日米通算4367安打の記録を持つマリナーズのイチロー(本名・鈴木一朗)は、3月21日の試合終了後の記者会見で、現役引退を表明した。その後、新聞各紙はイチローの関連記事を掲載したが、本日付け産経新聞の記事が一番参考になった。
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〈元オリックス代表 井箟重慶氏〉ー「とうとう来たか、ですね」ー
イチローのオリックス入団当時に球団代表だった井箟重慶氏(84)は、イチローの引退に「とうとう来たか、ですね。いつかはこういう日が来ると覚悟していたが」と語った。
毎年1月、神戸市内で自主トレーニングするイチローに会いに行った。昨年、「体は元気か?」と声をかけると、「大丈夫。ピンピンしていますよ」と声が返ってきた。だが、年々、出場機会が少なくなっていることを心配していた。
イチローが指名された1991年秋のドラフト会議。全国的には無名に近い選手だったが、編成会議でスカウトの三輪日(勝利)氏が「投手として使っちゃダメで打者として育てるべきだ。5位以下なら(地元球団の)中日が間違いなく、獲得する。何としてでも、4位以内で獲得してください」と力説。指名に踏み切った。
第一印象は「ひょろっとした選手だな」という程度のものだった。ところが、翌年2月、2軍キャンプが始まるや評価が一変する。ヒット性の当たりを次々と飛ばし、強肩。足も速かった。井菎氏は「これはただ者ではないな」と感じたという。2軍打撃コーチの河村健一郎氏とともに、「振り子打法」に取り組み、94年、日本プロ野球では史上初のシーズン200安打を達成し、脚光を浴びた。
95、96年とチームはリーグを連覇。中でも、95年は1月に阪神大震災に見舞われ、「がんばろうKOBE」の合言葉で戦った。井箟氏は「イチローが中心になってチームを引っ張ってくれて優勝できた。あの年が思い出深い」と振り返る。
そのころ、米大リーグでは野茂英雄がドジャースなどで活躍。井箟氏はイチローに「君も関心あるんじゃないか」と聞いたことがある。「通用しませんよ。僕の腕が井箟さんの太ももくらいになったら考えますけどね」との答えが返ってきたが、7年連続で首位打者になり、国内では目標は残されていなかった。
2000年、イチローを米国アリゾナ州で行われたマリナーズの春季キャンプへ送り出した。井箟氏が「パワーを思い知って、大リーグ行きを断念するだろう」と思ったからだ。ところが、完全に裏目に出て、イチローの大リーグ志向は強まった。
期待値を上回り続けてきた背番号51。「50歳まで現役」を信じてきた井箟氏だが、目標の5年前に身を引いた。
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我が輩は、朝日、読売、産経新聞の各紙を購読しているが、最近は産経新聞の記事を紹介することが多くなった。それだけ、産経新聞の記事が充実して、参考になる記事が多いということだ。
産経新聞は、1970年代から職場で読んでいるが、当時はそれほど評価が高い新聞ではなかった。ところが、3年前から購読を始めると、もう止められない新聞になった。それくらい、新聞内容が充実しているのだ。
例えば、寄稿している人たちの文章は、視野が広く、的確でバランスが取れ、国の幾末を心配する内容であるので、なおさら止められなくなった。また、スポーツ記事も、重要なポイントを良くつかみ、読み応えのある記事が多くなった。この記事も、そうした中の一つであると考えて紹介しました。