ラグビー合宿の聖地・網走市

今回は、ラグビー合宿の聖地・網走市を取り上げる。網走市は1987年、地域経済の活性化策としてラグビー合宿を本格化、89年に当時は珍しかった天然芝グランド(7面)を造成したことを機に、日本代表を含む国内一線級のチームらが毎年、合宿するようになった。

5月末、ネットで北見・網走オホーツクのフリーペーパー「伝書鳩」(5月24日付け)を見たところ、網走市ラグビー合宿をテーマにした“漫画本"が完成したという。さっそく、網走市教育委員会に電話を入れたところ、40代と思われる男性が「こちらには、販売する部数がない。スポーツ庁が出版したので、そちらに連絡して欲しい」とのこと。スポーツ庁に電話を入れたところ、何やら“ネットで購入する"というので、知人に頼んで漫画本を入手した。

漫画本のタイトルは「ラグビー合宿の聖地へ〜北のスポーツ基地網走〜」(500円、60ページ)で、作画は公募で選ばれた札幌放送芸術専門学校・なつき凛という。漫画本の中身を紹介すると、

○最初の合宿は、1988年6月のソウル五輪日本代表の直前合宿。ボート、バドミントン、女子体操、陸上(長距離)の4競技の合宿。

○88年7月、法政大学ラグビー部が網走で初めて合宿。法政大学に勤務する網走出身の先生を頼り、交渉を行った結果。

○97年夏、東芝府中ラグビー部監督・向井昭吾が「ここの芝は素晴らしい」と絶賛したことで、その後、社会人チームが増加。

○15年度のスポーツ合宿実績は、実人員は1735人、延べ1万5677泊。経済効果は5億7800万円。

実は5年前の5月、友人二人を誘って北海道旅行を敢行した際、網走市の素晴らしいグランドを、国道上から多少把握した。漫画本の中でも「日本一の芝」と自慢しているが、まさしく青い芝が広々と広がっていた。また、グランドの近辺には、網走湖網走川があるので、ロケーションがいい。更に、食事が美味しい。我々一行は、昼食として、網走市呼人に所在する「松尾ジンギスカン店」に入った。店は古びていたが、ジンギスカンの味は絶品であった。また、追加の野菜として、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)を注文したが、それが旨いことと言ったらなかった。冷凍されたアイヌネギであったが、店の女性は「ラグビー選手が合宿の時には、選手たちが食事の間に、アイヌネギを食べに来る。選手が言うには『疲労回復やスタミナがつく』と言っていた」と教えてくれた。

という訳で、素晴らしい合宿地であることは間違いないが、残念なこともある。それは、筆者の高校時代から、網走市の高校(当時は3校か)にラグビー部がないのだ。特に、網走南が丘高校は、1922年(大正11年)に旧制網走中学校として開校したので、当然のごとく“エリートスポーツ"であるラグビー部が設立されてもいいと考えるが、どうしたことか昔からラグビー部がない。そのため、合宿中の選手たちが、網走市の子供たちにラグビーの楽しさを教えても、高校の部活動でラグビーをしたい生徒は、美幌町北見市の高校に進学せざる得ない。これでは、末長く網走市ラグビーが定着するのか、心配になる。

前述の網走市教育委員会の男性と対話した際、筆者が「私の高校時代には、網走市の高校にラグビー部が存在しなかった。それ以後もラグビー部が設立されなかったのか」と尋ねたところ、同人は「そうです。指導する先生が来てくれないのです」と答えた。そこで筆者は「それは違うと思う。10年前には、常呂高校という小さな高校に、熱心な先生が赴任した。網走市が、熱心にラグビーを指導する先生を招請しないからだ」と述べたが、相手方からはこれ以上の説明はなかった。

このほか、決定的な理由として、網走市出身者の中から、ラグビーを指導する教諭が現れなかったという背景もあるかもしれない。例えば、北見北斗高校の場合、全国大会準優勝4回だけあって人材は多士済々。遠軽高校の場合には、旧制遠軽中学卒、日体大卒のOB・有働先生(昭3年生、保健体育)が、母校に赴任してラグビーを普及させたという経緯がある。その意味で、網走市出身者の中に、ラグビー好きの先生が現れなかったことは寂しいことである。

もしも今後、網走南が丘高校にラグビー部を設立するとしても、余りにも遅過ぎる。何故なら、網走南が丘高校は、20年度から1学年5クラスから1クラス減らすという。これでは、大人数でプレーするラグビー部設立は無理かもしれない。それを考えると、ラグビー環境は素晴らしいが、ラグビーに親しんだ人材を欠いたラグビー合宿地と言えるかもしれない。