全国の「郷土歴史研究者」を力づける柳田国男

吾輩は、民俗学の父・柳田国男(1875〜1962)の学問を解説できるほどの知識はない。しかしながら、最近古本屋で購入した「我孫子の歴史を学ぶ人のために(一)ー市民の手で創ろう我孫子の歴史講演録集一」(編集=我孫子市教育委員会市史編さん室、発行=昭和58年1月31日)を読むと、柳田国男民俗学の大家に至ったことが多少理解できる。

柳田国男は、数えで13歳の時に両親のもとを離れて、茨城県と千葉県の境である布川(茨城県利根町)に住んだ時、徳満寺(真言宗)で「間引き絵馬」(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見た。この時の衝撃を柳田国男は後年、著書「故郷七十年」の中で「この図柄が、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑へつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているという意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も覚えている」と書く。つまり、こうした悲劇を繰り返さぬことが民俗学を志すきっかけになったというのだ。さらに、講演会では、

柳田先生は子供の時、生まれ在所の播州でも、飢饉の炊き出しを体験しています。そして「その経験が私を民俗学の研究に導いたひとつの理由ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問に駆り立て、かつ農商務省に入る動機にもなったのであった」と述懐されておられます。

ご承知のことと存じますが、徳満寺の絵馬と似た図柄のものは、利根川下流、下総町の中里の楽満寺にもございます。取手市にもあるようでございますが、栃木県でも二、三、同じような絵図が鬼怒川の流域で見つかっておりますし、群馬県の沼田付近の神社にも同じような絵馬がございまして、結局、間引きというのは関東地方一帯に広くあったというふうに思われます。同時に、この地方一帯に間引き、あるいは子堕ろし、つまり生まれた赤ん坊を育てられないような貧しい人びとが多くて、こういう習慣が広まっていったことを意味しております。

実は最近、あまり見たくはなかったが、徳満寺の「間引き絵馬」を見てきた。平日であったが、出入りは自由のようで、中に入って探したところ、70歳くらいの男女三人組が、何かを見ていた。その場所に赴くと、あの「間引き絵馬」が、額縁に入って本堂廊下に掲げられていた。

三人組の一人は「この手の絵は、この辺に多く残されている。その理由は、この辺が浅間山の大噴火(天明3年・1783年)によって飢饉が起きたからだ」旨の説明をしていた。その説明を知ると、取り上げた文面は参考になると思う。

このほか、柳田国男は郷土研究の方法を要約して列挙しているという。

一、最終の目的はどんなに大きくてもよいが、研究の区域はできるだけ小さく区画して、各人の分担をもって、狭く深く入っていくこと。

これは、ちょうど今我々のやっている、市民の手で我孫子の歴史を創ろうということにも通ずるものだと思います。

二、その便宣のためには、なるべくは自分の家の門の前、垣根のへりから始めて、次第に外に出ていくこと。即ち、よくわかるものからわからぬものへ進むこと。

三、文書の価値は勿論軽んじないが、その材料の不足な場合が多いことを知って、常に力を自身直接の観察に置くこと。

つまり、書いてあるものも読まなければいけないが、それだけに頼ると、どうしても解らないことが多くなるなるので、自分が直接見たことを重視しなければいけない。

四、それを志を同じくする者との共同の宝物とするために、もっとも正確かつ忠実なる記録を残すこと。

要するに自分で知っているだけでなくて、記録にしておく必要があるのです。

五、いかなる小さい、俗につまらぬということでも馬鹿にせず、もと人間の始めた仕事である以上は、何か趣旨目的のあったものに相違ないという推定から出発して、一見解りにくいものは、殊に面白く且つ重要なるべしと考えてかかること。

解らないからこれは放り出せというのでなくて、解らないことこそ実はかつて重要だったのではないかというようように考えた方がいいのです。

六、これを解釈する手段としては、できる限り多くの地方と連絡を保ち、互いに相助けて比較をしてみること。必要があればその比較を国の外、世界の果てまでも及ぼすこと。

よく柳田先生は日本のことだけ調べたのだと言う人がありますが、実はご本人は他国の本も沢山読んでおられる。ただ表向きにそれを出されなかった。我々も我孫子の研究をするをするのでありますけれども、必要に応じては外国の史実、世界の果てまでも資料を比較してみる必要が出てくるのではないでしょうか。

七、沢山の無形の記録を保管している人びとに対して、常に教えを受ける者の態度を失わず、まさに文字通りの同情をもってこれに臨むこと。

以上の文章を紹介したのは、全国各地で多くの年配“ミニ学者"が、郷土の歴史を研究しているからだ。吾輩も、地元の歴史を知るために、何回も「郷土歴史講演会」に参加しているが、一番多く聴取した“ミニ学者"(昭和3年生)は、三重県出身の元高校教師である。つまり、千葉県出身の人物ではなく、住み着いた地域を研究しているのだ。そこで思い出したのが、今年5月末に北海道滝上町を訪ねた際、松浦武四郎渚滑川上流の到達点や、遠軽高等女学生たちが学徒動員された工場跡を案内してくれたのは、「この地に住み着いて30年の大阪の人(約70歳)」であった。

さらに、同じ時期に遠軽町の教会を訪ねた際、2〜3年前に遠軽高校を定年退職した元教師の分厚い本が置いてあった。手に取ってパラパラと捲ると、オホーツク管内の歴史などが書かれていた。帰宅後、どうしても手に入れたくて、元教師の勤務先に電話を入れたところ、「あの本は一冊四百ページで五巻ある。一巻あたり30冊を自費出版したが、既に地元の関係者に配ったので手元には一冊もない。読みたければ、遠軽町の図書館に行くしかない」との回答であった。そして、このミニ学者も、地元では「郷土歴史講演会」を盛んに開いている。

要するに、これら「郷土歴史研究者」が参考になると考えて、柳田国男のアドバイスを最後に取り上げた次第である。