あの「三島事件」に付随した昔話

明日からいよいよ新しい時代、令和が始まるが、連休前に新刊書「三島由紀夫が復活する〈新書版〉」(著者=小室直樹、毎日ワイズ)を読了した。この書物を手に取った理由は、著者の小室(1932〜2010)が、ソ連崩壊を予言するなど、先見性や分析力が抜群であることや、少しでも三島の思想に触れたいからだ。しかしながら、本書で得た知識は、吾輩の45年間の“謎解き"に繋がった。その“謎”を紹介する前に、改めて本書に記載されている「三島事件」(1970年〈昭和45年〉)を振り返りたい。

三島由紀夫の具体的行動は、検察官の「冒頭陳述書」によれば、次のようである。

――6月13日、ホテル・オークラ821号室に、三島ほか3名が集合。三島は、自衛隊は期待できぬから自分達だけで実行すると云い、その方法として、自衛隊弾薬庫を占拠して武器を確保するとともに、これを爆発させると脅かすか、或いは東部方面総監を拘束して人質とするかして、自衛隊員を集合させ、三島らの主張を訴える。決起するものがあれば、ともに国会を占拠して憲法改正を議決させる。これに対し、森田、小賀、小川から、弾薬庫を占拠するにもその所在が明らかでなく、両案をともに行うと兵力が分散するとの意見がだされ、結局総監を拘束する方策をとることになった。

6月21日、三島ら4名が、山の上ホテル206号室に集合。市ヶ谷基地内のヘリポートを「楯の会」の体育訓練所として借用することに成功したと、三島から報告。しかし、総監室はそこから遠いので、拘束の相手方を総監に次ぐものとして第32連隊長にし、武器は日本刀とし、搬入自動車は小賀が免許証を所持しているところから、同人が購入準備し、武器は三島が搬入する旨の提案がなされた。

7月4日、4名は山の上ホテル207号室に集合。「楯の会」会員である学生らが市ヶ谷駐屯地のヘリポートで訓練中に、三島が、小賀の運転する乗用車に日本刀をつみ、第32連隊室に赴き、監禁する。決行は11月の例会日とする。

7月下旬及び8月下旬の2回にわたり、三島ら4名は、ホテル・ニューオータニ・プールにおいて、行動を共にする「楯の会」会員について相談の結果、さらに古賀を加えることにし、9月1日、小賀が新宿の深夜喫茶「パークサイド」において古賀に会い、計画を説明。古賀も同意した。

9月9日、銀座4丁目西洋料理店で、三島は小賀に、日本刀で居合を見せるといって連隊長室に赴き、連隊長を人質として自衛隊員を集合させ、訴えを聞かせる。自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても自分は死ななければならない。決行日は11月25日であると計画を打ち明けた。

11月3日、港区六本木のサウナミスティ休憩室に5名が集合。三島は、自決する者を三島、森田のみとして、全員自決の計画を変更し、他の3名も承諾した。

11月12日、「三島由紀夫展」が東武デパートで開かれる。

11月21日、銀座2丁目、中華第一楼に5名が集合。森田から三島に、連隊長不在が報告される。協議の結果、拘束の相手を東部方面総監に変更。

11月23日、24日の両日、パレスホテル519号室に5名が集合。計8回にわたり決起行動の予行演習を行う。

24日夜、新橋の料亭「末げん」で別れの宴をひらいたのち散会。

25日、小賀の運転するコロナは午前10時13分頃、三島宅に到着。三島ら5名は、午前10時58分頃、自衛隊市ヶ谷駐屯地正面を通り、東部方面総監部正面玄関に到着し、出迎えの三等陸佐の案内で、2階総監室に入る。

以後の行動は、報道の通りである。

さらに、ネットで調べると、事件当日に三島が1号館バルコニーから訴えた相手が、次のような自衛隊員であったという。

ーこの日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた自衛官たちは通信、資材、補給などの、現職においてはどちらかといえば三島の想定した「武士」ではない隊員らであった。ー

以上が「三島事件」に至る経緯であるが、それにしても命を懸けている割には、インテリジェンス(情報活動)がなっていない。連隊長だけが不在で、部隊は基地内に留まっていると理解していたようだ。だが、吾輩にとっては、最も重要な“謎解き"の背景が解った。つまり、吾輩は当初人質になる人物“第32連隊長"に、事件の3年後に会った可能性があるのだ。いや、間違いなく会った。この45年間の「あの時会った自衛隊幹部は誰であったのか」と考え続けてきた帰結になった。

ということで、これから「三島事件」当時の「第32普通科連隊長」(1等陸佐、1969年7月16日〜71年7月15日)と会った経緯を記していく。1973年(昭和48年)12月、吾輩は埼玉県の上福岡市大井町、一部川越市の配達業務を生業としている業者の“お歳暮配り"のアルバイトをした。この業者の仕事は、以前にも行っていたが、この時は業者側から「忙しいので、休日だけも手伝って欲しい」旨の依頼があったアルバイトであった。

12月の休日、50ccバイクに荷物を積んで、小さな看板「自衛隊宿舎」と記載された住宅地に入った。お歳暮を届けた住宅は、周りの建物と多少違う、如何にも幹部用という感じの一軒家であった。

荷物を持参して住宅入口に赴き、中から出てきた五十歳前後の女性に渡したところ、女性は「学生さん?何年生ですか」と尋ねたので、吾輩は「4年生です」と答えた。さらに、女性は「どこに就職するのか」と尋ねたので、相手は自衛隊幹部の妻であるし、正直に「○○○○です」と答えた。そうしたところ、女性はなにに驚いたのか、玄関先から奥に入って、何やら男性と話し始めた。そして、再び吾輩の前に現れ、部屋の中に入るように求め、後から出てきた五十代の男性も“面倒くさい"ような素振りであったが、部屋に入るように呼ぶのだ。

吾輩は部屋へ入り、テーブルを囲む椅子に座ったところ、社交的というか、おしゃべり好きな女性が、吾輩の耳元で一生懸命に、

「この人は、三島事件で有名な人です。この人、知りませんか?」

「この人、もしかしたら、この人が人質になっていたかもしれないのです」

などと言うのだ。だが、吾輩は「三島事件」に関心を持っていたが、この女性が言う“経緯"を理解するほど知識がないので、ただ黙っていた。その様子を察知した男性が「まだこの人、学生さんだよ」と女性に言ったことで、この話題は終わった。その後、約20分くらい男性の斜め前で、出されたお茶を飲みながら対話をしたが、おそらく男性は「なぜ○○○○に就職したのか」などの質問を行い、吾輩も北海道出身でソ連に対する知識などを披露したと思う。帰り際には、男性が「頑張って仕事に励んで下さい」という声掛けもあり、無事に幹部宅を引き上げた。

問題は、その後である。あの女性が、吾輩に一生懸命伝えようとした「三島事件」と、あの自衛隊幹部はどのような関係があるのか、という“事実関係"が解らないのだ。その後、多少「三島事件」に関心がある人物にこの話しをしたが、少しも真実に近づくことはできなかった。そして、やっと本書で、「そうか、当初は連隊長を人質にする計画であったのか」と知ったのだ。あの冷静沈着な自衛隊幹部は、間違いなく当時の「第32普通科連隊長」であると考えた。

吾輩の推測を確認する手立ては、防衛省で1973年当時の住所を確認することであるが、今は個人情報の保護という法の壁があるので、確認することは無理と思う。よって、この昔話しは終了するが、新たに判明すれば、改めて記したいと思う。