横綱稀勢の里の引退に対する見方

昨日、ついに稀勢の里が引退した。“ついに"という言葉を使ったのは、横綱最初の場所で優勝した後、6勝5敗4休、2勝4敗9休、全休、4勝6敗5休、1勝5敗9休、全休、全休、全休、10勝5敗、0勝5敗10休、そして今場所は0勝3敗であったからだ。横綱の成績を見ると、よくも大相撲関係者もファンも、それほど“クレーム"を付けなかったものだと思う。やはり、19年ぶりの日本出身横綱であったことや、再起を期待していたことや、人気及び人徳があったのか、とも考えるのだ。

そこで今日の昼間、稀勢の里の出身地・茨城県の地元紙「茨城新聞」を購入するために利根川を越えた。利根川を越えたと言っても、いっも見ている大河であるが…。購入した「茨城新聞」を見ると、さすがに地元紙というだけあって、全24ページのうち1ページ全面(見出し「横綱稀勢の里引退ー『一片の悔いもなし』)のほか、3面(論説等)、4面(全面に写真6枚)、6、7、22、23の各紙面で取り上げていた。だが、これだけ紙面を占めても、参考になる記事は少なかった。取り上げるとしたら、共同通信の記事と思われる次の記事である。

ー〈悪い前例も〉

長年の健闘の一方、横綱昇進後の成績は振るわなかった。在位12場所で皆勤はわずか2場所。連敗記録や連続休場場所数で不名誉なワースト記録をつくり、昨年11月の九州場所後には横綱審議委員会から初の「激励」決議を突き付けられた。

17年初場所で初優勝後の昇進は異例ともいえた。16年九州場所は優勝した横綱鶴竜と2勝差。当初は綱とり場所と認定されていなかったが、根強い日本出身横綱の「待望論」がムードをつくった。

それが昇進後2年間での不成績。将来の横綱誕生の判断に一石を投じる可能性もあり、日本相撲協会幹部は「期待が大きかっただけに、悪い前例となってしまった。あれだけ長く休場しても許されるのだから、白鵬鶴竜も簡単に休場する可能性が出てくる」と、稀勢の里の去った後の土俵への悪影響を心配した。ー

なるほどなぁ、という記事である。更に、今日の新聞の中では、朝日新聞に掲載された脚本家・内舘牧子(元横綱審議委員)が書いた記事が参考になった。

もう25年近く昔のことだが、有名企業の社長と対談したことがある。その時、私は質問した。

「何かを見切る時、そのタイミングはいつですか?何を根拠に撤退を決断しますか?」

社長はスパッと答えられた。

「これ以上突っ込んでいくと回収できるような気もするし、深みに入るような気もする。それが見切りの潮時」

非常に納得できる言葉だった。以来、私自身の拠り所になっている。

だが、その会社の役員たちはそれぞれ潮時の感じ方が違い、「まだやれる」と言う人たちもいた。その中で社長が理詰めで、そして自身の感覚を信じて決断する。

第72代横綱稀勢の里が引退を決めた。

平成29年初場所後に横綱昇進を果たし、続く春場所も劇的な優勝を飾った。日本中が沸き上がり、若貴以来の大相撲フィーバーと言われた。だが、春場所の怪我により、連続8場所の休場である。途中休場を繰り返し、また負け方も悪すぎた。

横綱」という地位は、決して醜態をさらしてはならない。おそらく、多くの人々は平成30年初場所で引退すると思ったのでないか。私も思った。だが出場し、4敗して途中休場である。5場所連続休場だ。これは「撤退」としては遅すぎるほどで、深みに入ってしまったと考えてもおかしくない。

それでも引退しなかった。さらに3場所休場し、横綱在位12場所で皆勤は2場所。なぜ早く決断しなかったかと、嘆いていた私が変化したのは、昨年11月の九州場所である。初日から4連敗した後、師匠に「もう一度チャンスを下さい」と訴えたという報道である。

ああ、周囲がどう言おうと自身はまだ「撤退」の潮とは考えていないのだ。周囲が「深みに入った」と思おうと、自身はこれからさらに突っ込み、「回収」できると確信していたのだと思う。

15歳の春から、一切の小細工をせず、ひたすら真っ向勝負を貫いてきた稀勢の里だ。この期に及んでの「もう一度チャンスを」に、私の心は震えた。やり切ればいい。たとえ「回収」できなかったとしても、横綱のありように反したとしても、やり切ることだ。あの時点で「もう一度チャンスを」という言葉は出せるものではない。

結局、「回収」は叶わず、不名誉な記録が残った。だが、多くのファンがここまで待ち、愛し、許したのはなぜか。第72代横綱の、けれんのない相撲に惚れこんでいたことは間違いない。それを弟子に伝え、「回収」する力士を育てることがお返しだ。

以上、参考になった記事を紹介したが、やはり内舘氏が書いた記事が一番印象に残った。参考になる記事が少なかった背景には、休場場所が多いので、エピソードも“溶解"したのかもしれない。その一方で、唯一の日本出身横綱ということで、相撲ファンだけがフィーバーしていたのかもしれない。その意味では、人気だけが先行していた面は否定できないが、それでも「残念極まりない」引退であったことは確かだ。

我が輩にとっては、一昨年2月18日に茨城県牛久市で開催された横綱昇進を祝うパレードと、市民栄誉賞贈呈式に参加したことが最大の思い出になった。また、稀勢の里の出身地である龍ケ崎・牛久両市の市民も、あの約5万人の観客が詰め掛けた日が、最高の思い出になったと思う。それくらい、あの日は盛り上がったが、最後は見事に全てのファンの期待を裏切って引退してしまった。