関心を持ったのが、江戸幕府が江戸を中心とした陸上・水上交通網を整備する中で、関東地方の大河「旧利根川」の水路変更と、常磐道の経路変更の歴史である。ということで、千葉、茨城、埼玉各県に土地勘のない人は、関東地方の地図を横に置いて読んでほしい。

古代から江戸時代初期までの常磐道は、現在の茨城県の取手を通らず、千葉県の我孫子から利根川に沿って布佐(我孫子市)まで下り、常陸川(ここが最大の謎で、もしかしたら小川)を渡って、布川(茨城県利根町)を通って小貝川の東方を北上して、河原代(龍ヶ崎市)から牛久へと遠回りしていた。それを江戸時代の天和2年(1682年)になって、やっと最短距離で青山(我孫子市)から利根川を渡って、取手宿を経由するルートに変更された。

江戸時代の水戸街道は、水戸路、水戸道中とも呼ばれ、奥州街道の脇道として、5街道(東海道中山道甲州街道奥州街道日光街道)に次いで重要視された。その出発点は、1609年に徳川頼房(徳川家康の第11子)が水戸藩主となり、紀伊尾張と並んで徳川御三家となったことで、水戸へ通じる街道が整備された。5街道は幕府の直轄として、水戸街道も1660年以来松戸まで道中奉行の直轄として、道路の維持や管理は凡て幕府の負担で行われた。ちなみに、江戸から水戸まで29里19町(116㌔)で、宿駅は千住、新宿、松戸、小金、我孫子、取手、藤代…と19カ所で、普通は2泊3日の行程だが、歩みが遅い大名行列の場合は3泊4日を要した。

一方「旧利根川」の水路変更は、江戸を利根川(今の江戸川、荒川、隅田川)の洪水から守るため、江戸に流れ込んでいた水路をつけ換えることが目的である。まずは、埼玉県の栗橋で渡良瀬川と合流させ、それから常陸川や鬼怒川をつないで、利根河口の銚子から太平洋へ利根川を流したが、これを世に「利根の東遷工事」という。その結果、水戸藩主で初めて取手から利根川を渡ったのは、天和2年10月の水戸光圀が最初と言われている。

一般的に「利根川東遷」というと、徳川家康の発案で、1594年の「会の川の締め切り」工事が始まりと言われる。ところが、今の研究者は「利根川東遷の目的を船運に絞ると、東遷事業は会の川締め切りではなく、1621年の新川通(埼玉県北川辺町)と赤堀川(茨城県五霞町)の開削から始まる」という見解を示している。そこで、まずは旧利根川の水路変更工事の経緯から記していきたい。

○1621年→旧利根川の水路を栗橋付近から東に移すため、台地を切り通して赤堀川(1番掘)としたが、幅が7間で常陸川(鬼怒川支流)への通水は失敗。

○1629年→鬼怒川・小貝川の分離。

○1630年→布佐・布川の締切部開削。

○1635年→赤堀川の幅を3間広げて10間(2番掘)にしたが、やはり通水は失敗。

○1654年→赤堀川の幅を27間(3番掘)に広げ、ようやく通水に成功。この通水で、旧利根川の水が利根河口から太平洋に流れて「利根川東遷」事業が完成した、という点で識者の意見は一致する。

○1669年→布佐・布川間の締切部再び開削(この工事で、現在の利根川が出現した)。

○1681〜88年→取手ルートの整備で、水戸街道は青山(我孫子市)から取手宿に。

○1783年→浅間山の大噴火(利根川の川底を引き上げ、船運に支障をきたす。3年後、大洪水)。

○1809年→赤堀川の幅を40間(72㍍)に広げる(これによって、江戸川は利根川という呼び方はなくなる)。

以上のような経緯で人工河川「利根川」が完成したが、これで「利根の東遷工事」が完了したわけではない。つまり、明治時代に入っても、利根川の大規模な改良工事が行われ、けして江戸時代だけで終結したわけではないのだ。

このような歴史を知ると、赤堀川の開削と、布佐・布川間の開削が、最大の土木工事と考える。赤堀川の開削現場は、吾輩の所から遠方になるので見学していないが、布佐・布川間の利根川に架かる「栄橋」(全長273㍍)は、よく利用するので昔の大工事の痕跡を感じる。つまり、台地を深く開削して水路を開いたので、この場所から下流は「下利根川」と呼ばれ、この地点が利根川下流の中で最も幅が狭く、そして川岸が急な斜面になっている。

それに関連して、講演会で“ミニ学者"が「我が家の裏を通る国道356号は、古代から江戸時代初期まで大街道であったので、あの空海さまも通ったと考えると嬉しくなる」と発言したことがある。また、ある講演会では参加者が「あの場所は岩盤が安定しているので、明治時代に常磐線を通す時、一時候補地になった」という発言もあった。要するに、古代から「栄橋」付近は、高台で水の流れも少なく、岩盤もしっかりしていることから、常磐道の経路になり、そして群馬・栃木両県から太平洋に向かう水路を阻んできた場所と言える。

以上、あまり自信のない説明になったが、これに関しては、専門家が著書で記しているように、「あれだけの土木工事をしたのに、それを具体的に記録した史料がきわめて少ない」という背景もある。だから、我輩も自信を持って、具体的に書けない時期・場所がある。その意味で、これから本を上梓する専門家には、どのくらいの人員を動員したのか、それはどの地域の人たちか、資金はどのくらいか、その資金は誰が支出したのか、当時の地形はどうであったのか、等々に答える本にしてほしい。それもページ数は230頁くらいで、元々の地形は立体的に掲載してほしいのだ。