遠軽町の金山「旧北ノ王鉱山」は復活するのか

今年最後となる今回は、遠軽町生田原の金山「旧北ノ王鉱山」は復活するのか、というテーマで話を展開する。それでは、まず最初に12月23日付け「北海道新聞」の記事から紹介する。

ーゴールドラッシュ再び?遠軽・旧北ノ王鉱山で試掘 東京の業者、閉山後初の本格調査ー

遠軽】北海道や九州で金の探査を手がける「ジャパンゴールド」(東京)が、(遠軽)町生田原の旧北ノ王鉱山で、残された金の含有量を調べるためにボーリング調査を行っている。1943年(昭和18年)の閉山後、本格的な調査は初めて。地元では、金の産出による経済的な波及効果が広がる「ゴールドラッシュ」に期待している。

同社は、採掘技術が進歩したことに加え、閉山が太平洋戦争の戦局悪化に伴う国策だったことから、金がまだ残っている可能性に着目し、国から試掘権を得て8月からボーリングを開始。12月下旬までに6カ所で地表から深さ約550㍍まで掘り進め、地質サンプルを採取する。

という記事であるが、何を隠そう、吾輩は生田原生まれであるので、なおさらこのニュースに注目した。さらに、遠軽町の広報誌で調べてみると、次のような金山の歴史がわかった。

明治31年北見枝幸地方で有望な砂金田が発見される。翌32年の砂金産出量は約670㌔と言われ、5万人の砂金採取者が押し寄せた。

○大正4年、地元の漁師が鴻之舞の元山区域にあたる川の大曲付近で石英転石を発見し、翌5年には東洋一の金山「鴻之舞鉱山」が誕生した。昭和48年に閉山したが、金産出量のピークは昭和29年2・97㌧で、総生産量は金72・6㌧、銀1234㌧である。

○大正5年、生田原地域の農場で金塊が発見されると、次々と露鉱が発見されて同7年11月に「北の王金山株式会社」が設立。昭和12年に帝国産金興行株式会社に買収されると、建設ラッシュが起こり、1年ほどの間に大鉱山街が築かれる。昭和13年の砂金量391・6㌔に対し、翌14年は379・9㌔と減産に転じ、同16年には79・2㌔と激減。金産金を奨励していた国の政策転換によって同18年に閉山した。

このほか、カナダの開発会社幹部の発言も紹介する。

○私たちは、3年前にカナダのジャパン・ゴールド社が100%出資する日本法人、サザン・アーク・ミネラルズ・ジャパン株式会社を設立しました。生田原地域を中心としたこの地域は、世界でも有数な高品位の金山である鹿児島県の菱刈鉱山に似ています。

○近年、日本においても資源開発を活性化させる目的で平成24年に鉱業法が改正され、外国資本であっても、技術的にも資金的にも力のある会社には探鉱の許可が与えられるようになりました。

生田原地域には、かつて多くの鉱山がありました。そのうちの一つが北ノ王鉱山。この北ノ王鉱山の露天掘りに代表されるように、昔の鉱山は深いところまで採掘していません。そこに可能性があると期待しています。

以上の発言を知ると、なんとなく期待が持てませんか?そこで、次に地元の後輩に尋ねたところ、同人は「私も期待して見守っているが、知人の中には『令和のゴールドラッシュがくる』と言っている。調査している会社はカナダで、日本の会社は、あの『六本木ヒルズ』とも聞いている。そもそも、5年前から聞いている話しで、現在は10人くらいが作業に携わっている。作業に使用している機械類は特殊なものが多く、トラックも米国で多く使用されているピックアップトラックが使われている」と話してくれた。

そう言えば昔、亡き父親が金探しの人たちを“山師的なところがある"と言っていたことを思い出した。昔、オホーツク管内には、第2の鴻之舞金山を発見するために、多くの山師がいたようだ。それを考えると、大金持ちや小金持ちは、その手の山師に気をつけなければならないが、やはり“金鉱探し"に対しては気持ちが高まるものだ。来年以降の朗報に期待して、続編のニュースを待ちたいと思う。