中国共産党をもう助けるな

謹賀新年。今年も新型コロナウイルスに負けずに生き延びよう!

元日付の「産経新聞」を読んでいると、オンライン鼎談で国際政治学者・細谷雄一は「21世紀の形」が「2021年からの10年間で決まる」とする一方、「『中国の世紀』になるとは思っていない」と述べ、日米と欧州、インドを中心に民主主義国家が連携を深めれば、「民主主義は世界の中心的な流れであり続ける」と予測していた。そうであれば、今年から尚更、世界情勢から目が離せなくなった。

また、元日付の分厚い朝日、読売、産経各新聞や雑誌類を読んだが、その中で一番印象に残った記事が「産経新聞」一面に掲載された「中国共産党をもう助けるな」(論説委員長・乾正人)であったので、この記事を紹介することにした。

新年早々、くだらぬ話で恐縮だが、私はかなり濃厚な「親中派」だった。

40年前、大学受験で選択した外国語は中国語だった。NHKラジオの中国語講座を熱心に聞き、元共産党員が先生をしていた市民講座に通った成果を誇示したいという若気の至りからである(英語が苦手だったからでもあるが)。

当時、そんなばかげたことをした高校生はほとんどいなかったが、市民講座で配られた質素なテキストに載っていた「赤脚医生(最低限の医療知識で農村を巡回した医者。文化大革命時に毛沢東が奨励した)」の話は、今でも覚えている。

〈私は「親中派」だった〉

いずれ中国は米国と肩を並べる大国になり、中国語をマスターすれば何かと得だ、という打算もあったが、幼稚な高校生の夢想をはるかに上回るスピードで中国は発展した。自由と民主主義とは無縁のディストピア(理想郷と対極の世界)になろうとは、想像だにしなかったが。

夢想から目覚めさせてくれたのは、平成元年6月4日に起きた天安門事件である。中国共産党は、軍を出動させ、自由を求める市民や学生に容赦なく銃弾を打ち込み、鎮圧した。犠牲者はいまだ正確にはわかっていない。私は当時、就任間もない宇野宗佑首相の番記者として、一挙手一投足を追っていたが、事件について何も発信しない彼に大いに失望した。「この人は総理大臣に向いていない」と日記に書いた。

それどころか、事件当日に外務省は、西側諸国が共同して制裁措置をとることに反対する文章を作成していたことが、先月公表された外交文書で明らかになった。7月に開かれたアルシュ・サミットでも日本は一貫して制裁を緩やかにしようと立ち回っていた実態も明確になった。

ベルリンの壁が崩壊した後、東側諸国が次々とソ連のくびきから離れ、ソ連共産党一党独裁が終焉を迎えてから今年で30年。

天安門事件を引き金として中国共産党による一党独裁体制が崩れていたとしても、何の不思議もなかった。そんな瀕死の共産党を救ったのが、日本だったのである。

「中国を孤立化させてはいけない」を大義名分に、いちはやく経済協力を再開したのも日本だった。

〈歴史は繰り返すのか〉

日本は戦時中も中国共産党を救っている。生前、毛沢東は訪中した日本の要人が「日本軍が中国を侵略して申し訳なかった」と判で押したように謝ったのに対し、いつもこのように答えたという。

「申し訳ないことはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。皇軍がいなければ、われわれは政権を奪えなかった」

少し説明が必要だろう。蒋介石率いる国民党軍に敗走し、延安まで落ちのびた毛沢東が息を吹き返したのは、日本軍が昭和12年に国民党軍と全面戦争に突入し、蒋介石国共合作に踏み切らざる得なかったからだ。敗走に次ぐ敗走で2万5千人まで減っていた共産党軍は、8年後の終戦時には120万人にまで膨れあがり、後の国共内戦に打ち勝ったのである。ことに共産党軍に引き渡された日本軍の近代兵器が勝負の帰趨を左右したとの説もある。つまり、戦時中は軍部が、戦後は外務省が「中国共産党を助けた」のである。

新型コロナウイルスによって世界は一変したが、中国・武漢で最初の感染爆発が起きた際、当局による情報隠蔽が、パンデミック(世界的大流行)の引き金を引いたことを忘れてはならない。

すべての個人情報を国家が管理し、自由を求める「危険人物」を容赦なく監獄や収容所にぶち込む。チベットウイグルでの弾圧が、香港でも公然と行われ始めた現実から日本政府も国会も目を背けている。

いま再び、中国は西側諸国の「反中同盟」を切り崩そうと日本を懐柔しようとしている。手始めが、習近平国家主席国賓来日実現だ。

日本は、瀕死の中国共産党を2度助けた。3度目は、絶対にあってはならない。もし習近平来日に賛成する政治家や官僚がいれば、それはまさしく「国賊」である。「親中派」の私が書くのだから間違いない。

紹介した内容は、国際情勢に明るい者にとっては、知って当然のことであるが、50歳以下の者には縁遠い知識かもしれない。なぜなら、毛沢東の発言や天安門事件(当局は死者を319人と発表したが、実際ははるかに多かったとされる)も、政府、経済界、メディアなどが、中国市場への期待感からか、あまり中国共産党負の遺産に触れないできたからだ。

そこで、上記記事を補足する意味で、まずは習近平が敬愛する毛沢東の思考から書いてみたい。毛沢東は、中国大陸の権力を掌握することが最も重要なことで、人民の命など全く顧みる指導者ではなかった。その根拠の一つに、ソ連フルシチョフ第一書記が訪中した際、毛沢東が米国との軍事対決で「米国の核兵器で中国の人口の半分消えても、まだ3億人残っている」と発言したので、あのスターリンの忠臣者・フルシチョフすら恐ろしくなったと伝えられている。それでも、フルシチョフは1962年10月には「キューバ危機」を起こしている。

また、天安門事件に関しては、宇野首相の後任の海部俊樹首相は90年7月に円借款再開を表明、91年6月の日中外相会談で天皇の訪中を正式招請、そして翌92年10月には天皇、皇后両陛下(現在の上皇ご夫妻)が訪中している。この天皇の訪中については後日、当時の外交部長・銭其シンが回想録で「西側各国が科した中国指導者との交流禁止を打破できる」と振り返って、その狙いを明らかにしている。中国共産党にとっては、成功体験であったので、嬉しさのあまり隠しておけなかったようだが、考察しなければならないことは、その工作に乗る我が国の政府高官が存在していたことだ。

ところで、最近「産経新聞」の記事を取り上げることが多いが、その理由を考えると、朝日や読売は多種多様な思想信条を持つ購読者を抱えているので、どうしても“建前"や“奇麗事"の記事が多くなる。特に朝日の購読者は、その多くが旧社会党新左翼主義者・過激派など左翼思想の持ち主であるので、なおさらそのような傾向が出る。その点、産経新聞の場合は購読者の多くが“右寄り"の思想傾向であるので、“左寄り"の購読者に配慮する必要がない。さらに、国家のたち位置や自由と民主主義を追求する新聞であるので、北大西洋条約機構(NATO、30か国加盟)に加盟している欧米諸国と同じ目線で報道している。だから、吾輩的には非常に勉強になる国際情勢記事が多いのだ。

いずれにしても、今年は中国共産党創建100年(7月23日)の節目の年である。また、元日付の読売新聞は、海外から優秀な研究者を集める中国の人材招致プレジェクト「千人計画」、毎日新聞は中国の未承認ワクチンの日本国内持ち込みというから、今年も国際ニュースの主役は中国共産党になりそうだ。それを考えると、北海道人は産経新聞を読めないというから、今後も“自由主義陣営"の一員という立場で、国際情勢を分析していきたい。