大作家・吉村昭の最後の手紙

吾輩は「吉村昭研究会」(桑原文明会長)の会報定期購読者であるので、4月30日に「吉村昭研究第50号」が郵送で届いた。さっそく読んでみると、桑原会長の原稿の中に、新潮社で吉村昭(以下、敬称略)の担当者・栗原正哉が記した「吉村昭さんからの手紙」(新潮社のPR誌『波』H22・10)が引用されていたので紹介する。

その前に、吉村昭の病歴を確認したい。

○平成17年(2005年)2月、舌ガンを宣告され、放射線治療のため、入退院を繰り返す。病気のことは家族以外には秘し、新聞連載の執筆と推敲を続ける。

○翌18年1月、膵臓ガンが見つかり、2月に全摘手術を受ける。3月、自宅療養に入る。生前最後の短篇小説「山茶花」を発表。7月10日に再入院するが、本人の強い希望で24日に退院。31日未明に永眠(享年79)。

吉村昭さんからの手紙ー

「私が新潮社に入社したのは、昭和47年(1972年)です。最初に担当した吉村さんの作品は、新潮文庫版『星への旅』。入社2年目のことでした。その後、単行本の担当をするようになり、『羆嵐』から『桜田門外ノ変』まで、10冊余りの作品を手掛けました。そのなかには、『ポーツマスの旗』『冷い夏、熱い夏』『仮釈放』といった書下ろしの作品もあります。ほかに、『吉村昭自選作品集』全15巻と別巻もつくりました。その後、管理職として直接の担当を離れてからも親しくお付き合いをさせていただき、平成18年に亡くなれられたあと、遺作の『死顔』を再び直接の担当者として編集しました。(中略)

戴いた手紙の多くは、お仕事の計画や原稿の進捗状況にかかわるものでした。

「書こうと思っています。6日前からそれに浸りきっています。題名から、というのは至言ですが、今の私は、第一行をなににしようか、と、真剣に、そしてのびのびと考えています。主人公の顔、体格、息づかいがかなりはっきりみえています。」(中略)

4月3日にいただいたファクシミリは、生前に発表した最後の短篇になってしまった「山茶花」の原稿についての連絡です。

「退院して1カ月、口内炎で言語不明瞭。散歩もでき、ようやく元気をとりもどしました。

短篇を見ていただくと言っていましたが、病気のため、自分では判断がつかず、もしも好ましくないようでしたら、その旨、御返事下さい。私の恥になることですから、お返しいただいた方がありがたいのです。

40日間に及ぶ入院生活はこたえました。食事がひどく、そのため栄養失調になり、7㎏やせ、体もふらつき。帰宅して、食事がうまく、ようやく2㎏回復しました。

右、近況報告まで……。」

私はすぐに、返事をファクシミリで送りました。老老介護の末の夫殺しを題材にした短篇「山茶花」に対する感想です。

「原稿を拝読しました。吉村さんらしい、よい作品と思いました。ご体調がよろしくないことも、原稿からはまったく伺えませんでした。

保護観察という現実の制度のなかで、保護司と被保護観察者の人間像が生き生きと伝わってきます。制度の取材が万全なので、知らない世界を知る興味も引かれます。身上調査書による事件の経緯も、感情を排して事実関係が述べられているために、却って強く印象づけられます。

死が日常化するところが、一つのポイントと思いました。

光代の心情があまり描かれないことに不満を感じる読者がいるかもしれませんが、私は却って書き込まずに、肌の艶とか服装の変化で表しているところが優れていると思いました。人間というものの不気味さというか、分からなさも、この手法でこそ伝わります。」

私がこう返信を送ると、折返し吉村さんからファックスが届きました。そこには、ただ一行、「やはり体が弱っているので、涙が出ました。」と記されていました。

まもなく、この短篇が雑誌「新潮」に掲載されると、朝日新聞文芸時評で好意的に取り上げられ、高い評価を得ました。そこで、5月30日に、私はファクシミリで便りを出したのです。その返信は以下のようなものでした。

「お心にかけて下さり、ありがとうございます。(中略)

体調は、少しよくなったようですが、横這いといったところで、入院中糖尿病が発見され、食事療法をつづけ、お酒はやめています。昔日の面影はなく、それはそれで清新な感じです。

外出は通院のみで、人と会うことはなく、もし合うとしたら、栗原さんが最初と思っております。なにやら、ぐにゃぐにゃした態度ですが、これも20歳の折の大病による影響です。御容赦下さい。」

それから1月半たった7月13日に、奥様の津村節子さんを通じて、私は吉村さんから呼ばれました。再入院なさっていた東京医科歯科大学付属病院の病室で、久しぶりにお目にかかったときに手渡された封書が、吉村さんからいただいた最後の手紙になりました。私の名前を表書きした白い封筒の中身は、原稿用紙に書かれた「遺書」でした。

「これまで病気を秘しておりましたこと、申訳なく思います。若い時の大病の経験で、お見舞いを受けることがいやで、そのことはよく御存じのことと思います。

昨年(平成17年)2月、舌に異常を感じ、医科歯科大口腔外科で診断を受けた結果、癌と断定されました。手術は避け、放射線治療を3回受けましたが、効果なく、手術を受けることになりました。その予備検査の段階で膵臓に初期癌が発見され、舌癌手術と同時に手術を受けることになりました。手術は8時間の由で、一応、死を覚悟し、そのため栗原さんに遺書をしたためる次第です。」

この文章に続いて、ご自身の死後の手筈がひとつひとつ具体的に記されいました。

私はこの遺書で死後のことを託されて、戸惑いつつも、「分かりました、でもずーっと先のことにしましょう」と答えたのですが、吉村さんはご自身の死が間近に迫っていることを、冷静に自覚されていたのでしょう。

吉村さんがお亡くなりになったのは、それから18日後、ちょうど4年前の今日、7月31日でした。」

以上の文章を紹介したのは、吉村昭も手紙で記しているが、闘病生活を家族以外に一切伏せたので、吾輩のような吉村昭ファンは、死亡を知った時には、非常に驚いたものだ。そのため、新潮社の担当者と吉村昭とのやり取りは、病気の進行状況や精神状況を知る上で、非常に参考になった。

なお、吉村昭の妻・津村節子は、平成23年7月に刊行した私小説「紅梅」(第59回菊池寛を受賞)で、死と向き合う夫を、妻の眼、作家の眼で描ききっている、というが読む気はない。吉村昭という作家の全てが、吾輩の頭脳や心に染み込み、既に美しい形で完結しており、それで充分と考えているからだ。