遠軽高校吹奏楽部の「全国コンクール」初出場時の思い出話し

昨日、遠軽高校吹奏楽部が出場した「第59回北海道吹奏楽コンクール」(札幌市)が開催された。しかしながら、今年も金賞を受賞したが、全国大会の代表には選ばれなかった。2006年以来、9回目の全国大会出場を期待していたが、残念な結果になった。

そこで今回は、遠軽高校吹奏楽部が、初めて「全日本吹奏楽コンクール」に出場した1970年(昭45年)11月当時のことを書きたい。ネットで調べると、代表校は10校で、更にこの年から現在のような金賞・銀賞・銅賞のグループ表彰になったようだ。出場校は、次の通りである。

①四国代表=香川県高松商業高校(銀賞)

②関西代表=奈良・天理高校(金賞)

③東北代表=秋田県立花輪高校(金賞)

④関東代表=神奈川・逗子開成高校(銀賞)

⑤北陸代表=富山県立富山商業高校(金賞)

⑥中国代表=島根県立川本高校(銀賞)

⑦西部代表=福岡県立嘉穂高校(金賞)

⑧東海代表=静岡県立浜松工業高校(銀賞)

⑨北海道代表=道立遠軽高校(銀賞)

⑩東京代表=都立板橋高校(金賞)

出場校を見て驚くことは、出場校の少なさと、現在の有名校が見当たらないことである。ほとんどが公立高校である。現在は、出場校が29(1974年から北海道代表は2)で、出場校の半分は私立高校である。いずれにしても、当時は出場校が少ないので、当時の代表校は現在よりも厳しい支部大会を突破して、全国大会に出場したと思う。

さて、ここからが我が輩の思い出話しである。当時、我が輩は大学1年生(19歳)、朝日新聞を購読していたので、母校が全国大会に出場することを知った。吹奏楽コンクールは、朝日新聞社が主催しているからだ。

この年の開催地は、東京・渋谷公会堂(客席=2084席)で、朝早く会場に到着し、当日券を購入した。現在のような入手困難なプラチナチケットと化している状況ではないが、それにしてもよく当日券を購入出来たものだ。席は、全自由席であったので、ステージから向かって右側5列目くらいの席を確保した。最高の席であるが、ある面、当時の吹奏楽コンクールの人気のほどがわかると思う。

遠軽高校は、9番目に登場した。舞台の幕が開いたのか、暗闇の中で部員が配置に着いたのかは忘れたが、舞台に明かりがついた時には、茶色の制服を着た女子生徒と黒色の学生服を着た男子生徒が、演奏の配置についていた。そして、舞台の右側から指揮棒を持った男子生徒(3年生)が入場した。この大会で生徒が指揮を執るのは、遠軽高校だけであったが、もしかしたら歴代の大会でも生徒が指揮を執る例はないのでないか?

演奏が始まった。課題曲は「音楽祭のプレリュード」(A.リード)、自由曲は「交響曲第5番より第4楽章」(ショスタコーヴィチ)である。音楽の素養がない我が輩であるので、詳細な解説は出来ないが、それなりに立派な演奏であった。

実は我が輩、このコンクールで強烈なショックを受けた。それは服装である。制服で演奏した高校は、遠軽と花輪くらいであったと思うが、特に遠軽は表情も硬く、全体的に暗い感じであった。緊張していたのであろう。その面、私立の天理高校は、服装も鮮やかなユニフォームで統一され、演奏も艶やかで圧倒されてしまった。それ以来、母校に“ユニフォームを揃えて挙げたい"という気持ちを抱き続けてきた。

その後、諸々の友人たちに説明したが、友人たちは「公立高校なのだから仕方がない」という意見が多かった。しかし、演奏活動では、演奏だけではなく、ファッションや雰囲気も大事だと思うので、当時の想いが変わることはなかった。

さてさて、音楽の素養がない我が輩であるが、何故に母校の吹奏楽に関心を持ち、全国コンクールに赴いたのか。それは高校2年生の時、全道コンクールで準優勝した同級生が「今回の順位は、絶対におかしい。観客も遠軽高校が一番だと言っていた。田舎の高校だから優勝出来なかったのだ」と怒っていたことがある。この年(1968年)の優勝校は函館西高校で、翌年は室蘭大谷高校である。いずれも、道内の大都市に所在する高校である。だから、母校が全道優勝して、全国コンクール出場が決定した時には、どうしても母校の演奏が聴きたくなったのだ。

全道大会で優勝を逃した1学年上の先輩、いつまでたっても優勝を逃したことが悔しいらしく、最近のネット上でも、その時の想いを書き込んでいる。現在でも、当時の採点結果を受け入れないようだ。

ところで、前文で指揮者のことに触れたが、実は我が輩の在学中から男子生徒が指揮を執っていたので、吹奏楽部には指導する先生はいないと思っていた。ところが、ネットで調べると、顧問の先生の名前が出てきた。しかし、顧問の先生が吹奏楽部を指導している姿を見た記憶がないので、高校の吹奏楽部は、この程度のものであると思っていた。しかし、上京後、全国コンクールに出場する高校には、指導熱心な先生が多く存在することを知った。そのことを考えると、当時の吹奏楽部員たちは、先輩が後輩を指導して演奏の向上を目指していたので、本当に素晴らしい生徒たちであったと、改めて感じている次第である。