ラグビーと英国上流階級との関係

いよいよ、ラグビーワールドカップ(W杯)2019日本大会が、9月20日の開幕戦(日本×ロシア戦)から始まった。そうした中で、ある友人が「なぜ、ラグビーは国籍を持たない選手を代表チームに入れることにしたのか」と言うので、吾輩は「ラグビーは、英国上流階級のスポーツで、19世紀から大英帝国の植民地の支配者として、エリートがインドやオーストラリア、ニュージーランドに派遣された。移住した国でナショナルチームが結成された時、国籍主義だと英国人は代表選手になれないから、国籍にこだわらないことにしたのさ。つまり、英国のエリートは、今の日本の偏差値教育による“学校秀才"とは違うのだ」と述べた。

その発言の背景には、もう35年前になるが、職場の上司(検事)の発言がある。その検事が、勤務後の酒の席で「イギリスの士官は、2〜3人の兵士とケンカをしても負けないらしい。最近、会田雄次の『アーロン収容所』を読んだところ、そのように書いていた。英国のエリートは、体格もよくてケンカも強いようだ」と言ったのだ。

その後、その著書「アーロン収容所」(著者=会田雄次〈1916〜97〉、中公新書)を読了したかは忘れたが、改めてその著書を取り寄せた。そこには、英国の上流階級に関して、次のように書いている。

〈青白きインテリはいない〉

まず外観からはじめよう。イギリス兵の服装は、日本のように士官と下士官・兵のような劃然とした区別はない。士官であるかどうかは腕にある階級章で区別できるだけである。この点はアメリカ兵と同じである。ところがそのうち私たちは遠くからでも一見して区別できるようになった。〜

こういう点は士官も同じである。かれらもあまり上等の書物は読んでいなかった。ただ士官の会話にはところどころわかる単語が出てくる。どうも発音や用語が、下士官とは全然ちがうらしいのである。

しかし私たちが一見して士官と兵とを区別できたというのはそのことからではない。それは、体格、とくに身長である。五尺七寸余(一・七五メートル)の私より背の高いのは下士官や兵ではすくない。五尺四寸くらいのものがすくなくないのである。しかし士官は、大部分が六尺以上もあると思われる大男で、私より低いものはほとんどいなかったのである。

体格も下士官や兵には見事なものは多くない。かえって貧弱だなあと思うような男もすくなくなかった。しかし士官は老人以外はほとんどが堂々たる体躯で私たちを圧倒した。かれらに接したときほど日本人の体格のみじめさを感じたことはない。十七貫(六四キロ)ちかくにはなっていた私などでも、かれらと比べるとまるで蚊トンボであった。しかも体格だけではない。動作が生き生きとして自信にみち、しかも敏捷であるのが目立つ。〜

この例が示すように、英軍の階級は社会秩序をそのまま反映しているといえる。とくに士官と下士官・兵との間には、これでも同じイギリス人かと思われるほどの差がある。士官はいわばホワイト・カラーであり、下士官・兵は労働者である。下士官・兵にもホワイト・カラーが少しはいるが、それは幹部候補生としてのそれではなく、下積み的な事務屋である。〜

士官と兵隊が一対一で争うとする。たちまちにして兵は打倒されてしまうだろう。剣やピストルをとっても同じことと思われる。士官たちは学校で激しいスポーツの訓練をうけている。フェンシング、ボクシング、レスリング、ラグビー、ボート、乗馬、それらのいくつか、あるいは一つに熟達していない士官はむしろ例外であろう。そして下士官・兵でそれらに熟達しているものはむしろ例外であろう。士官の行動は、はるかに敏捷できびきびしているのである。

考えてみれば当然である。かれらは市民革命を遂行した市民の後裔である。この市民たちは自ら武器をとり、武士階級と戦ってその権力をうばったのだ。共同して戦ったプロレタリアは圧倒的な数を持っていたが、そのあとかれらが反抗するようになると市民たちは力で粉砕し、それを抑えてきたのである。私たちはこの市民の支配を組織や欺瞞教育などによると考えて、この肉体的な力のあったことを知らなかった。

「なるほど、プロレタリアは団結しなければ勝てないはずだ」

これは労働運動をやっていた一戦友のもらした冗談でもあり、本音でもあった。

日本の市民層はこのような歴史を持たない。自分たちの利益を守るために武力を用いた経験などまったくもっていなかったと言えるであろう。

私たちは、“青白きインテリ"ということばにならされてきた。戦前戦後を通じ、教養と体力とは本来的に別物である、別物であるどころか対立物であるというのが私たちの観念でさえあった。日本ではこのような考え方はある程度事実に対応もしていた。今日でも大学の競技の選手が読書家だったり優等生だったりすると、人は不思議だという顔をして「だから弱いんだ」と言ったりするのがふつうである。〜

私たちは階級ということばをしきりにつかう。もちろん階級とは何ぞやという問題はむずかしい。論理的にはそれを認めても、具体的にそれを認識することはなかなか難しい。すこしでも自分たちの意見に賛成しない人は全部対立階級に見える人だっているのである。ただマルクスの見たイギリスのブルジョアというものの具体的な姿は、私たちが観念的に見ている日本のブルジョアなどとまったくちがったものだということは確かであろう。

イギリスのブルジョアとプロレタリアは、身体から、ものの考え方から、何から何まで隔絶したものなのだ。イギリスの士官と兵はまったく同じ服装をしている。それなのに、英軍の階級についてほとんど何の知識もない私たちにもはっきり見分けがついた。それは同国人とはとうてい思わせないほどの人間類型の相違を見せているからである。イギリス軍人に接した私たちは、階級という意味をまざまざと見出すことができたのである。一般社会ではこのようにあざやかに両者を団体として対比して眺めるわけにはゆかない。鋭い社会分析能力をもつ人ならば、この区別を帳面づらではかぎ分けられよう。しかし肉眼で見えたろうか。

イギリスについてずいぶん学んできたはずの私たちは、ここまで鮮やな対立があることを知らせてくれる研究や報告に接することは稀であった。そしてそのままに、イギリスの階級対立と日本の階級対立を無造作に同一視してきたのである。同然の結果として、外見的にも隔絶した差異があるなら、その内容にも差異があるはずだという問題が提唱されることはなかった。〜

ということで、イギリスの上流階級と労働者では、考え方や生き方が随分と違うことが解る。だから、協調性や自己犠牲を尊ぶラグビーは、エリートを育成する教育の柱として、上流階級の男子が通うパブリックスクールで広まったのだ。

要は、大英帝国を維持するためには、ケンカの一つくらいできなければ、植民地に行けないということだ。つまり、ラグビーの半分は“格闘技"であるから、まさしくエリートに相応しい競技であるのだ。だから、近代五輪の父・クーベルタン男爵(フランス)も、ラグビーのレフリーを務めるほど傾倒しており、西欧の上流階級は皆同じ意識を持っていたと思われる。

そのような価値観からか、英国上流階級は、長い間“スポーツでカネを受け取ること"に抵抗を感じてきた。一方、労働者のスポーツであるサッカーでは、別段カネを受け取ることに抵抗はなかったので、戦前からプロ化が進み、1930年には早くもワールドカップを開催している。ラグビーは、やっと1987年にワールドカップを開催し、アマチュア規定は1995年まで撤廃できないでいた。つまり、あまりにも誇りが高いので、世界のスポーツ界から取り残され、やっと最近になりプロとアマ、つまり上流階級と労働者の境の消失によってラグビーの近代化が進んだのだ。

ところで、紹介した著書「アーロン収容所」(著者=京都大学教授・会田雄次中公新書)は、初版は1962年11月15日で、もう92版に達している。これだけ名著である以上、読書の秋に手にとってみてはと思うのだ。