父親と同学年者の学徒動員状況

一昨年の6月17日、吾輩の母親(昭和4年6月生、遠軽高等女学生)が戦時中、学徒動員で北海道滝上町の木工場に駆り出されたことを、題名「遠軽高等女学生たちの学徒動員解明に向けて」という文章で紹介した。それに対して、滝上町の友人から、学徒動員されたオホーツク管内の木工場の所有変遷を調査・報告してくれた。

戦時中の北見・遠軽・滝上における、木製航空機製造と勤労動員について調べたので知らせます。引用したのは北見市史で、昭和19年12月27日、北見航空機会社の設立総会が西国民学校で開かれた。資本金は650万円で、北見市を始め管内25町村が出資した。社長は元航空技術学校長・佐藤寛一陸軍少尉、副社長は靖国神社宮司・鈴木大将の長男・鈴木武で、役員は地元から選出された。

滝上町史では、戦局はいよいよ苛烈を極めるに及び、本町木材工場も軍部の要請で、木製飛行機の政策を目的とした「北見航空機株式会社」が創立されると、地元の工場「太田ベニヤ製造所」は、軍命令により「北見航空機会社」に合流して、その主要な工場となった。

また、遠軽町史には、戦局が不利になるに従って、軍用飛行機は著しく不足を告げ…飛行機資材の重要な原料アルミニウムの原鉱・ボーキサイトも、マレーシアからの輸入が途絶えたことで、木製で間に合うところは木材を用いることを決定した。この頃、地元に航空機会社を建設する計画が立てられ、…650万円全額払込の「北見航空機株式会社」が発足した。買収した工場は、遠軽の「角谷木工場」、北見の「馬場酒造所」、滝上濁川の「太田ベニヤ工場」の3か所で、新たに遠軽に組み立て工場を置いた。最初は生産種目の素材は翼、プロペラ、グライダーとして、段々と組立木製飛行機の政策に進む計画であったが、創設幾ばくなく敗戦を迎えたので、債権対策が検討された結果、民間企業として再出発することになり「北見合板株式会社」と改称され、遠軽の製材工場は「遠軽工場」、組み立て工場は「遠軽木製工場」と呼ばれるようになった。

遠軽高等女学生に関しては、戦時中は学業として、他の学校同様に「学徒勤労報国隊」を組織し、…滝上濁川のベニヤ工場に駆り出された、と記述している。滝上の工場も、終戦後「北見合板木材株式会社」となったが、昭和26年の火災焼失により「太田木材株式会社」となった。

以上の報告を受けたので、いずれ何らかの形で活用したいと考え、長らく文章を保存してきたが、いよいよ父親の関連で取り上げる時が来た。というのは、父親は昭和3年3月生まれで、小学1年生の時に病気で1年留年したことから、旧制遠軽中学時代は一学年下の昭和3年生まれと同学年であった。当時、旧制中学は昭和2年生まれは同15年4月入学して同20年3月卒業、昭和3年生まれは同16年4月入学して1年早く同20年3月卒業、昭和4年生まれは同17年4月入学して同22年3月卒業している。つまり、昭和3年生まれは、満足な学業を得ずに1年早く卒業させられたので、なおさら父親の学年に関心を持ったのだ。

そうした中で最近、当時を回想する文面に触れた。最初は、昨年7月に地元有志が発行した冊子「体験記 私たちの戦中・終戦直後史」(編著者=我孫子市史研究センター)の中に掲載された「敗戦直後の学生生活ー三谷和夫」の一節である。

ー私は昭和3(1928)年、三重県鈴鹿市に生まれ、16年3月小学校を卒業、4月三重県立神戸中学校に入学した。16年12月、日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告、太平洋戦争が始まる。

昭和19年7月、戦局悪化、中学生も学校で学習を続けることは許されず、勤労動員に出動、私たちは三重県楠町の名古屋陸軍造兵廠楠製造所にて兵器(対戦車砲、航空機関砲)の生産に従事した。やがて昼夜二交替制勤務となり、正月もなく元日も夜間勤務であった。

昭和20年3月、私たち中学4年生は、5年制の中学校を、戦時特例として4年にて中学卒業となり、5年生と同時に卒業式に出席した。

中学を卒業すれば、それぞれ自由に自分の進路を応じて学校を離れるはずだが、時局はそれを許さず、陸軍士官学校海軍兵学校入学予定者はそれぞれの道を進んだが、他の上級学校進学者には、中学校の勤労動員を継続せよとの指令が出た。私は浜松工業専門学校(現静岡大学工学部)の入学式に臨むべきところを、そのままずるずると工場勤務に従わざるを得なかった。

昭和20年7月、戦局は深刻となり、敗戦色が濃厚となったが、学校(浜松工専)から新たに勤労動員に出動せよ、日本軽金属蒲原工場に集合せよと連絡が来た。蒲原へは行ったこともなく、不安ながらも楠の工場勤務はやめ、蒲原行きの準備をした。8月には広島、長崎への特殊爆弾(やがて原爆とわかる)が落ち、時局は暗雲におおわれた。

昭和20年8月15日、天皇詔勅があり、日本の敗戦となる。しばし茫然、しかし来たるべきものが来た思いだった。そうこうする中に学校から連絡があり、「晴耕雨読の授業を始めるから9月1日学校に集合せよ」とのこと。とにかく学校に行きたい。「笈を負う」という語があるが、文字通り勉強道具や衣類などを詰め込んだ行李を背中にくくりつけ、その上にリュックサックを乗せた。汽車に乗るには窓から入った時代、苦労して乗り込んだ。ー

この人は元高校教諭で、今でも元気に地元の図書館に通い、時たま「郷土歴史講演会」で話をしている。そして、誠に勉強好きで、地元の郷土歴史界をリードしている。

続いては、2月13日に郵送されてきた小冊子「吉村昭研究」(第49号)に掲載された「眩い空」(遠藤雅夫)の中の一節である。

ー昭和28年に北海道に来て、この土地の戦時中の話を聞いて、私の過ごした時間と比べて、その余りの違いに驚いたものである。私と同年の友人は、室蘭の日本製鋼所で艦砲射撃を受けて、文字通り生死の境を通ってきたというが、私の経験した戦時とは全く次元の違った、のんびりした戦時経験をしていた。つまり、終戦まで、英語の授業があり、学徒動員も農村作業であり、その名称も援農などという補助的ともいえるものであった。また中学校での軍事教練も随分おざなりなものであったようだ。

私の場合は、中学1年で太平洋戦争が開戦になり、英語は1年目の終わりには、教練に変わって、あの猛烈なしごきで名を売った海軍の予科練にいった友人が、学校にいるよりも楽だ、といった位の激しい軍事訓練に明け暮れていた。

動員も中学1年から4年1学期までは、授業時間を削っての造林作業と暗渠排水の溝掘りと横須賀海軍軍需部での運搬作業であり、4年の2学期つまり昭和19年9月には授業が全く無くなり、動員学徒として日本製鋼横浜製作所の工場で、夜間戦闘機月光に搭載する機関銃作りをしていた。この期間は私にとっては、吉村氏のいう「長い休暇」であったが、われわれの場合は、勉強が休暇になっただけで、「長い軍事訓練と工場労働」の日々になったのであったのである。ー

ということで、学徒動員されたオホーツク管内の木工場と、昭和3年生まれの旧制中学生が繋がった。だが、父親から戦時中に何らかの木工場に駆り出された話を聞いたことはなく、ただニヤニヤしながら「鉄砲を担いで海岸線を歩いていた」と言ったことを2〜3回聞いたことがある。だから、もしかしたら年齢が同級生より一学年上であるので、兵士と一緒に“オホーツク海の浜"をパトロールしていたのかもしれない。

ということで、今まで何回も書いてきた高名な作家・吉村昭(昭和2年5月生)と父親は同学年であり、そのことで尚更、吉村氏を好きになったのかもしれない。それにしても、2月14日に作家・司馬遼太郎(大正12年8月生)をしのぶ「第24回菜の花忌シンポジウム」が都内で開かれたが、参加者は約1050人という。その現実を知ると、ほぼ同年代の大作家二人の人気は、依然として司馬氏がリードしているようだ。