「たじろがず沖縄に殉じた荒井退造」という本が出版された

栃木県の有志が編集した「たじろがず沖縄に殉じた荒井退造」(定額1300円、下野新聞社)という本が、ついに元沖縄県警察部長・荒井退造の誕生日である9月22日に出版された。本の内容は、

○元沖縄県知事・大田昌秀氏の「沖縄の恩人 荒井退造警察部長について」という序文

○栃木県知事と宇都宮市長の挨拶文。

○2月22日の講演会記録として、室井光氏の「清原の志士、沖縄に殉ず」の講演内容

○上記講演に対する15人の寄稿文

○「沖縄の島守」の著者・田村洋三氏の特別書簡文

○元沖縄県副知事・嘉数昇明氏など4人の特別寄稿文

○既刊本と新聞記事の再録

ーなどで、211ページの本になっている。

これから、荒井部長の沖縄県での奮闘振りを紹介するが、全て元沖縄県庁職員が書き残した既刊本再録から転載した。

○警察部長荒井退造によって、老幼婦女子の県外疎開が計画されたのは、昭和19年6月頃である。…荒井部長は独断専行の非難を浴びる苦境に立たされたが、各警察署長を招集して疎開促進の会議を開き、まず、警察官、県庁職員の家族を率先疎開させた後、一般老幼婦女子の疎開を、強力に推進するように命じた。

○10月10日の空襲には、Ⅰ内政部長は東京出張中、M経済部長は病気、Ⅰ知事は沖縄にいたが、空襲警報が発令されても防空本部に姿を見せず、荒井部長が知事官舎の防空壕へ出向いて指導を受ける始末であった。

○10・10空襲後、知事、内政部長ともに上京。病臥中のM経済部長も転地療養のために引き揚げ、島田知事の着任まで、沖縄県庁の実質的責任が、荒井部長に負わされていた。

○殆ど毎日の仕事は軍の労務動員の処理だったが、そのつど部長に伺いに行ったら、荒井部長は、「大尉までは君のところでやれよ、少佐以上の要求は私のところに回せ」と言って、大物の要求は部長がじきじきに対応していた。

○昭和19年10月10日の大空襲がきた。時の知事はⅠ知事であったが、北海道土木部長から沖縄にきた知事は、気むずかしく、大変な臆病者であった。…知事は、普天間に逃げてしまい、内政部長は上京、経済部長も上京という状況で、焼け残った県庁には、荒井部長以下警察部の職員と土木課だけが頑張っていた。

○島田さんは、覚悟の上の赴任だが、荒井さんは、本来なら他県に栄転するのに内政、経済両部長とも欠員で部長一人のため、転任間際に人がそのまま最後まで沖縄に残り、そして死んだ。復帰前、佐藤総理が沖縄に来て、島守の塔に参った時、私は説明役であった。そのことを話したら、総理は気の毒にと絶句し、ボロボロ涙を流していたのを覚えている。

○内政部長が東京に出張し、経済部長が病気療養のため疎開したので、荒井警察部長は島田知事の唯一の相談相手であり、補佐役であった。軍司令部との連絡、各警察警備隊の指揮など、その奮闘はめざましいものがあった。

○荒井さんは、元々警視庁勤務など警察畑の人であったので、福井県官房長になった時、警察部長を希望したら、それならということで、間もなく沖縄県警察部長に発令されてしまった、と笑いながら話されたことがあった。

○島田知事、荒井警察部長一行が軍医部の壕に来られたのは6月15日頃であった。…6月25日、6頃だったと思うが、島田知事と荒井部長のご両人は、北の国頭と連絡をとると言われて壕を出られた。…壕から出て、自決の決意だったと思います。…鍾乳洞の壕の軍医部部員は36名であったが、生存帰還したのは4名であった。

ところで、9月26日には、本の出版を記念して、宇都宮市清原地区で、ノンフィクション作家・田村洋三氏の講演会が開催された。講演会には、沖縄県から嘉数氏ら3人が来賓として出席、総計約200人が参加して行われた。田村氏は、予定を大幅に超える2時間、立ちっぱなしで荒井退造の生き様を熱く話した。講演内容を紹介する。

○2003年に題名「沖縄の島守ー内務官僚かく戦えり」という本を出版したが、当初の題名は「二人の島守」であった。どうしたものか、「沖縄の島守」になってしまった。

○荒井さんは、明治大学の夜間部に入学する際、実兄・甲一氏(のちの清原村村長)に対して、「天下国家の仕事をしたい」と述べていた。

○先年亡くなった荒井さんの長男・紀雄さんは、東大法学部を卒業して自治省に入った人ですが、私の出版より数年前に「戦さ世の県庁」という立派な本を出した。しかし、紀雄さんは、余り家族のことを書かなかった。私は、自分の本を出版する前、紀雄さんと面談して色々と尋ねたが、紀雄さんは「24万人が沖縄で亡くなっている以上、父を検証するべきではない」という姿勢で、余り詳しく語ってくれなかった。

○荒井さんは、福井県官房長時代、「警察に戻りたい」と言っていたところ、沖縄県の警察部長として行くことになった。やはり、事務職のような仕事より、現場の仕事が好きだったようだ。

○島田知事の前任者は、泉守紀という名前です。私は知事の名前をⅠというイニシャルで書いたが、他の本が“泉知事"と書いており、名前を隠す意味がなくなった。泉知事の兄は大阪造幣局長、両親は山梨県の教育者で、名門の出である。沖縄県知事在職1年半のうち、175日は東京出張であった。昭和19年12月23日、泉知事は「疎開の相談で東京に行く」との理由で沖縄を離れたが、二度と沖縄に戻ることはなかった。

○昭和19年10月10日の大空襲は、午前6時20分から午後5時20分までの間、延べ1300機の飛行機が5派にわたって沖縄を攻撃した。1波から3波までは、軍事施設に対する攻撃で、4波と5波は民間施設に対する攻撃であった。そのために、民間住宅が燃えてしまい、地元住民が住むところが無くなった。

○当時、沖縄県のコメ需要は年間5万7000トンで、県内では3分1しか生産できなかった。大空襲で、県民1か月分のコメが焼失してしまったので、荒井さんは、防空壕造りと、食料確保に忙殺されてしまった。この仕事は、本来は知事と内政部長の仕事である。

○米軍は、昭和20年4月1日に沖縄本土に上陸したが、兵力は45万人、対する日本軍は12万人強。関西弁で言うたら「アホな戦いをしてしまった」ということです。

○現在、島守の塔の上段には、「島田叡・荒井退造終焉之地」碑がある。これは、沖縄県の人が「多く人の命を救ってくれたから、二人の名前を刻んだ」ということです。疎開は、昭和19年7月から始まったが、5万3000人が内地に、2万人が台湾に、15万人が県北部に移動させて、多くの人を助けたのです。

○荒井さんの生き様の原点は、宇都宮中学の校風である「瀧の原主義」(朴訥、荒ぶる)にある。島田さんの母校・神戸二中の“質素剛健"と相通じるものがある。

○あの戦争は、軍部、政治家、官僚、一部マスコミが煽って行った。今は、軍部は無く、政治家とマスコミは変わったが、依然として官僚は変わっていない。

○私は、今年84歳になるが、今後「沖縄の島守」の続編を書く予定にしている。これから、沖縄・兵庫・栃木の3県から“真の公僕精神"を発信して欲しい。

なお、講演に先だち、来賓の嘉数氏が「荒井退造さんの母校・清原南小学校のバレーボールチームが、8月に沖縄県を訪れた際、荒井退造の“終焉之地"の碑を訪ねた。その際、校歌を歌ったが、この時には荒井さんも喜んでいると思い、考え深いものがあった」との話しがあった。筆者は、その時の場景を想像して、急に涙腺が緩んでしまった。良いお話しであった。

このほか、主催者側から「栃木県のある高校が、16ページの荒井退造マンガ本を完成させたり、10月の修学旅行では、荒井退造の碑を訪ねる高校が出てきた」との報告があり、非常に嬉しくなった。

いずれにしても、今後の交流が大事になってきた。末永い交流事業が、沖縄県と栃木県との距離を短くする。今後の交流を、大いに期待して見守りたい。