昔の北見北斗高ラグビー部は強かった

今回は、北海道随一のラグビー名門校・北見北斗高校が、何故に戦後間もない時期に強かったのか、を記す。同校ラグビー部は、昭和27、28、35、38年の高校ラグビー全国大会で準優勝4回を数え、今から考えるとよくも日本のハズレの高校が、ここまで強かったのかと思うのだ。現在の南北2校の北海道代表は、花園の芝を踏んでも一回勝利すれば上出来という状況にあるからだ。

以前にも記したが、我が輩は高校生時代、亡き父から「北見北斗高ラグビー部を強くしたのは、同じ職場の“工藤さん"だ」という話しを聞き、オホーツク管内で開かれたラグビー大会で“工藤さん"を近くから見つめた記憶がある。そういう背景から以前、ネットで同校ラグビー部のことを調べたことがある。そこには、

ー北見北斗高校ラグビーは北見管内ラグビー発祥の地であり、その歴史でもある。

昭和20年8月、終戦によって北見中学校より志願して行った予科練・特幹の若者達は敗戦という予期せぬ痛手で意気喪失し、北見中学校に戻って来た。

本校ラグビー部生みの親、工藤茂男氏は、北海商業(現、小樽北照高校)時代ラグビーをし、その後、明治大学に入学、ラグビーをしていたが、昭和18年12月の第2回学徒出陣で軍隊に入り終戦で北見に帰り、この意気喪失の若者達にラグビーの参加を呼びかけた。海軍で闘球をやっていたことのある連中が集まり極光クラブ名つけた。

北見中学校のグランドを借り練習をしていると、在校生は楕円のボールを蹴るのが珍しく面白いということで、数人が加わりラグビーを始めた。陸上部や相撲部に入っていた生徒も加わり、平野先生に部長になっていただいたのが昭和22年である。(ラグビー部の誕生)ー

と書かれていた。

また最近、父親の書類を整理したところ、その中からかつての北見営林局の「管内概要 昭和38年 滝ノ上営林署」という本を見つけた。その中の組織機構図を見ると、父親の上司に「管理官・工藤茂男」(署長の下の役職〈次長〉)という名前があった。

そうしたことで、3冊目の自費出版物に、松浦武四郎の人物像や記念碑などの写真を掲載するため、10月中旬に北海道旅行を敢行した。その際、北見北斗高ラグビー部の創設経緯を確認するために、北見市立中央図書館を訪れた。我が輩が「北見北斗高ラグビー部の資料を見たいので案内して欲しい」とお願いしたところ、係員は「北斗高ラグビー部の本は、保管室にありますので、席までお持ちします」と述べて、直に3冊の本を持参した。その中の2冊「北見北斗高校ラグビー部25年誌」と「楕円球を追って五十年ー北見北斗高校ラグビー部50年史」を見ると、前書きの中に“工藤茂男"という名前があった。25年誌と50年史の前書きは、全く同じ文章で「北見北斗高のラグビー部はどのようにして生まれたのか(平野貞先生・初代部長の話し)」という題名の文章である。

北見に初めてラグビーチームができたのは戦後間もない昭和21年の冬である。当時予科練や特別幹部生から帰った若者達有志でチーム(北見極光クラブ)をつくり、中央小学校校庭の雪の中でラグビーボールを蹴って楽しんでいた。それを見ていた中学生達がそれに加わり昭和22年3月頃渡部賢二(堤)、安田実、吉藤輝昭、本正晴、白岩利三の諸君が私のところに来て、ラグビー部をつくりたいからぜひ部長になってくれとの要望であった。幸い私もラグビーの名門といわれる秋田工業高に在職したこともあり、練習ぶりやクラス対抗の試合を度々見たこともあったので承知することにした。その年の4月にいよいよラグビー部として発足したが部員は初めは好奇心にかられて入部したものの練習の厳しさに耐えられず脱退するものが出てきて本当にラグビーを愛する者だけが残った。

当時のコーチは明大選手として東京で活躍していた工藤茂男氏(現・札幌営林局経理課長〈25年誌時の役職〉、後に北見木材㈱社長〈50年史時の役職〉)であった。〜

このほか、25年誌には、毎日新聞が全国高校50回大会の記念特集として連載した「高校ラグビー半世紀」から、本校に関連する記事として「付録」の文章が掲載されていた。

ー飛び出した新星北見北斗ー

秋田工が黄金期の巨歩を踏出したころ、日本の北端からあざやかな光りを放って新星が登場した。北見北斗である。北見のラグビーは21年の5月、北見の営林局へ着任した明大OBの工藤茂男の手で誕生した。〜

というわけで、やはりあの“工藤さん"が、北見北斗高校ラグビー部を強くしたのだ。それも脇役ではなく、中心的な人物であることが確認できた。だが、ここで文章が終了したのでは面白くない。工藤氏の生年月日や、明大ラグビー部での活躍がわからない。そこで10月下旬、東京・千代田区に所在する明治大学図書館に赴いたが、明大OBや在学生でなければ図書館を利用出来ないという。但し、地元図書館の紹介状があれば利用出来るということで、地元の図書館から問い合わせをしてもらった。この経緯・中身などはカットする。

昨日、再び明大図書館を訪ねた後、国立国会図書館に赴き、記録誌「明治大学体育会ラグビー部部史」(1923〜1988、昭和63年10月31日発行)を読んだ。その中には、

昭和18年1月5日の対京大戦は戦前の明治ラグビー部最後のゲームになった。

○戦後の公式の試合としては、21年1月慶応ー京大定期戦が、吉祥寺の日産厚生園で行われた。(慶21ー8京、北島監督が笛を吹いた)

明治大学ラグビー部関係者の多くの方々が戦場に散華された。昭和12年9月の主将が北中国戦線で戦死されたのはじめ、判明しているだけでも32人を超えている。

という戦時中の記録も記されていた。さらに、ページをめくって行くと、探していた記事があった。昭和22年12月7日、東京ラグビー場で、明治大学早稲田大学との公式戦があり、明大メンバー表のNO8ポジションに「工藤」の名前があった。そのゲームの説明文には、

早明戦は、復学した工藤が加わり、橋本、松本ら顔ぶれのそろった早FWを圧し前半16ー6とリード、勝負を決したかにみえた。しかし、後半の反撃(9ー3)を受け辛うじての勝利(19ー15)だったー

と記されていた。選手名は姓だけであるが、我が輩はあの“工藤さん"と思った。なぜなら、当時の明大ラグビー部の部員数は少ないと聞いていたので、別に工藤という姓の選手がいるとは考えられないからだ。さらに、復学という記事内容にも納得した。

その理由は、大正11年生まれの選手は、昭和17年4月に入学して、19年9月に繰り上げ卒業している。だから、工藤氏は大正12年生まれで、僅かな単位不足で卒業しておらず、昭和22年頃に1年くらい復学したのではないかと考えたのだ。

そのほか、記録誌を読んでいて驚いたのは、昭和30年主将・宮井国夫(その後、名門・新日鉄八幡)、31年主将・寺西博というラグビー界の名選手の名前が掲載されていたからだ。どちらも、北見北斗高ラグビー部出身者で、特に宮井氏は俊足選手で、100㍍の最高記録は10秒6と記憶している。要は、このような名選手を輩出していたのだから、全国大会で準優勝してもおかしくないのだ。そして、おそらくは“工藤さん"の影響で、多くの選手が明大に進学したと思うのだ。

というわけで、北見北斗高ラグビー部の創設当時の状況を書きました。しかしながら、工藤氏の在学当時のことを調べる過程で、個人情報の保護という法の壁に阻まれたことにはヘキヘキした。これでは、経歴・学歴詐称の人物を、個人・団体では摘発出来ないではないか。入学も卒業も確認出来ない現状には、疑問を感じざるを得ない。