映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」の主人公について

3月1日から東京・渋谷で、映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」が上映されている。映画鑑賞の前に原作本「北朝鮮14号管理所からの脱出」(著者=ブレイン・ハーデン、白水社、1900円)を購入・読了したので、悲惨な内容を紹介したい。

○主人公・申東赫(シン・ドンヒョク)は、1982年11月19日、北朝鮮平壌の北東部にある政治犯強制収容所「14号管理所」で生まれた。北朝鮮には、計6カ所の政治犯強制収容所があり、推定15万人が収容されている。申が生まれた収容所は、最厳重警備の「完全統制区域」にある。

○父親は11人兄弟、朝鮮戦争時に兄2人が韓国に逃げたという事で、1965年に家族全員が逮捕される。収容所での仕事が評価された父親と母親(1950・10・1生)は“表彰結婚"。1974年に長男、8年後本人が生まれる。

○1996年4月5日、寮から帰宅したところ、長男も帰宅。夕食後、寝ていると母親は米を炊き、長男は「逃げよう」との声。脱走を考えていると考え、直ぐに家を飛び出し、学校の夜勤の保衛員に連絡。母親と長男は逮捕され、本人も保衛員が脱走計画を一人の手柄にしたために逮捕・拷問。

○96年11月下旬、取り調べ室で拷問を受けた父親と面会。その後、母親と長男の公開処刑に立ち会う。

○99年5月、高等中学を終了し、家畜農場に配属。6割の生徒は炭鉱に配属されるが、炭鉱労働者の大半は40代そこそこで死亡。

○2003年3月、縫製工場へ配置転換。翌04年の夏、ミシンを背中から落とし修理不可能、総班長が包丁で申の中指を第一関節から切断。

○04年10月、東ドイツとソ連に留学、テコンドー殿堂の元役職者である大物囚人パク・ヨンチョルが縫製工場に配属。申はパクに「二人で逃げよう」と提案、正月2日に収容所の東端で1日中、薪収集作業をする事が判明し脱出を決意。

○05年1月2日、縫製工場の班長と25人の囚人で山に向かう。先に鉄条網を超えようとしたパクが感電死。その背中を踏み越えて脱出に成功。

○05年1月末、吉州、清津を経由して茂山に到着。中朝国境の警備員に煙草やお菓子を手交して豆満江を渡る。

○06年2月20日頃、中国の和竜市(牧草地で牛の面倒をして10カ月間滞在)、長春、北京、成都、北京、天津、杭州を放浪して上海に到着。仕事を求めて朝鮮料理屋に入り、食事中の韓国紙特派員と知り合う。そのまま二人で韓国領事館に入館(6カ月間滞在)。

○06年8月、韓国入国。その後、情報院での尋問、定住支援施設・ハナ院で生活。翌07年に手記「収容所に生まれた僕は愛を知らない」を3000部印刷するも500部しか売れず。

○08年12月、当時「ワシントン・ポスト」特派員=ブレイン・ハーデンと面談、数日後に同紙第一面で報道。12年3月末には、米英で「北朝鮮14号管理所からの脱出」が同時発売、同年10月にも日本でも発売。

凄まじい半生である。そして映画は、本人へのインタビューをもとにドイツ人監督が描きだしたドキュメンタリー。

ところで、国連北朝鮮人権調査委員会は2月17日、北朝鮮での広範囲な人権侵害を厳しく非難する最終報告書を公表した。それによると、「政治犯収容所では、この50年で数十万人が死亡したと推定される。現在も8万〜12万人の政治犯が拘束されているとみられる」と記載。

最近ネットを見ていたら、北朝鮮を旅行したロシア人女性が「私達は、とんでもない国を作ってしまった」と書いていた。そうです、北朝鮮旧ソ連(スターリン)が作った国家です。マルクス・レーニン主義の旗、若い金日成の押し付け、そしてアジア農耕民族による従順さが、あの様な異常な国家を作り出したのだ。長い文章になってしまった。