日本の歴史にアイヌの歴史は欠かせない

最近、新たな視点からアイヌ(人間)民族の歴史を捉えた歴史書が出版された。その書物は「アイヌ学入門」(著者=旭川市博物館長・瀬川拓郎、講談社現代新書版) である。

先ずは、書物の中でも触れているが、確認しておきたいとがある。それは、最近のDNA解析の結果、北海道のアイヌと沖縄の人たちが、遺伝的な特徴が似ているが証明されたことである。つまり、弥生時代朝鮮半島から渡来した人びとが縄文人と交雑して和人(本土人)になり、周縁の北海道と沖縄には縄文人の特徴を色濃くもつ、琉球人とアイヌが残ったということである。

最初に、この南北に離れた二つの集団が近い系統だという説を唱えたのは、ドイツの病理学者・ベルツである。1911年、顔の特徴など身体的な共通点があると発表した。更に1990年、東大名誉教授・埴原和郎氏が「日本列島には、1万数千前には掘りの深い顔立ちの縄文人が住みつき、約3000年前以降に大陸から弥生人が渡来した。本州や九州などでは混血が進む一方、日本列島の南北の隅には縄文系の子孫が残り、混血は一部にとどまった」という仮説“二重構造説"を提唱した。

この説を裏付ける話しとして、書物の中で「アイヌの人びとが沖縄を訪れると、琉球人の中に親戚かと感じる人たちを多くみかけるというのはよく耳にする話です」(41P)と紹介している。逆に、沖縄の人も、アイヌの人に親近感を持っているようだ。筆者は、今年6月に沖縄県を訪ねたが、その際に乗車したタクシー運転手が「北海道を旅行してアイヌの老人に会った時には、自分のおじいちゃんに会った感じだった」と発言したのだ。

縄文時代の日本列島の社会は、周辺世界との交流は希薄であった。北海道も、縄文人が宗谷海峡を越えて樺太へ、南千島のクナシリ島・エトロフ島を越えて北千島へ進出することは、1万年以上のあいだ基本的にはなかった。しかし、本州の社会が弥生文化へ移行し、朝鮮半島や中国との交流を活発化すると、北海道の縄文人の末裔たちも、外の世界へ進出して行った。

北海道では、縄文文化以降、本州とは異なる独自の文化が展開した。続縄文時代(弥生・古墳時代)、擦文時代(飛鳥・奈良・平安時代)、アイヌ文化期(鎌倉・室町・江戸時代)である。もう少し、詳細に紹介すると、

○4世紀=樺太のオホーツク人が北海道へ南下したことで、アイヌは北海道南部と本州へ南下。

○4〜9世紀=北海道は、北の大陸に顔を向けたオホーツク人と、南の本州に顔を向けたアイヌで二分。

○6世紀=東北北部から北海道へ撤退。

○7世紀後半=本土王権の北方遠征後、アイヌと交易していた東北北部太平洋沿岸の人々が北海道の石狩低地帯へ移住。

○9世紀末=オホーツク人を排除して、稚内からオホーツク海沿岸に到達。オホーツク人の一部はアイヌと同化。

○11世紀前後=道北の日本海沿岸から樺太南部西岸に進出。

○11世紀末=釧路市など道東太平洋沿岸と南千島へ進出。

○1264年、1284〜86年=樺太アイヌ、オホーツク人の末裔とされる先住民ニヴフらとトラブル。中国の元、先住民の訴えを受けて、樺太アイヌと戦う。

○1308年=毛皮の貢納を条件にアイヌが元に服属。

○15世紀=ウルップ島以北の北千島、カムチャツカ南端へ進出。

この書物を読んで一番驚いたことは、アイヌが11世紀頃に集団で樺太に進出し、元の攻撃を受けたことである。この書物を読むまでは、元の樺太南下をアイヌが防いだと理解していた。実は、逆であった。また、戦闘規模も元が数千人規模の兵力、アイヌは数百人規模の兵力であったので、それなりの戦いであった。二番目は、オホーツク人の正体が、先住民ニヴフと書かれていたことだ。そして、北海道へ進出したオホーツク人は、アイヌに同化して消えたとのことだ。

以上、簡単にアイヌの歴史を紹介した。それらの事実を知ると、日本の歴史にアイヌの歴史を切り離すことは出来ないと思った。