周恩来は偉大な政治家であったのか?

1972年9月に日中国交正常化が実現した際、多くの日本人は周恩来(1898年〜1976年)に好感を持ったと思う。その理由は、田中角栄首相と会談した際の立ち振る舞いが堂々としていたことと、さらに暴君の毛沢東の配下として中華人民共和国の成立時から長年、国務院総理のポストに収まっていたからである。だから、まさに“政治家の中の政治家"という良いイメージを日本国民に与えた。

しかし、最近発売された新刊書「中国をつくった12人の悪党たち」(著者=石平、PHP新書)の中の第八章「毛沢東周恩来ー中国史上最大の暴君とその忠実な僕」を読むと、それらのイメージがガタガタと崩れ落ち、別の周恩来の姿が見えてきた。その辺を伝えるべく、次の文面を引用することにした。

じつはいま、われわれは周恩来が書いた数多くの「自己批判書」を目にすることができる。それは『晩年周恩来』という本を書いて出版した高文謙という人のおかげだ。彼はもともと中国共産党内部の人間で、長年共産党中央文献室に勤務して、党の内部機密文書に接する立場にあった。そして彼はまた、文献研究室のなかに設置された「周恩来生涯研究班」の班長に任命され、周恩来に関するあらゆる「マル秘」資料に目を通していた。

天安門事件以後、高文謙氏は中国から脱出して米国に移住した。そして2003年、彼はみずからの把握した膨大な「周恩来資料」に基づいて『晩年周恩来』(邦題は『周恩来秘録』)を書いて出版し、世の中にまったく知られていない周恩来の正体を暴いてみせた。〜

高文謙氏の『晩年周恩来』の記述によると、周恩来は三万字に及ぶ学習メモと自己批判要点を書いて、1943年11月15日から、党政治局会議でまるまる5日間の自己批判を行ったという。これは党内の最高幹部「整風」における自己批判の時間が最も長いものの一つとなった。

そのときの光景を『晩年周恩来』はこう記している。

「周は毛の定めた趣旨にそって、問題を最大限に誇張し、自分にレッテルを貼り、泥水をかぶり、系統的に自分が犯した過ちを清算した」

ここでいう「問題を最大限に誇張する」とは当然、周恩来が自らの「問題」の厳重性を最大限に誇張することを指している。あまり適切な喩えでないかもしれないが、それは、「お前は一度盗みを犯して一万円も盗んだね」と糾された犯人が、「いいえ、私は十回も窃盗して百万円を盗みましたよ」と答えたかのような自己批判だった。とにかく周恩来は、「自分にレッテルを貼り、泥水をかぶる」ことで、毛沢東への降参と屈従を表明したのである。

彼の行った自己批判には、たとえば次のような内容がある。

「(私は)経験主義派の毒をもち、コミンテルン教条主義に盲従し、思想的気分的に教条主義派と一脈通じるものがあった。それで思想上、組織上、大きな罪を犯したのはもちろん、経験主義派の代表、教条主義派支配の共犯者として人々の思想を惑わす人物となり、党のボルシェビキ化を阻害するものとなった」

ここで周恩来は、毛沢東抵抗勢力に貼った「経験主義」と「教条主義」の二つのレッテルを一人で全部引き受けた。そして、「罪を犯した」「共犯者として」といった際どい表現までをもちだして、自分自身を「犯罪者」呼ばわりしたのである。それは、毛沢東の強要に応じた自己批判というよりも、むしろ毛沢東の期待さえもはるかに超えた「自己断罪」というしかない。生き延びていくために、彼はどんな泥でも平気で自分の顔にかぶるつもりだった。

周恩来はさらに、自分の生まれ育った家庭的背景にまで掘り下げて、自分の「罪」を追及しようとした。

「私は破産した封建旧家の子弟だ。この家庭環境が私に与えた(見栄を張り)、庇いあい、世間体を気にし、八方美人、引っ込み思案、得失のみを考え、煩瑣で衝動的な曲がった根性は抜け切れておらず、おまけに幼児の母親の教育は、私の党内での奴隷根性を助長し、軟弱で、いつまでたっても妥協をはかるばかりで原則性に欠ける性格の根源であり、同時に破壊性も帯びていたといえる」

高文謙氏の『晩年周恩来』に記載されている上述の自己批判を読んだとき、私の心のどこかにかすかに残されていた、周恩来という歴史的人物に対する敬意は完全に砕けて粉々になった。〜

ときかく、彼は善悪や是非に対する自らの判断を完全に放棄して、良心もプライドもいっさい捨てて、毛沢東の走狗と奴隷になりきって、毛沢東一人のために人生のすべてを奉仕した。〜

死亡する数日前、ほとんど昏睡状態に陥っていた周恩来は、意識を取り戻したわずかな時間で、公表されたばかりの毛沢東の詩を口ずさんで、毛沢東への最後の恭順を表した。死ぬ寸前まで、彼は撤頭撤尾、毛沢東の忠実な「奴隷」だった。

何のことはない。毛沢東という暴君への「奴隷道」に徹したことこそが、一度も失脚しなかったという「周恩来の奇跡」の秘訣だった。奴隷になりきったことは、いわば周恩来という謀略家の用いた最大の謀略だった。

吾輩も、以前から周恩来の生き様に関しては、多少なりに疑問は持っていた。なぜなら、1958年の大躍進政策の失敗で、59年から61年までに2000万人から4000万人という史上空前の大量の餓死者を出しているにも関わらず、総理というポストを外れていないからだ。まともな国家であれば、これだけ餓死者を出せば、失政として下野するのが常識だ。ところが、何の弁明もなく、引き続き政府の最高幹部を務めている。

それらを考えると、何となく周恩来の立ち位置、人間性、価値観など見えて「なるほど」と納得するのだ。それにしても、共産党による一党独裁体制の恐ろしさと、毛沢東の権力に対する執着心を知ると、今後も厳しい目で中国大陸の政治状況を見つめかければと思うのだ。