志賀直哉のインフルエンザ小説

歴史上、感染拡大で何が起きたのかを知りたくて、書名「感染症の日本史」(著者=磯田道史、文春新書)を読んだが、一番関心を持ったのは第八章「文学者たちのスペイン風邪」であった。その中では昔、我孫子市に居住(1915年9月〜23年3月)し、自らスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)に罹患した「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉(1883年〜1971年)のインフルエンザ短編小説「流行感冒」を取り上げていたからだ。この小説では、感冒を恐れ神経質になった主人公(志賀本人)と使用人(女中2人)とのエピソードを描いている。

スペイン風邪は、日本での流行を3つの波として捉えると、「第1波」(「春の先触れ」)は18(大正7)年5月から7月まで、「第2波」(前流行)は18年10月から翌5月頃まで、「第3波」(「後流行」)は19(大正8)年12月から翌年5月頃までとなる。そして「前流行」では日本の全人口の4割近くが罹患したのに対し、「後流行」は4%強と、かかった人数ははるかに少なかったけれど、「前流行」では患者千人のうち12人強が命をおとしたのに対し、「後流行」では53人弱と、なんと4倍以上も死亡率が高くなった。この小説は、19(大正8)年3月に執筆されたので、題材となった時期は前年の18年秋からの「前流行」ということが言える。

当時、志賀直哉は次女が幼く、さらに長女を1年前に病気で亡くしていたので、なおさら神経質になっていた。読み進むうち、以前読んだ古書「手賀沼文人」(著者=秋谷半七、1978年8月10日第1刷発行、崙書房)を思い出した。その古書の中に、志賀直哉の長女が亡くなった医院の状況が記されていたからだ。著者の秋谷氏は、08年に我孫子町に生まれ、出版当時は市川高校教諭(元千葉県立東東葛高校教諭)というから地元の知識人である。

この夏のある晩である。私は眼を悪くし、町の医院回春堂に行った。診察を待って土間のかまちに腰をかけていた。この医院は古い茅葺きの家で茂右衛門さんといった。入口をはいると広い土間がある。左手は広い畳の部屋、その向うがまた畳の部屋で診察、治療屋であった。一隅にベッドがあり、反対側に治療用の机や椅子があった。土間の右手は薬局室で、他の部屋と板のわたりで連絡していた。土間のつきあたりは、引き戸を隔てて勝手の土間、その左手が居間、客間がつづいていた。そして、その土間には当時この町には数少い28インチの自転車が吊台におかれてあった。私は自転車を眺めていた。

この時、突然、浴衣の人達が6・7人とび込むように入ってきた。先頭は島根三造さんのおかみさん、「こんばん」と赤く書かれた提燈をさげていた。つぎは小さい赤ちゃんを抱いた志賀さん、白い浴衣の裾は露でぬれていた。その後が奥様、女中たちがつづいている。赤ちゃんの急病だ、と私は思った。

やがて赤ちゃんは居間にねかされ、志賀さんは勝手の土間で足を洗った。ただならない切迫した空気になった。結局芥子の湿布をすることになり、見る目もあつそうな芥子をのばした布が、小さな胸の上におかれた。赤ちゃんは小さな泣き声をあげる。しばらくすると志賀さんは、回春堂の奥さんから巻紙を受けとり、筆をもち、片仮名で手紙を書くと、土間の自転車をおろし、郵便局へ走っていった。東京の専門医を呼ぶ電報であった。

この晩おそく、この辺には珍しい自動車の音がきこえた。八方手をつくされたようであったが、この赤ちゃんはとうとう亡くなってしまった。大光寺の庭に、再び自動車が止まっていた。黒ぬりの立派なものであった。お棺がつまれ、泉屋さんのおばあさんが花束を棺にのせた。みんな心からおくった。

これは長女の慧子さんが亡くなった時の事情で、偶然私が目にしたことである。その後何年かたって、小説「和解」に書かれたこの時の文章をよみ、その正確な描写にあらためて感激したのである。

志賀直哉は、我孫子市滞在中、5人の子供をもうけたが、このうち長女と長男の2人が早逝去している。

○長女・慧子(16年6月7日〜7月31日)

○次女・留女子(17年7月23日生まれ)

○長男・直康(19年6月2日〜7月8日)

○三女・寿々子(20年5月31日生まれ)

○四女・万亀子(22年1月19日生まれ)

ということで、秋谷氏が体験した日時は16年7月31日ということが言える。

吾輩は、文学青年でなかったので、自慢ではないが志賀直哉の作品を読んだ記憶がない。しかしながら、我孫子市に居住していると、自然と志賀直哉武者小路実篤など「白樺派」といわれる小説家のことを知る。また、01年1月に日本オラクル初代社長・佐野力(小樽商大出身)が私財を投じて開館した「白樺文学館」(09年から市直営)を訪れると、ますます「白樺派」の小説家のことを知ることになる。

ところで、佐野氏は小樽商大出身ということで、33(昭和8)年2月20日に拷問死したプロレタリア作家・小林多喜二の関連資料も集めていた。もう10年前か、志賀直哉から小林多喜二に宛てた手紙が展示されていたが、その中に「これがプロレタリア文学というものか。普通の文学作品を書いてみてはどうか」旨の記述があり、当局から目を付けられる共産主義的な作風を残念がっていた。小林多喜二は、志賀直哉の作品で文学を学んだということで、原稿を郵送したり、31年11月には奈良の志賀宅に宿泊するなど、志賀直哉との交流に熱心であった。

さて、磯田氏は現在のコロナ禍について、次のような見通しを書いている。

ー経済か感染抑止かの二者択一ではなく、緩和と制限を繰り返しながら、弱毒化・ワクチン開発・症状緩和の技術開発まで、しのいでいくほかありません。そうしながら、感染率、致死率や重症化率を下げていきます。通常のインフルエンザに近い死亡率の状態にまでもっていったところで、制限がすべて解除されるという終息までのロードマップがみえてきます。結局は、このような現実的な対応になっていくように感じられます。ー

以前のような社会生活に戻るには、あと3〜4年かかると言われているので、それまで頑張って生活して行きましょう!