「沖縄疎開の父荒井退造」という本が自費出版された

我が輩は、戦時中に沖縄で亡くなった元沖縄県警察部長・荒井退造のフアンである。そのような理由から、ネットで宇都宮市在住の塚田保美氏が「沖縄疎開の父 荒井退造」(216ページ)という本を自費出版したということを知ると、すぐに地元の友人にお願いして本を入手(千円)した。本を手に取ると、冒頭における写真や資料などを多く掲載し、よくも地元の書き手が取りまとめたものだと感心した。

そこで、沖縄県での疎開の実態を中心に、著書の中から引用・紹介したい。

参謀本部は、昭和19年7月1日に、長勇少将を沖縄に派遣し、その後、陸軍省は7日の緊急閣議に、住民疎開は不可欠と発議した。その際の閣議決定で、十万人の疎開という数字が検討されたという。

○政府は、一応沖縄県民の疎開を内地へ6万人、台湾へ2万人と予定した。このうち無縁故者を8割とみて、宮崎県に1万五千人、熊本県2万人、大分県1万人、山口・島根の両県に1万五千人、四国1万五千人と割り振った。6万人の予定に対し、7万五千人を割り振ったのは、予定人員が多かった場合のことを考慮したものと思われる。

沖縄県では疎開業務は内政部よりも、組織力、行動力のある警察部の所管にした方がよいということになり、警察部で担当することとなった。第1次の疎開船は7月末、752人を乗せて那覇港を出発。第2次は8月初めに220人、第3次は8月9日に1566人が出発。第4次は翌10日に約九千人が出発し、受け入れ先は9月中旬まで宮崎県で、その後は大分県。そして9月末までに約三万五千人が疎開した。

○ただ、疎開活動では、痛ましい事件が起きた。学童疎開第2次として825人、一般疎開者836人を乗せた「對馬丸」(6754トン、貨物船)が、僚艦5隻と共に船団を組み、駆逐艦「宇治」と「漣」が護衛して出発した。その途中、機関が故障を起こして速度が落ちた8月22日午後10時10分頃、米船「ボーフィン号」の魚雷2発が命中し、船は僅か11分で沈没した。乗船者1661人のうち、生存者は一般疎開者が118人、学童59人のみであった。

疎開は翌年3月5日が最終船となり、その結果、疎開数は県外に七万三千人で、本土は五万三千人、台湾は二万人という内訳になった。本土の都府県別内訳では、東京100、京都50、大阪400、神奈川100、埼玉50、千葉30、茨城20、滋賀50、愛知50、奈良50、兵庫50、和歌山50、福岡2600、大分9800、佐賀480、熊本15800、宮崎14800、鹿児島7420、長崎1000、合計53000人(昭和20年11月24日調)という。

続いて、地元警察官の奮闘ぶりと言うべきか、悲惨さを紹介する。

○退造は、沖縄の惨状を何としても内務省に報告しなければならないと思った。そこで、8人の優秀な警察官を選び、5月12日午前4時に一人ずつ壕を出発させた。しかしながら、隊長は米軍に囲まれ自決、2人は米軍に捕らわれ、2人は銃撃戦で殉職、2人は沖縄戦終結を知り投降、1人は10月に千葉県に辿り着き、その後に内務省に出頭した。

○第32軍の首里放棄決定(5月22日)後の5月25日、退造は内務省に次のような悲痛な電報を打った。

〈60万県民ただ暗黒なる壕内に生く。この決戦に敗れて皇国の安泰以て望むべくもなしと信じ、この部民と相ともに敢闘す〉

この短い電文が、太田海軍少将の不朽の電文(6月6日)といわれる「沖縄県民斯く戦えり」を生むことになる。

○6月7日、島田知事と退造は相談し、警察部を含む県庁を解散した。最後まで退造に仕えた4人の警察官は、6月14日に壕を出たが、1人は殉職、2人は行方不明、1人は米軍に捕らわれた。

○沖縄の警察官は五百人で、うち殉職者は106人であった。ところが、県庁解散の6月7日までの殉職者は46人で、解散後に50人以上が殉職している。つまり、警察官の身分を失っても、警察官の使命である住民の誘導などの職務を命をかけて全うしていたのである。

我が輩が、なぜ故に退造のフアンになったのかというと、戦後の沖縄県民の動きも関係している。昭和26年6月25日、沖縄県知事・島田叡以下戦没県職員を合祀する「島守の塔」の除幕式(参列者=約3300人)が行われたが、その「島守の塔」の後方数十段を上ると「沖縄県知事島田叡・沖縄県警察部長荒井退造 終焉の地」と刻まれた慰霊の碑が建立された。戦後間もないこの時期に、沖縄県民が建立したことに、何とも言えない哀愁を感じるのだ。そして、退造の功績を沖縄県民が忘れていなかったことに感激するのだ。

その一方で、戦後の日本人の中に、どれだけ命をかけて国家・国民を守ろうという人物がいたのか。特に、国家のエリートの中に、どれだけ存在していたのかと考えてしまう。

最近、テレビを観ていたら、作家・江上剛(元第一勧業銀行広報部次長)が「今までいろんな会社を見てきたが、不祥事などで会社が傾くと、一番先に逃げ出すのは、たいてい優秀な人たちだ。その一方で、エリートでない人ほど、最後まで会社を立て直すために頑張っていた」旨の発言をしていた。つまり、民間会社と国家機関の幹部を一緒にしてはならないが、国家のエリートにも同じことが言えるのでないかと疑っているのだ。

我が輩は、3年前の6月6日付けで「伊勢志摩サミットと警察庁人事」という文章を作成した。その中に、我が輩の「今度の沖縄県警本部長は、どのような人物ですか」との問いに、元警察官僚が「腹を切れる男だ」と答えた場面がある。つまり、今でも国家のエリートは、そのような人物でなければ出世させてはならないのだ。何も、高級官僚に対してではなく、国会議員も一緒である。

というわけで、このような人物が、国家の主要なポジションに就任するべきだし、そうであるべきと考える。つまり、現在のエリートの中にも、島田知事の前任者のように「逃げ出してしまった」と後世まで言い続けられるような資質を持った人物が、間違いなく存在するハズだ。そこを見通せる人物が、人事部門のトップに就任しなければダメだ。間違いなく、国家の利益を軽んじて、自分の利益を上に置いている人物がいるハズだ、等々と考えるからこそ、なおさら退造に惚れるのかもしれない。