木村汎先生の無念さを忘れないために

安倍首相の“対露暴走外交"に対して、強い懸念を示してきた木村汎(北海道大学名誉教授)が、11月14日に亡くなった。吾輩も、安倍首相の対露外交を批判してきたが、この際に木村先生の寄稿文を活用させてもらった。その意味で、木村先生が亡くなったことは、吾輩にとって非常に悲しい出来事になった。

そこで、木村先生を追悼する意味から、「産経新聞」(11月16日付け)に掲載された論説顧問・斎藤勉の記事「木村汎氏を悼む」を紹介する。

ー「四島返還」ぶれずに訴えー

わが国を代表するロシア研究の泰斗で、2年前に第32回正論大賞を受賞した木村汎氏が83歳で急逝した。戦後最初の国家主権・国益喪失事件である北方領土問題に対し、旧ソ連時代から歴史的正義である「四島返還」という立場を貫き、些かもぶれることなく訴え続けてきた信念の人だった。

領土問題が本筋からそれていくことにも厳しい批判を加えてきた。返還運動の重心、羅針盤ともいうべき大家を失い、対露外交の一層の漂流が危惧される。ロシア外交の横暴も災いして、返還への道筋さえ見えない中で、卒然と世を去った本人の無念さはいかばかりだろう。

〈露にだまされるな〉

木村氏の功績の一つは、英首相だったチャーチルにさえ「謎の謎のそのまた謎」と嘆かせたロシアを、また北方領土問題の真相を、平易な言葉でズバリ明快に、時に諧謔も込めて解説してくれたことだ。

北方領土問題はエリツィン時代には「第二次大戦での戦勝国と敗戦国との区別は存在せず、法と正義の原則を適用する」とされ、「領土問題は存在しない」とする独裁者スターリン時代以来のソ連の立場とは真逆に転じた。ところが、秘密警察KGB出身のプーチン大統領が登場して再びソ連時代に「先祖返り」して「戦争結果不動論」に引き戻された。つまり、「4島は第二次大戦の結果、ロシア領となり、国際法で確定している」との虚説だ。

4島占領は歴史的に疑いなくスターリンによる国家犯罪である。プーチン政権の言い分について木村氏は「盗人たけだけしいとしか称しようのないへ理屈」であり、ロシアが主張する自国領の根拠としてあげつらうヤルタ協定は「米英露3首脳による秘密の申し合わせで、日本が順守する理由は存在しない」「ロシアにだまされるな!」と切り捨てた。

極めつきは「やくざの世界」を例にとり、「ゴッドファーザー」のプーチン氏は「善玉」と「悪玉」を使い分ける「分業の名手」と断じた。一時、プーチン氏に代わって傀儡の大統領を務めたメドベージェフ氏は再三、北方領土上陸の蛮行に及んだが、彼は「しばしば悪玉を演じさせられていたのだ」と論じる。一方、プーチン氏自身は「柔道好き、日本びいき」で「日本側との間に橋を架けようと努力する善玉」然と振る舞っているというのだ。

プーチン学で露解読〉

木村氏のロシア研究の成果で特徴的なのは、プーチン政権で現実に外交政策を形成しているのは、「シロビキ」(ロシア語の力を意味するシーラから)と呼ばれる軍部、KGB出身者だという分析だ。プーチン大統領が2014年2月23日の早朝、クリミア併合を決定した秘密会合に、参加していたのは国防相、大統領府長官、安全保障会議書記、連邦保安庁長官で、全員がシロビキだったとすっぱ抜いている。

北方領土交渉の最前線で日本を罵り続けているラブロフ外相やメドベージェフ首相といった「シビリキ」(市民派)はこの会議から外されたという。ラブロフ外相にいたっては「シロビキが撒き散らしたゴミをバケツと箒で懸命に始末する役目だ」と米国のロシア専門家、マーク・ゲレオッティ教授による散々な見方を紹介している。

ソ連時代、西側では赤の広場レーニン廟上に居並ぶ共産党要人の序列などから権力内部を読み解く「クレムリノロジー(クレムリン学)が盛んだった。木村氏はこれにならって「プーチノロジー(プーチン学)」がプーチン政権理解には必要不可欠と説いていた。その一貫として木村氏は大著『プーチン 人間的考察(2015年4月、藤原書店)』で、プーチン統治の本質について、故郷レニングラード(現サンクトペテルブルグ)人脈、柔道人脈、KGB人脈…など人脈からの解読を試みた。

〈独創的で緻密な分析〉

師匠で第6回正論大賞受賞者の猪木正道・元京都大学教授の指導で米国に留学した後、在ソ連日本大使館の特別調査員も務めた。冷戦時代から米ソの現場を踏んでもまれた経験が独創的で緻密な分析を生んだ。

平成29年6月、淡路島・洲本での正論大賞受賞の最後の記念講演を終えた祝宴で、私は「産経は人使いが荒くてすみません」と恐縮していた。80歳を超えた木村氏に、恒例とはいえ3回もの記念講演を無事にこなしていただいたからだ。

「いいえ、光栄ですよ。何しろ私は一時はソ連解体で研究対象を失って商売上がったりになりそうなこともありましたから。いまあるのはソ連に先祖返りしたプーチン大統領のおかげかも」と一笑した。その近くで、木村氏の手書き原稿をすべて打っていた典子夫人が優しく微笑んでいた。

木村氏が死の直前まで打ち込んでいた新しい研究は、最近、とみに軍事的提携を強めている「中露関係」だったという。機を見るに敏、の素早さも木村氏の真骨頂だった。合掌。

長文になったが、どうしても木村先生の主張を知ってもらいたく、全文紹介した。それにしても、最近の木村先生の関心テーマが、「中露関係」とは驚いた。吾輩も「中露関係」に注目して、今月に入って「『中露同盟』は成立するのか」という文章を作成した。その意味で、吾輩の師匠とも言える存在であった。

さらに、さすがに政治学者・猪木正道氏の弟子だけある。それは、猪木先生も昔、ソ連共産主義の危険性を訴えた学者で、吾輩もその著書を読んで勉強した。そして今、現実的に中露の独裁政権からの脅威が、ユーラシア大陸の東西諸国を襲っている。その意味で、もう少し先導役を務めて欲しかった。

いずれにしても、惜しい人物を亡くした。そのことを考えると、我々日本人は、より正確な国際情勢と正しい対応に務めなければならない。改めて、木村先生に合掌したい。