世界的なバレエダンサーだったヌレエフの映画について

6月12日(水)の18時15分から、東京・新宿武蔵野館で英国映画「ホワイト・クロウ(白いカラス)」が上映されたので、18時前に映画館に到着した。ところが、入場券を購入しようとしたところ、観客席が「満席」という標示が出たので、案内人に「千葉県から1時間以上掛けて来たが、席は満員なのか」と尋ねると「すみません。今日は満席です」と言うのだ。吾輩は冷静に「観客席は何人入れるのか」と問うと、首を傾げて「80人です」という返事。結局、諦めて映画のパンフレット(八百円)を購入して帰宅の途についた。

帰宅後、パンフレットを読むと、ますます映画を観たくなった。そこで気を取り直して、パンフレットを基に、映画の主人公であるソ連の世界的なバレエダンサーだったルドルフ・ヌレエフを紹介することにした。

1.ルドルフ・スレエフ年譜

○1938年3月17日、タタール人の両親のもと、父親の赴任地ウラジオストックに向かう列車の中で誕生する。4人姉弟の末っ子で唯一の男子。

○45年の大晦日の夜、バシキール歌劇場でバレエ・フェスティバルを見、舞踊家になることを決意する。

○49年にキーロフ・バレエ団のソリストだったワイトヴィッチに師事する。

○55年8月のワガノワ・バレエ・アカデミーの試験を経て、9月1日から編入を許可される。校長に訴え、プーシキンに師事する。

○58年6月、モスクワで行われた国内コンクールに参加して喝采を浴びる。モスクワのボリショイ劇場スタニスラフスキー記念音楽劇場から契約を持ちかけられるが、最終的にレニングラードのキーロフ劇場と契約する。

○61年6月16日、キーロフ・バレエ団のパリ公演の帰途、ル・ブルジェ空港で亡命する。

○62年2月、英国ロイヤル・バレエ団の「ジゼル」でフォンテインと初共演する。

○63年3月、アシュトン振付の「マルグリットとアルマン」をフォンテインと初演する。その後、フォンテインと初来日。

○67年、ローラン・プティ振付の「失楽園」をフォンテインと初演する。

○70年、キーロフ・バレエ団のロンドン公演中にナタリア・マカロワが亡命する。

○83年、パリ・オペラ座バレエの監督に就任し、89年まで務める。

○87年、亡命後初めて故国に帰還。ウファで家族と再会を果たす。

○93年1月6日、パリ近郊の病院で没。サントジュヌヴィエーヴ・デボワのロシア人墓地に埋葬された。

2.池野恵(舞踊評論家)の批評。

○生来の気性の激しさ、気まぐれといった性格も伝えられてきた。軍人の息子として生まれ、広大なソビエト連邦の中心から遠く離れた地方を転々として育ったヌレエフが、帝政ロシアの時代から続くアンナ・パブロワやニジンスキーを輩出した名門校、ワガノワ舞踊アカデミーに17歳で編入することができたのは、溢れんばかりの情熱と、目指すものを手中に収めるまでは決して諦めない意志の強さが、それを実現させたのであろうことは想像に難くない。

○20歳近くも年下のヌレエフは、フォンテインのバレリーナとしての生命を甦らせた、と言われ、ここから奇蹟のパートナー伝説が誕生した。それまでバレリーナのパートナーとして、控えめに佇み支えていた男性の役割は、彼の登場以来様変わりし、女性と同等の立場へと、その後のバレエ界の価値観を変えるまでに大きな影響を及ぼし、今日に至っている。

○日本には83年に20年ぶりに松山バレエ団招請で再訪し、森下洋子と共演して以後、頻繁に訪れていた。

3.監督のレイフ・ファインズ(1962年、イングランド生まれ)の批評。

○ヌレエフ役には、演技ができるダンサーが必要でした。〜オレグ・イヴェンコ(ヌレエフ役)はカメラに対する反応と演技が抜きん出ていた。〜そして角度によってはヌレエフに似ていること、カメラに愛される資質を持っていることも決め手になりました。

○ヌレエフ役は、ロシア語が話せて演技ができるダンサーでなければならなかった。だから、最終選考に残った4、5人の中からタタール国立バレエに所属するウクライナ出身のオレグ・イヴェンコを選んだ。

4.立田敦子(映画評論家)の批評。

○「シンドラーのリスト」や「イングリッシュ・ペイシェント」などでアカデミー賞にノミネートで知られるイギリスの名優レイフ・ファインズは、実際に会うと穏やかでシャイな紳士という印象なのだが、その活動は情熱と信念の塊のような映画人だ。

○そして第三作目が「ホワイト・クロウ 伝説のダンサー」である。ソ連時代に亡命したダンサーで、英国ロイヤル・バレエなど数々の名門バレエ団で踊り、1983年にはパリ・オペラ座の芸術監督に就任するが、1993年にエイズの合併症のため54歳の若さで逝った伝説のバレエダンサーの半生を描いたものだ。ファインズは、ジュリー・カヴァナが著した評伝を20年ほど前に読み、感銘を受けたが、ついに機が熟し、映画化にこぎつけた。

どうですか、ヌレエフの生き様を知りましたか。そして、映画を観たくなりましたか。

ところで現在、東京では1976年のインスブルック冬季五輪フィギュアスケート男子シングルで優勝したジョン・カリー(英国)の映画「氷上の王、ジョン・カリー」が上映されている。ところが調べてみると、カリーもエイズで亡くなっている。また、英国のロックバンド「クイーン」のボーカリストであるフレディ・マーキュリーエイズで亡くなっている。

もう一度、整理すると、

○ヌレエフ(1938〜93)→54歳で死亡。

○マーキュリー(1946〜91)→45歳で死亡。

○カリー(1949〜94)→44歳で死亡。

ということになる。

要するに、最近偉大な三人の芸術家の半生を描いた映画が上映されているが、全て90年代初めにエイズで亡くなっている。我々は、この現実をどのように考えれば良いのか。そして、思い返すと、英国で最初の症例が報告されたのは81年で、検査薬は85年まで存在せず、本当に効果のある治療薬の登場は96年まで待たなけならなかった。つまり、治療方法が無いばかりに、著名人だけでなく、多くの一般人も貴重な命が奪われたのだ。この教訓は、我々に課せられた課題と考えるが、どうか?