映画「赤い闇スターリンの冷たい大地で」を観て

8月14日公開の映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」を、茨城県つくば市の映画館で観てきた。はっきり言って、ソ連の歴史を勉強していた者には、映画の舞台である1930年代のウクライナの大量餓死(総数は300万人以上)は、当然の知識である。問題は、世界の人たちはいつ知ったのか、そして日本でもどのくらいの人たちが知っていたのか。つまり戦後、日本の中に急速に“共産主義思想被れ"が出現したが、この者たちはこの事実を知っていたのか、という疑問である。

それでは、いつものように、映画館で購入したパンフレット(600円)を基に説明していきたい。まずは、映画の主役ガレス・ジョーンズ(1905〜35)の経歴から簡単に紹介する。

○30年…ケンブリッジ大卒業後、ロイド・ジョージ(元首相〈在任16〜22〉)の外交アドバイザー。夏には、元英語教師の母親がかってウクライナのユーゾフカ(後のスターリノ、現在のドネツク)で暮らしていたという縁で初めてユーゾフカを訪れる。

○31年…ニューヨークのロックフェラー研究所、クライスラー財団などのアドバイザーを務め、ソ連研究を進める。夏頃、ジャック・ハインツに同行してソ連を訪問、旅の最後にウクライナに寄る。

○32年…アメリカで深刻な恐慌、再びロイド・ジョージのもとへ。秋頃、スターリン政権のソ連で飢餓が起きているという噂がロンドンで起き始める。

○33年…1月末から2月始めにドイツ訪問。アドルフ・ヒトラーが首相になって数日後、フランクフルト行きの飛行機にてヒトラーへの面談に成功。

3月、餓死の噂を調べるため、ソ連ウクライナへ3度目にして最後の渡航。なお、モスクワへ発つ前に国際電話で連絡を取った友人の記者ポール・クレブが強盗に殺される(クレブはウクライナ餓死の状況を取材中)。

29日にベルリンに戻り、餓死の事実を伝える有名なプレスリースを発表し、米国と英国の新聞に掲載。31日、ニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティ(ソ連に20年以上滞在して、32年にピューリッツァー賞受賞)が「腹を空かせているが、飢え死にしているわけではない」と餓死の事実を否定する記事がニューヨーク・タイムズに掲載。

5月13日、ジョーンズはニューヨーク・タイムズ上で、辛辣な反論記事を展開。その後、6月頃までの間にフリーランスのジャーナリストとして英国、米国の様々な新聞にて餓死に関する記事を発表し続ける。

一方、ソ連を貶めるような記事を掲載した結果、ソ連外務大臣リトヴィノフはロイド・ジョージへ向けた手紙でジョーンズがソ連に二度と入国できない旨を通達。

○34年…この年の後半に英国を出発し、満州国では主要な人物へのインタビューを試みる。日本にも5〜6週間滞在し、ソ連諜報員リヒャルト・ゾルゲのアパートにも滞在。

○30歳の誕生日前日の8月12日、何者かの銃弾3発によって殺害される。

映画のあらすじは、ジョーンズの経歴を追う形であるが、山場は世界恐慌の中で、なぜソ連だけが繁栄しているのか、という謎を解くためにウクライナを訪ねる場面である。ウクライナでの取材に関しては、多少の脚色が見受けられるが、映画である以上仕方がない。それでも、現実はそれ以上の悲惨な状況にあったことは想像できる。

ところで吾輩は、昔読んだ書物の中で、ウクライナの餓死者の回収について「線路沿いの死体が余りに多いので、作業員が空の貨車を押しながら投げ入れて進んだ」という文面に触れた記憶がある。そこで、学生時代に読んだ分厚い「フルシチョフ回想録」(定価2500円、発行日=昭和47年2月25日、編者=ストローブ・タルボット)を本棚からを取り出してみたが、この文面は発見できなかった。だが、スターリン亡き後の56年2月の第20回党大会の秘密報告で、フルシチョフスターリンの農業に対する認識を明らかにしているので紹介する。

〈農民を知らぬ指導者〉

スターリンが現実を考慮するのを渋ったことや、かれが地方の実情を知らなかった事実は、かれの農業指導にはっきりとあらわれている。

国の情勢にすこしでも関心を持つものなら誰でも、農業の困難な情勢を知っていたが、スターリンは、すこしも気にとめなかった。私達はスターリンにこのことを告げただろうか。しかり、私達はかれに説明したが、かれは私達の意見を支持しなかった。なぜか?スターリンはどこにも旅行したことがなく、市町や共営農場の働き手達に会ったこともなかったので、地方の実情を知らなかったからである。

かれは国の事情や農業事情を映画で知っていたにすぎない。これらの映画は農業の実状を粉飾し、美化したものであった。多くの映画は共営農場の生活について、七面鳥とガ鳥の重味でテーブルがしなっているように描いた。明らかにスターリンは実際にそうだと思いこんだのである。〜

〈とほうもない農業税〉

スターリンは自分を民衆から隔離し、どこへも行かなかった。この状態は何十年も続いた。スターリンが最後に村落を訪れたのは、穀物の引渡しにかんして視察のためシベリアを訪れた1928年1月のことであった。これでは地方の情勢を知る筈がない。スターリンはかって一度、ある討議のとき、農村の情勢が困難なものであり、とくに家畜飼育と肉類生産情勢が悪いと聞いたさい、委員会を設けて、この委員会に、「共営農場と国営農場における家畜飼育をさらに発展させるための諸措置」と呼ばれる決議案の起草の任務を負わせた。私達は決議案をつくった。〜

当時スターリンが主張していたことは、なんらかの資料にもとづいたものであっただろうか。もちろんそうではなかった。

こうした場合に、事実や数字はかれの関心をひかなかった。スターリンがなにかいったとすれば、結局それは間違いのないことを意味していた。かれは「天才」なのであり、天才は計算する必要がないのである。かれはただ眺めるだけでよく、ただちにいかにあるべきかを告げることができる。かれがその見解を表明する場合には、すべてのものがそれをそのまま繰返し、かれの英知に感嘆しなければならない。

フルシチョフが、スターリン亡き後に最もらしくスターリンを批判しても、同じ狢である。なぜなら、「フルシチョフ回想録」の解説で書かれているが、スターリンの大量虐殺(少なくとも七百万人のうちの何人かとして)によって、26年のユーゾフカにおける極めて小さな地方党活動家たる最初のポストから上昇して、38年にはソ連共産党政治局候補(ウクライナ党第一書記)、翌39年3月には政治局員となった。つまり、フルシチョフスターリンの残虐な政策に協力して出世した人物である以上、奇麗事を言える立場ではないのだ。

ここで気がつきましたか。そうです、ジョーンズがウクライナに3回も訪ねたのは、母親がスターリノで暮らしていたからだ。そして、フルシチョフもユーゾフカのボッセ工場で金属工の仕事を学んだだり、ユーゾフカの党組織によって、ルチェンコフ鉱山の支配人代理に任命されるなど、ユーゾフカとの関係が非常に深い。なんとなく、運命のイタズラを感じる。

映画の中で、気になるセリフがあった。それは、ジョーンズが「搾取と同じくらい、平等という言葉は人間社会をおかしくする」旨のセリフだ。つまり、現在でも“新自由主義"ということで格差が広がり、その一方では“平等"という言葉が流行るなど、昔とちっとも変わっていない。さらに映画を観ていて、現在の中国共産党の強引な“ウソ宣伝"を思い出す場面が2〜3回あり、依然として共産党の恐ろしさを実感した。

映画の最後は、

○ジョーンズは30歳の誕生日前日に満州で射殺された。

スターリンの政策を称える記事を書き、ピューリッツァー賞を受賞したデュランティは、1957年に72歳で亡くなった。しかしながら、ピューリッツァー賞はいまだに取り上げられていない。

という字幕スーパーが流れて終わった。

旧共産圏のポーランド出身の監督アグニェシュカ・ホランドは、共産主義体制の真実を追求したジョーンズが非業の死を迎え、一方のデュランティは「大義の前では、一人の人間の野望などかすむ。君はいい記者になれたのに」とジョーンズを批判するセリフを吐かせるなど、2人を対照的なジャーナリストとして描いている。要するに、現在でもデュランティのような真実を求めず、世渡り上手な“卑怯な記者"が許せないのだ。だからこそ、最近のインタビューでも「1930年代のジャーナリズムと今日のジャーナリズムはとても似た状況に直前している」「いつの間にか許されてしまった共産主義の犯罪を再び起こさないためにも、もう一度、徹底的に分析する必要があると思った」「腐敗したメディア、日和見的な政治家、そして無関心な社会、この3つが揃うと、また恐ろしい歴史が繰り返される」と述べている。

それにしても、対ソ連に対するイギリスのインテリジェンスは凄いと感じたし、映画制作国がポーランドウクライナ、イギリスというのも、これからの国際力学を考えると、面白い組み合わせだ。