大黒屋光太夫と松浦武四郎は三重県の人でした

9月末の連休中、三重県鈴鹿市に所在する「大黒屋光太夫記念館」(平成17年11月開館)を訪れた。記念館は、鉄筋平屋の建物で、入場料は無し。展示室は、それ程広くなく、貴重な資料も少なく、ビデオコーナーもなかった。何だか、寂しい記念館であった。

記念館を出る際、筆者が「ビデオコーナーを設置しないのですか」と問うと、職員は「建設当初から、ビデオでの案内を考えていなかったので、ビデオを設置する部屋がないのです」との回答。更に筆者が「何か、パンフレットや書籍を販売していないのですか」と問うと、職員は「用意していない」との回答であった。

ところが、記念館を出ようとしたところ、職員が「このパンフレットは、昨年の催しの際に発行したものです。多少、余っているので、差し上げます」と述べて筆者に手交した。このパンフレット、「第10回特別展 漂流・漂着ものがたりー海へ往く者 海から来る者ー」(42P)という題名で、なかなか立派なパンフレットであったので、筆者は「こんな立派なパンフレットが発行されているのならば、この記念館で販売すべきです」と述べたが、職員からは明確な返事はなかった。

帰宅後、このパンフレットを読んだが、

「ロシア(アリューシャン列島を含む)へ漂着できた船は、大阪の伝兵衛(1695年)、薩摩の若潮丸(1728年)、南部下北の多賀丸(1744年)、伊勢の神昌丸(1783年)、石巻の若宮丸(1793年)、南部下北の慶祥丸(1804年)、摂津の歓喜丸(1810年)など数例を数えるのみであり、そのうち、日本に帰還できた船は4例のみでした」

と説明されていた。

特に、大黒屋光太夫の場合、オスマン帝国との露土戦争に勝利して、現在帰属問題で紛争地になっているウクライナ南部クリミア半島を編入したロシア皇帝・エカテリーナⅡ世に謁見(1791年)したことは、驚き以上のなにものでもない。更に、帰国後には江戸城徳川家斉の上覧を受けており、今更ながら凄い経験をした人物だと思う。

話題は、次に移ります。筆者の乗用車が南下して松坂市内に入ったところ、道路脇に「松浦武四郎記念館」という案内板を発見した。北海道出身の筆者としては、当然のごとく松浦武四郎が“北海道の名づけ親"であることは知っていたが、三重県との関係は全く知らなかった。そのため、手探りの心境で、記念館に向かった。

大きな建物の駐車場に入ったところ、そこには鉄筋平屋建ての「松浦武四郎記念館」(平成6年開館)があった。記念館に入ると、大黒屋光太夫記念館の4〜5倍の広さがある展示室があり、2か所で松浦武四郎の功績を紹介するビデオが流れていた。

記念館では、パンフレット「松浦武四郎記念館図録」を購入(200円)した。そこには、

松浦武四郎は、1818年2月6日、四人目の子供として生まれたので「竹四郎」(のちに武四郎)と名づけられた。そして、1888年2月10日に亡くなった。

蝦夷地調査は6回行った。1845年の1回目(函館〜森〜室蘭〜襟裳〜釧路〜知床〜根室〜函館)、1846年の2回目(江差宗谷樺太宗谷〜紋別〜知床〜宗谷〜石狩〜千歳〜江差)、1849年の3回目(船で函館〜国後島択捉島)、1856年の4回目(函館〜宗谷樺太宗谷〜函館)、1857年の5回目(函館〜石狩〜上川〜天塩〜函館)、1858年の6回目(北海道の海岸、十勝〜阿寒〜日高)である。

○1869年(明治2年)6月、開拓判官に就任。蝦夷地の改称では、「北加伊道」案を出すが、最終的には「北海道」と決定。「カイ」(加伊)とは、「北にあるアイヌ民族が暮らす大地」との意味。

○翌1870年、「アイヌ民族の協力を得て開拓し、悪徳商人を排除するべき」旨主張するが、明治政府に聞き入れられず辞職。

○北方探検家、200冊を越える著作がある作家、それを自ら出版した出版者、という多芸多才ぶりを発揮した「北海道の名付け親」と呼ばれている。

ーなどと書かれていた。

記念館では、60歳前後の専門員に対して、筆者は「私は、北海道の遠軽町出身者です。遠軽町丸瀬布には、松浦武四郎の研究家がいますが、知っていますか」と問うと、専門員は「確か、『秋葉実』という名前の人で、今春に亡くなりました。私も会ったことがあり、この記念館にも“亡くなった"という連絡がきました。この資料、秋葉さんも関わって完成させたものです。秋葉さんは50年間、民間の立場で松浦武四郎を研究した稀有な人です」と説明してくれた。

筆者が記念館を出る際には、専門員はわざわざ外まで出てきて「まさか遠軽町出身者と、ここでお会い出来るとは思いませんでした」と嬉しそうに話していた。

というわけで、三重県からは、江戸時代から明治時代に掛けて、日本の北方情報に関わる偉人が、二人も輩出していることを知った。それを考えると、鈴鹿市と松坂市は、是非とも地域お越しに、大黒屋光太夫と松浦武四郎を利用して欲しい、と思った次第である。