3月6日付け産経新聞に、作家・曽野綾子がジャーナリストの高山正之氏と産経新聞論説委員の阿比留瑠比氏の対論「マスメディアの罪と罰」(ワニブックス)を紹介すると共に、戦後日本のマスコミの病状を嘆く寄稿文が掲載された。それでは、タイトル「『正しくない』言論許さぬ時代の再来ー昔進歩派、今PC」の一部を転載する。
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〜戦後の日本は戦時中の日本政府の思想弾圧から逃れて、自由な言論を取り戻したと思われている。しかし現実には全くそのようなことはなかった。ジャーナリズムの世界では、作家たちの多くが自ら出版社と息を合わせて進歩的態度を取らない限り、出版人の資格を失うという、一種の恐怖で支配されていたかのように見える。私は一時期、日本で原稿を書くことはもはや不可能で、どこかへ「亡命」することを考えたくらいであった。署名原稿でも、朝日、毎日、東京新聞は、自分たちの支持する進歩的姿勢に合致しない原稿は「ボツ」にして載せなかったからである。〜
2人の著者が触れておられる新しい形の言論弾圧の形には、ポリティカル・コレクトネス(PC)と呼ばれるものもあって、これに該当しない姿勢はエッセーとしても存在を許さないという空気が現在むしろ色濃くなっている。私などはほんの数年前までは、あまり耳にすることもなかったこのPCだが、「政治的見地から見た正しさ」のことだと辞書にはあり、そのような姿勢を保って生きる人が望ましいことは言うまでもないが、一人の人間としては、その範疇に外れたどのような人の存在も許されるのが妥当である。そしてまた、その規格外の人間を描くのも、作家の使命である。
これからしばらく、このPCゆえにそれに該当しない言動、文章、人物が排除される動きが、政治や教育の分野はもちろん、言論の世界でも活発に行われるのだろうが、そのような「正当化の波」に表現の世界を許したら、陰影のない絵画のような社会が出現するだろう。
人生には、悪もまた必要なのだ。悪によって、善が輝くことを私たちは知る。こんな当然のことも、当然さゆえに私たちは気づかないこともあるのだ。
作家は昔から、PCが取り逃がしてきた些細な人生の部分をすくい取って、人間性の厚み、おもしろさ、偉大な矛盾などを記録してきた。こんな自由な時代に、そのことの危機が訪れるとは思ってもみなかった。
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曽野氏が指摘していることは、新聞好きの我が輩には以前からわかっていたことである。例えば、朝日新聞を購読していると、いつもの顔ぶれが紙面に出てくるので、発言内容の要旨が事前に解るのだ。始めから発言内容が解る人物を登場させて、何を伝えたいのかと思うのだ。
今回、曽野氏の文章を取り上げたのは「言論の自由」を守りたいからだ。我が輩は以前から民主主義体制では、最も重要なことは「言論の自由」を守ることだと考えてきた。ところが、昨秋に月刊誌「新潮45」(10月号)は、性的少数者(LGBT)をめぐる特集での表現が批判されて、事実上の廃刊に追い込まれた。この際には、出版元の新潮社本社前で100人ほどの人々が抗議行動を展開したという。それに対して、日頃から「言論の自由」を叫んでいる朝日新聞などマスコミは、この行動を規制する記事を掲載しなかった。
出版規制で思い出すのは、もう20年前以上のことであるが、米国で大学院生が原爆製造の本を出版し、当局が出版停止にした事件があった。また、日本でも過激派が爆弾製造の出版物に対して、当局が販売停止処分にしたことがある。つまり、どちらも大量殺人に繋がるので、当局が出版停止にしたが、果たして「新潮45」の記事は、犯罪に結びつく可能性があったのか。
要するに、以前取り上げた著書「西洋の自死」のように、西洋では政治家やマスコミが移民問題で「人種差別主義者」と批判されることを恐れて腰が引けたが、日本ではこのような状況を許してはならない。ましてや、一般国民に対する、あらぬレッテル張りは許してはならない。特に、日常的に「言論の自由」を叫んでいる朝日新聞は、「新潮45」の防波堤にならなけならない立場にあったハズだ。だから、今は日本のマスコミは、命を懸けて「言論の自由」を守る気がないと見ている。
我が輩は左翼は嫌いであるが、でも月刊誌「世界」や週刊誌「金曜日」は、図書館で毎回読んでいる。全体的には賛同する記事は少ないが、中には非常に参考になる記事がある。だから、これらの雑誌がこれからも存続して欲しいと願うし、それくらいの寛容さは持ち合わせている。
今後の世界を見ると、米国・欧州・日本に定着した人権や民主主義、人間の尊厳という価値観を基盤にした勢力と、一方それを脅かす中国・ロシアとの対峙が長期間続くと見ている。つまり、再び2つの異なる価値観の違いによる“冷たい戦争"が続く中で、国内の左翼勢力による「言論の自由」を破壊する行為を見逃すことは出来ない。その意味で、新潮社に押し掛けた“偽物の言論人"を把握し、その化けの皮をはがさなければならない。