ゴルジエフスキーのモスクワ脱出劇場

あまりにも面白く、そして“ハラハラ、ドキドキ"した新刊「KGBの男ー冷戦史上最大の二重スパイ」(著者=ベン・マッキンタイアー、中央公論新社)を読了した。冷戦期の1985年7月20日、英情報局秘密情報部(M16)の二重スパイとなり、英国に亡命した元ソ連国家保安委員会(KGB)のロンドン支局長、オレーク・アントーノヴィチ・ゴルジエフスキー(38年10月10日生まれ)の半生である。

最大の見せ場は、M16がモスクワで軟禁状態のゴルジエフスキーをフィンランドに“脱出"させる場面であるが、もう一つはKGBによる“拷問"場面である。最初は、85年5月27日(月)に、KGB第一総局への訪問者や客を宿泊させる平屋住宅で、グルシュ(第一総局副総局長)が、お互いにブランデーを飲んでからの“拷問"場面から紹介する。

すると、驚くほど突然に、ゴルジエフスキーは現実世界がぐらぐらと揺れて幻覚のような夢の世界に変わっていくのを感じた。その夢の中で彼は、意識があるかないかの状態で、遠く離れた場所から、光を曲げるゆがんだレンズを通して自分の姿を観察しているような気がした。

ゴルジエフスキーのブランデーには、ある種の自白剤が混ぜられていた。おそらく薬は、KGBが製造した向精神薬SP-117だったのだろう。即効性のバルビツール酸系麻酔薬であるチオペンタール・ナトリウムの一種で、無色・無味・無臭であり、心理的な抑制を解いて口を割らせることを目的とした薬剤だ。給仕係は、他の三人には最初のボトルからブランデーを注ぎ、ゴルジエフスキーのグラスには、悟られぬように別のボトルから注いだのである。

年上の男は、KGBの国内の防諜を担当するK局の局長セルゲイ・ゴルベフ将軍だった。もうひとりは、KGBの腕利きの調査官ヴィクトル・ブダノフ大佐だった。

彼らは質問を始め、ゴルジエフスキーは知らず知らずに、自分が何を言っているのかおぼろげにしかわからぬまま、質問に答えていた。それでも、彼の脳の一部は意識を保っており、身を守ろうとしていた。「気を張っているのだ」と彼は自分に言い聞かせた。ゴルジエフスキーは、自白剤入りのブランデーで意識が朦朧とする中、汗と恐怖に苦しめられながら、生きるか死ぬかの戦いをしていた。彼は、KGBが秘密を聞き出すのに肉体への拷問ではなく薬を使うことがあると聞いたことはあったが、まさか自分がこのように神経系への化学攻撃をいきなり仕掛けられるとはまったく予期していなかった。

それから五時間、ゴルジエフスキーには何が起きているのかよく分からなかった。それでも後に記憶のかけらを、薬で霧のかかった意識の奥から思い出すことはできたが、それらはまるで、ぼんやりと覚えている切れ切れの強烈な悪夢のようだった。いきなり鮮明になる場面、断片的な言葉やフレーズ、尋問者たちの不気味な顔がよみがえってくる。〜

ブダノフとゴルベフは、オーウェルソルジェニーツィンなどの文学について話したがっているようだった。「なぜ、こうした反ソヴィエト的な書籍を何冊も持っているのだ?」とふたりは問い質した。「外交官としての立場を意図的に利用して、違法と知っている物を持ち込んだのだろう」。

「いいえ、違います」と言う自分の声がゴルジエフスキーに聞こえた。「政治情報担当者として、ああいった本を読む必要があったのです。基本的な背景知識が得られるのです」。

突然、彼の隣にグルシコが満面の笑みを浮かべて現れた。「よくやった、オレーク!すばらしい会話をしているじゃないか。続いて!何もかも話すんだ」。そう言うとグルシコは姿を消し、再び二名の尋問者が、上から彼の顔をのぞき込んでいた。

「我々は、君がイギリス側の工作員であることを知っている。君の有罪を示す、動かぬ証拠を持っている。自白するんだ!」

「いいえ!自白することなど何もありません」。背もたれにぐったりと寄りかかり、全身汗まみれになりながら、彼は意識が遠のいたり戻ったりするのを感じていた。

ブダノフは、聞き分けのない子供を相手にするときのような、なだめる感じの声で言った。「数分前はとてもきちんと自白したじゃないか。さあ、もう一度繰り返して、さっき言ったことを認めてごらん。もう一度自白するんだ!」。

「私は何もしていません」と、彼は溺れる者が藁をつかむような思いで自分の嘘にすがりながら、必死に言った。

この辺でKGBの“拷問"場面を打ち切るが、凄まじい描写である。次は、ゴルジエフスキーとM16が、ソ連フィンランド間の国境付近で集合して、フィンランドに脱出する状況だ。

ゴルジエフスキーは、2日前に購入した7月19日(金)17時30分発レニングラード行き夜行列車に乗り、翌朝に到着。その後、列車、バスを利用して、国境の手前25キロの町・ヴィボルク付近の集合地点に10時30分到着(集合は14時30分)。一方のM16は、モスクワ支局長のロイ・アスコットと妻キャロライン、副支局長のアーサー・ジーと妻レイチェル(赤ん坊が同行)の4人が、2台の車両でモスクワを23時15分ころに出発した。ジーのフォードが前、アスコットのサーブが後ろになって、北に向かった。

翌日の14時ころの状況は、先頭にM16の自動車2台、少し離れて後ろにパトカー2台とKGB車2台という並びで、レニングラード・ヴィボルク間の幹線道路を走行した。ところが、途中で軍の縦隊が左から右へと道を横切っていたので、一旦縦隊が通り過ぎるのを待ったが、集合地点までわずか10キロであった。そこで、車が動き出すと、次のような状況になった。

M16の情報員たちは、このルートを事前に何度かドライブしたことがあり、曲がる場所がほんの数キロ先だということを、ふたりとも分かっていた。数秒後には、彼らの車は時速140キロに戻り、つきまとっていた自動車をすでに500メートル近く引き離していて、その差はさらに広がっていた。836キロポストの手前で、道路は1キロ弱にわたって直線の下り坂となり、その後また上り坂になって右に急カーブしている。曲がる場所は、その約200メートル先の右側にある。待避所は、ピクニックに来たソ連人でいっぱいなのではないだろうか?キャロライン・アスコットは、夫が回収を試みるつもりなのか、それともこのまま待避所を通り過ぎるのか、まだ分からなかった。ジーにも分からなかった。アスコット本人にさえ分からなかった。

坂を上り切ってアスコットがカーブに入ったとき、ジーがバックミラーに目をやると、青いジグリが真後ろで視界に入ってきたのが見えた。距離は1キロ弱で、時間にして30秒か、それ以下の差だ。

巨大な岩が視界に現れると、アスコットは無意識のうちに急ブレーキを踏んで待避所に入り、車はキーッと音を立てて停まった。ジーもその数メートル後ろに停車し、どちらの車も、スリップしたタイヤが土煙をもうもうと立てていた。2台は、木々と岩が目隠しとなって道路からは見えない。あたりは閑散としていた。時刻は2時47分。「神さま、どうか彼らがこの土煙を見ませんように」とレイチェルは思った。一同が車から降りると、3台のジグリがエンジンに抗議の叫びを上げさせながら、木々の向こうの15メートルも離れていない本道を猛スピードで通り過ぎていく音が聞こえた。

無事に集合地点でゴルジエフスキーと合流し、同人をフォード・シエラのトランクに乗せて、いよいよ国境を突破する状況だ。国境地帯は、幅がおよそ20キロで、ここからフィンランドまでの間に検問所が、ソ連側に3つ、フィンランド側に2つあり、ここではソ連側最後の検問所での状況だ。

探知犬がトラックの周りをうろうろし出したため、キャロライン・アスコットは、冷戦であれほかの戦争であれ、それまで使用されたことのなかった武器に手を伸ばした。フローレンスを、スパイが隠れているトラックの上に乗せて、おむつをーフローレンスが絶妙のタイミングでお漏らしをしたー替え始めたのである。そして、汚れて臭うおむつを、嗅ぎまわるシェパードのそばに落とした。「犬は当然、ムッとして立ち去りました」。嗅覚に対する牽制は、計画にはまったく含まれていなかった。おむつ作戦は、完全にその場のとっさの判断であり、非常に効果的であった。

男性陣が書類手続きを終えて戻ってきた。15分後、国境警備隊がパスポート4冊を持ってやってきて、ひとりずつ確認しながら手渡すと、礼儀正しく別れを告げた。

最後のゲートでは車7台が列を成しており、ゲートは、有刺鉄線と、高い監視塔2基と、機関銃で武装した警備隊で守られていた。約20分間、一行は、監視塔から双眼鏡で厳重に監視されているのを意識しながら、のろのろと進んだ。今はジーが前、アスコットが後ろになっている。「神経がすり減らされる時間だった」。

ソヴィエト側の最後のハードルは、パスポート審査だった。ソ連の審査官がイギリスの外交官用パスポートを調べる時間は恐ろしく長い感じられたが、やがてゲートが上がった。

これで一行は正式にフィンランドに入ったが、まだハードルがふたつ残っていた。フィンランド側の税関・出入国審査と、フィンランド側のパスポート審査だ。このふたつを通るまでは、ソヴィエト側から一本電話を掛けるだけで彼らを呼び戻すことができる。フィンランドの税関職員は、ジーの書類に目を通すと、自動車保険があと数日で切れることを指摘した。ジーは、切れる前にソヴィエト連邦へ戻る予定だと告げた。職員は肩をすくめ、文書に判を押した。ゴルジエフスキーは、運転席のドアが閉まるのを感じ、ガタンと揺れたかと思うと車は再び走り出した。

2台の車は最後の関門へ向かった。その向こうはフィンランドだ。ジーは、格子越しにパスポートを提出した。フィンランドの係官は、ゆっくりと調べてから返すと、バーを上げるため事務所から出てきた。そのとき電話が鳴った。係官は事務所に戻った。アーサーとレイチェル・ジーは、黙ったまま前方を見つめていた。永遠と思えるほどの時間が過ぎた後、係官はあくびをしながら戻ってきて、バーを上げた。時刻は、モスクワ時間で4時15分。フィンランド時間で3時15分だった。

長い長いゴルジエフスキーのモスクワからの脱出物語が終わったが、いまだに誰がゴルジエフスキーの二重スパイを密告したのかが判明していない。だが、CIA(米中央情報局)の対ソ防諜活動の責任者だったオールドリッチ・エイムズが、KGBとの会合を持った翌日(5月16日)に、モスクワから新任KGBロンドン支局長・ゴルジエフスキーに対し「2日後に至急モスクワへ来て」という緊急電報が届けられた。そのころ、CIAはM16の情報源を把握していた。エイムズが逮捕されたのは、94年2月21日で、その約10年間にKGBやGRU(ソ連参謀本部諜報総局)の情報員20人以上が「国家反逆罪」などでソ連で秘密裁判にかけられ、処刑されたという。

そこで、吾輩の手持ちの新聞資料から処刑されたソ連の情報機関員を一部を紹介する。

○ワレリー・マルチノフ(KGB中佐)=85年までワシントンの駐米ソ連大使館で表向き文化担当書記官〈41歳の87年5月28日に死刑執行〉

○ディミトリー・ポリャコフ(GRU幹部)=ソ連対戦車ミサイルの技術情報〈88年処刑〉

○マトーリン(KGB少佐)=〈処刑〉

○G・スメターニン(KGB大佐)=ポルトガルの首都リスボンでCIAに機密情報を提供〈処刑〉

○G・ワレンニク(KGB中佐)=ドイツのボンでCIAに協力〈処刑〉

○V・ワシリエフ(GRU大佐)=ブダペストでCIAに引き抜かれ、モスクワでCIAに協力〈処刑〉

○L・ポリシチュク(KGB将校)=アフリカで情報提供〈処刑〉

○S・ウォロンツォフ(KGB将校)=モスクワでのCIAスパイ追跡情報〈処刑〉

エイムズは、ソヴィエト側から合計460万ドルもの大金を稼いだ。一方のゴルジエフスキーは、亡命後の87年に米国大統領執務室でレーガンと会い、レーガンは「私たちは、君のことを知っています。君が西側のためにしてくれたことに感謝しています」と言った。2007年の女王誕生記念叙勲で、「連合王国の安全に対する貢献」を評価されて聖ミカエル聖ジョージ三等勲爵士(CMG)に叙せられた。ゴルジの大義は永遠だ!